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人生の出発地点に着く

真夏の日差しが照りつける京都中心部を抜け、国道171号線で大阪府箕面(みのお)市に入ったのは夕方頃だった。

真っすぐ走れば祖父母の家に着くが、少し寄り道をした。

箕面市民病院の前で、僕はバイクを路肩に止めた。病院のすぐ隣の敷地は草が生えた高台になっていて、そこによじ登った。

田んぼが広がり、街の奥には小高い山が広がっている。どこか懐かしく、馴染みのある風景だ。

ちょうど今から35年前、僕はこの箕面市民病院で生まれた。

それから小学1年生の夏まで大阪の吹田市に住み、父の転勤のため東京の小学校に転校することになった。

以降、正月や夏休みの時期になると、東京から家族で車を走らせてくる。その時は必ず、この市民病院の前の道を通った。

車の中からこの景色が見えると、祖父母や従兄弟のみんなにもうすぐ会えるぞ!という気持ちが高まってくる。

昔から祖父母の家に着くと、決まった流れがある。

久しぶりに祖母に会うと必ず笑顔で出迎えてくれ、そしてハグをしてくれる。これは幼い頃から変わらなかった。だから、僕は祖母をまず探す。庭にいて声を掛けることもあれば、トイレに入っていてドアの外で待ち構えて驚かせたこともあった。

祖父は、だいたい2階の自室にこもっている。だから長兄、次兄、そして僕の3人で到着を知らせに部屋に向かう。

祖父の部屋は、煙草の臭いが漂っていた。大きめの机とベッド、壁には本棚が整然と並んでいる。

祖父はだいたい机の上で新聞を広げ、虫眼鏡を当てながら座っている。僕たちが部屋に入って「おじいちゃん!」と叫ぶと、祖父は立ち上がり、「おぉ、よう来たなぁ~!」と笑顔で出迎えてくれる。

僕たちが大人になってからも、兄弟3人で祖父の部屋によく入った。

「おじいちゃん、煙草めっちゃあるやん!」

と、次兄が言った。書棚の一角に収められたセブンスターの煙草。カートンの箱がびっしりと積まれているのを見つけたのだ。

「でたこれ! おい、見てみ!」

長兄が、昔から祖父の机の上にある木製の置物を見つけ、僕たちに言った。

それは小鳥と茅葺き屋根の家が並んだからくりの木箱で、小鳥の頭部を前に倒していくと、煙草が一本だけ収められた引き出しが開く。小鳥の長いくちばしがその煙草をキャッチする。その煙草を祖父は手で取って吸うわけだ。

その頃は兄二人も煙草を吸っていたし、その置物がやけに印象的だったらしい。よくいじってケラケラと笑っていた。祖父はそれをニコニコしながら見ている。

祖父はそうやって一本一本、2階のあの部屋で一人煙草を吸っていたのかと思うと、今更ながら笑えてくる。

朝起きたらまず一服するほどのヘビースモーカーだった祖父は、80歳まで煙草を吸った。しかしそれ以降、ピタッと煙草を止めた。

箕面市は、北部のほとんどが山間地帯になっていて、大阪の中でも自然が豊かな土地だ。

僕は箕面に住んでいたわけでもないし、育ったわけでもない。だけど、従兄妹と遊び回った街中の道路や公園の景色は今でもよく覚えている。

何度か箕面の滝にも行った。駅の脇から登山道を歩き始めると、並びのお店では箕面名物である「もみじの天ぷら」が売っている。かりんとうのような歯ごたえと甘くて香ばしい食感が好きだ。

山道をさらに登っていくと、どんどん山深くなっていき野生の猿たちがそこらを歩き回っている。箕面の猿のお出ましだ。

やがて、山道は名所の箕面の滝に着く。祖父は、この滝まで毎朝散歩しに来ていた。

祖父母が亡くなってから、ちょうど10年近くが経とうとしている。

祖父は91歳の大往生だった。祖父が亡くなった後、祖母はもうほとんど寝たきりの生活だった。

前にも聞いた話をすることは時々あったが、それでも祖母自身にとって面白かった話や感動した話ばかりで、愚痴話などを聞くことは皆無だった。

だから聞いている方は決して苦痛ではなかったし、何よりも本人が一番幸せだったのではないかと今では思っている。

祖父が亡くなって半年後、祖母は90歳で亡くなった。祖父母は二人とも、僕が生まれた箕面市民病院で亡くなっている。

あれから祖父母が住んでいた家は売却して、箕面の祖父母の家で親戚が集まることはなくなってしまった。

かれこれもう10年近く箕面には行っていない。

あのまま大阪で生まれ育っていたら、今の僕はどんな感じだったのか。

はっきり分かることは、いつでもどこでも大阪弁を喋っていること。そして僕より長い期間を大阪で育った長兄のように、熱烈で時に口の悪い阪神ファンになっていたことだろう。

だけど、現実はそうならなかった。東京の端っこで育った。今住んでいる場所から箕面は離れているし、頻繁に行くような場所でもない。

この旅をした頃は、祖父母もまだ元気だった。小さい頃から何も変わらない祖父母が出迎えてくれた。

僕にとって箕面が特別な場所であるのは、祖父母がこの街で暮らしていてくれたからだ。

東京を出発してバイクで走ってきたこのバイク旅も、そろそろ終盤を迎えようとしていた。

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(2005年当時、祖父母の家で飼っていた愛犬チャコ)

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