「にじさんじGTA」は、なぜ私たちを熱狂させたのか。
はじめに
私たちは物語を求めています。ポストモダン以降「大きな物語」が失われたことで、共通して所有する物語を失い、どこにも容易には所属することが出来なくなってしまいました。故に、物語を大量に消費することで、同じ物語を共通して消費している人と出会い、帰属先を探すという行動を取ってきました。テレビの効力が失われ、その傾向が顕著になった現代を生きる私たちにとってこれはかなりの実感を持つことが出来るのではないでしょうか。
例えば、アイドルオタクが群れを成しアイドルを応援すること、バンドのファンがコンサートに行くような行動は、物語のなかった所・対象に、他の人々と同じ時間、文脈の上過ごすことで物語を生み出し、「虚構の存在」に没頭することで帰属意識を持とうとしている行動に他なりません。
こんなことが、「にじさんじGTA」の話になにが関係あるんだと感じている方もいるかもしれませんが、筆者はこの消費行動こそが、「VCRGTA」でもなく、「にじさんじARK」でもなく、「にじさんじGTA」が、私たちを大きく熱狂させたのだと考えています。それは、どういうことなのでしょうか。
Vtuberとは一体、何者か
そもそも、Vtuberとはどのような存在であるのか、というのは今まであまり整理されてこなかったように思います。故に、ニコ生時代から「配信者」という文化を追っていた筆者の独自の視点から一度整理していきたいと思います。(本稿では、Vtuberと区別するためにVtuberではない、配信者を「配信者」という表記で扱う。)
Vtuberは当初、始祖であるキズナアイに代表されたように、既存の企業によって運営される「虚構の存在」で、キャラ設定に則って中の人がロールプレイをしていたため活動の幅は狭く、生配信ではなく、キャラ設定を順守し易い動画での活動がメインでした。故に、にじさんじが登場してきたときの衝撃はすさまじいものでした。
にじさんじは、当初はライバー事務所として運営するつもりではなかったらしいのですが、結果として、新事業としてVtuberライバーを雇い、運営を始めました。それは、にじさんじライバーの始祖である、月ノ美兎に代表されるように、生配信を主体にある程度自由に振舞うことが許された人々でした。故に、彼らの配信ではキャラ設定と中身が乖離するということが起こりました。(というか、始祖である本人がムカデ人間について言及していたり、「わたくしで隠さなきゃ」みないなメタ発言をしているため、始祖が作り出した流れであった訳ですが。)
このような行動を取るライバーは、元々、ニコ生やツイキャスで活動をしていた、「配信者」と大きく変わらないもので、かなりメタい存在でした。実際、当時のVtuberを中身と外見を同一として見るのではなく、「魂」と「ガワ」と区別して呼ぶ人も多くいました。(これは、多分に皮肉がこもっていた。)名前は出さないですが、実際にじさんじの一期生としてVtuberになる前に、「配信者」として活動していた者もいるため、この指摘は的を射ていたと言えます。このことから、にじさんじ以降、Vtuberは「虚構の存在」でありながら「現実の存在」に近付いたため、「配信者」と大きな違いはなくなったと考えられるでしょう。しかし、筆者は「配信者」とVtuberには、大きな差があると感じていました。というのは、Vtuberにはキャラ設定という名の「キャラ付け」が存在に先んじてあるためです。
例えば、月ノ美兎であるならば、
という「キャラ付け」が存在していて、そうすることでリスナーは初見であっても、なんとなくライバーをイメージしながら配信を見始めることが出来ます。(故に、メタい発言すらもエンタメに昇華される。)
しかし、ニコニコ生放送やツイキャスで配信していた「配信者」は、コミュニティの説明文などで、人となりを想像することは出来ましたが、それには限界があり、実際に配信を深く追ってみるまではどのような人であるのかを把握することは難しく初見のハードルが高い存在でした。つまり、Vtuberは「キャラ付け」によって、ロールプレイを課されることにはなりましたが、初見にも分かりやすい透明性を持った存在になったのだと言えるでしょう。故に、新規が入りやすい環境を作り出すことに成功したと言えます。
また、この「キャラ付け」はもう一つ大きなメリットを有していました。筆者はこのメリットがVtuberを一大ジャンルにまで引き上げたと考えています。それは、「キャラ付け」によって生じる、ユニットの結成に代表されるような関係性の透明化によるライバー同士の関係性の築き易さです。 月ノ美兎が「JK組」と呼ばれるユニットを、樋口楓、静凛と組んでいることは読者であれば、知っていることでしょう。このユニットは、企業側から結成してください、と言われたのではなく、静凛の提案が発端でした。また、二期生である、剣持刀也、伏見ガク、夕陽リリ、家長むぎによって結成された「ハッピートリガー」も同様の流れで結成されています。これはライバー同士が配信を盛り上げるという目的のための工夫ではあったのですが、必然とライバー同士が関係性を築き易い状態になっていたことを表していたと言えます。一斉に箱の中からデビューするおかげなのでは、という指摘も出来なくはないのですが、「キャラ付け」があるのとないのでは、ユニット結成の難易度は全く異なります。というのは、ユニットの配信でなくても、ライバー同士のコラボ配信を楽しむ上で関係性を知らないと、それは熱心に追うことの出来ているせいぜい少数の「身内」によってしか楽しむことの出来ない内輪ノリのようなものになってしまうためです。しかし、「キャラ付け」がされていると、ライバー同士も「キャラ付け」に則ってロールプレイを行うため、関係性が透明化され、初見であってもなんとなく楽しめる配信になります。
