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なんでもない日のご馳走

「ひとりで暮らしはじめてようやく母親のありがたみがわかった。」

なんて、多分ほぼ全ての人が言いそうな言葉だけど、それはまさしくその通りだった。

夜に疲れて家に帰ったあと、あとはよそうだけの状態でほかほかののご飯ができていたり、排水溝の滑りや異臭と戦わなくても清潔なお風呂にすぐ入れたり、気づいたら一昨日着た服に今日もまた手を伸ばすことができるそのありがたみに実家にいたときは気が付いていなかった。

特に違いを感じるのは「ご飯」で、どうしてもひとりや二人で食べるとなるとそんなに品数を用意することができない。ご飯にお味噌汁、メインがどん!とそんな感じだ。調子がいいときは副菜も用意するけれど、基本的にお腹を満たす為だけに料理をすることが嫌いなので、楽しくできないなら適当でいいやと考えてしまう。

「食べる」ことが「生きる」ためのものじゃなかったらもっともっと楽しめるのになあということがある。身体を強くしないといけないから、お腹が空くと元気が出ないから、だから、という理由での「食べる」行為はすきじゃないのだと思う。(『「食べる」ことの大切さ』

実家を出てからふと母が作った料理を思い出すことがある。

すきだったメニューはいくつもあるけれど、結構印象的なメニューとして残っているのは「今日は手抜き!」と宣言した日の夜ご飯だ。

母が宣言する「手抜き料理」とは「食べ放題」の日だった。

じゃがいもとゆで卵がお決まりであとは季節によって少しずつ材料は変わるが、つまりはそれら茹でただけのものを大きなお皿にどんっとのせて「すきなだけお食べ」という食べ放題メニューだ。

テーブルの上は山盛りのじゃがいもとゆでたまごと家にある限りの調味料が並ぶ。それを自分ですきなようにアレンジして食べるのだ。(夏はとうもろこし、冬や大根やこんにゃくもあったような気がする。)

これが小さいときのわたしにとって異常にテンションの上がるメニューで、とはいえ、そんなにたくさんも食べられないから、いかにいろんな味を作るかを考えてちょっとずつ食べるのがだいすきだった。

実家を出てから、たまに戻ってももうあのメニューが出ることはないし、なんなら別にひとりでもいくらでも再現可能なメニューだけど、きっと今はあの頃と同じテンションで茹でられた熱々のじゃがいもの皮を一心不乱に剥けないと思う。

きっと「食べ放題」という響きや自分でアレンジできるというところが楽しかったのだろうなあ。

ここまで書いて気付いた。そっか、食べることにわくわくしていたいというところと一致するんだ。楽しかったから今でも覚えているんだ。

母の味でもなんでもないメニューなのにこれが印象的だったなんて言ったら怒られてしまいそうだけど、今度実家に帰ったときは久しぶりに家族全員で「手抜き料理」が食べたいと言ってみようかな。なんて。





もっともっと新しい世界を知るために本を買いたいなあと思ってます。