つまり、Vtuberという存在は、「キャラ付け」によって、「配信者」の初見のハードルを下げ、関係性が見えてこなかった問題を解決した存在だったと言えます。このように、透明性によってVtuberが持った二つのメリット を「Vtuberの透明性」と呼びたいと思います。そして、このVtuberの透明性によって私たちは想像力が働くだけの情報量が与えられ、「虚構の存在」である彼らの物語を創作しやすくなりました。Vtuberのリスナーの中には、「この中に居たら面白そう。」だと発言する人は、少なくないですが、それにはこのようなメカニズムが働いているのではないでしょうか。
GTAでなければならなかった理由
遠回りをしたように思われるかもしれませんが、以上の説明をすることでやっと、「VCRGTA」でもなく、「にじさんじARK」でもなく、「にじさんじGTA」が私たちをここまで熱くしたのかを説明することが出来ます。
GTAとはどのようなオンラインゲームなのかは読者の方々はよく知っていると思うので、他のARKのようなメタバースとGTAが大きく違っている点だけを取り上げたいと思います。それは、職業に就くことによって役割を獲得することが出来る点だと言えます。勿論、今回の「にじさんじGTA」の卯月コウのように、職業に就かず生活することも可能ですが、GTAの中で敢えて職業に就かないことは、逆に役割を獲得するような側面を持っているため、この地で生活することは無条件に役割が与えられることになっていると言ってよいでしょう。勘の良い読者なら気付いてるかもしれませんが、このGTAというゲームのシステムは「Vtuber」と「配信者」を大きく隔てた「キャラ付け」と非常に似ています。つまり、GTAというメタバースの中で生活するということは、必然と役割という名の「キャラ付け」が与えられることなのであり、関係性が透明化され、関係性を築き易い状態に置かれるということだったのです。そうすることで、彼らは物語を紡ぎやすい環境に置かれました。
しかし、このような状況下で繰り広げられる物語というのは第三者からすればつまらない子どものごっこ遊びになることが大抵です。これは、Youtubeで実況者が行っているようなTRPGのプレイ動画を見ればなんとなく分かると思います。しかし、Vtuberは存在するためにはロールプレイが付き纏う、このようなごっこ遊びを行うプロです。故に、子どものごっこ遊びのような陳腐さというのは軽減されていました。また、先述の通り、にじさんじ以降の彼らは「虚構の存在」でありながら「現実の存在」に近付いたメタい存在であったのですが、GTAというゲーム性によって、メタさが隠される結果になったともいえます。要するに、VtuberとGTAは親和性があるだけではなく、彼らが部分的に失っていたVtuberの透明性が補填されていたということです。これらのことから彼らは物語を紡ぐことが出来たのです。
以上のことから「にじさんじARK」と「にじさんじGTA」の違いは説明できました。では、「VCRGTA」とは一体なにが違っていたのでしょうか。これは、そんなに難しい問題ではなく、Vtuberと「配信者」が混在していたことに尽きます。リスナーにとって、Vtuberは虚構と現実の狭間に居る存在であり、想像力が働く存在です。しかし、「配信者」は、リスナーと正に同じ空間に生きている存在であり、物語の中には存在できないメタフィクション的な存在です。故に、いくらGTAによって「キャラ付け」をされていたとしても「配信者」が含まれるGTAには、物語が発生しづらいのです。また、リスナーの「この中に居たら面白そう。」だという物語に対して抱く想像力も彼らによってある程度達成されてしまうため、二次創作的に消費することも出来なくなります。つまり、「配信者」を含んだ「VCRGTA」は、物語になりきれないエンタメに偏ったものだったと言えます。
あまり「ストグラ」は見たことがないので堂々とは言えませんが、「ストグラ」も「VCRGTA」と同様の仕組みだと考えています。また、「ストグラ」の場合は、終わることのない物語であり、日常なので、一つの物語として消費するには困難だと感じています。なにをもって物語とするのか、というのはまだまだ考慮の余地がある(学問的にも定義がとても困難です)のですが、現時点では、私たちが日々過ごしているような終わることのない日常ではなく、終わりのあるものであり、虚構性の持った存在によって紡がれるものと物語を定義しておきたいと思います。
おわりに
にじさんじは現在150人を超えるタレントを抱えています。しかし、彼らは、登録者数やデビュー順といったしがらみによって、関係性の透明化による関係性の構築のし易さというメリットを活かし切れない状態に陥っていました。しかし、「にじさんじGTA」という企画により、再び彼らはVtuberの透明性を活かせるような環境に放り込まれることで、リスナーの関心を惹きつけることに成功し、どうしようもなく物語を求めてしまう私たちに虚構の存在であるVtuberとして、虚構の舞台であるGTAで物語を提供することに成功しました。つまり、彼らが有している強みのすべてを持って私たちを楽しませてくれたのです。こんなことは、生配信にVtuberの主戦場を移し、150人を超えるライバーを抱えるにじさんじにしか出来ないものでした。本当に楽しかったです、ありがとうございました。また、拙い文章でしたが、最後まで読んでくれた読者にも特別の感謝を申し上げたいと思います。
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