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【小説】大桟橋に吹く風 #5 冷静と興奮が入り混じる場所

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#5  冷静と興奮が入り混じる場所

男は、シベリア鉄道でハバロフスクからモスクワ、サンクトペテルブルグを経て、ついにフィンランドのヘルシンキへ入った。

(とうとうヨーロッパに着いた)

ヘルシンキの街に降り立った時、男はそう実感した。

男はさらに列車を乗り継ぎ、スウェーデンやノルウェーなどの極寒のスカンジナビアを1ヵ月余り放浪した。

冬の峠を越えた頃、男はデンマークのコペンハーゲンで皿洗いをしながら日銭を稼いだ。自分も予想していなかった長逗留の後、ドイツ北部の街ハンブルクまで下ってきた。

ハンブルクに滞在した2日間、ほとんど誰とも口を聞くことがなかったが、男にとって印象に残る街だった。

茶色いレンガ造りの時計台から広大なエルベ川沿いを歩いて行くと、対岸には多数のコンテナとクレーン、巨大なタンカー船が停泊しているのが見える。それはまさに港湾都市たる景色だった。

そして、その港で働く男たちの波長に合わせるかのように歓楽街がある。

この街で一番大きなレーパーバーン通りには、風俗店やら連れ込みホテルなど「SEX」という文字のネオン管で出来た看板がずらりと建ち並んでいた。

男が違和感を覚えたのは、ごく庶民的なカフェやレストランも平然とその歓楽街に混在していることだ。

男はこの通りを何度も歩いた。朝も、昼も、夜も。

やはり、夜は一番賑やかだった。日中にはない赤やらピンクやらのネオンライトが男たちのいやらしい顔を照らしている。

通りをぶらぶら歩いている間、嫌でも視界に入ってくるのは店の前で手招きしてくる風俗嬢たちの姿だ。

男は無意識に歩き回っていたせいか、気が付いたら“飾り窓ゾーン"*に立ち入っていた。

そこには、”タイミング”を見計らう野郎どもが群がって歩いている。男もその群れの中を歩いていた。

一人、また一人と飾り窓にいる娼婦の部屋に野郎が吸い込まれていく。

娼婦にもさまざまな娼婦がいる。このドイツという地理的な理由なのか、北西からゲルマン系、西からスラブ系、そして南からラテン系といったさまざまな髪の色や肌の色、顔立ちがある。もちろん、容姿もスタイルも違う。

みんな派手な下着を身につけてポーズを決めたり手招きしたり、ウィンクをして男たちを誘っている。

思わず、男は足を止めた。

すぐ目の前で、若い白人の男がお目当てのドアを開けて入っていったのだ。その瞬間、ポーズを決めていた娼婦の顔から笑顔は消え、さぁ仕事よと言わんばかりに窓のカーテンを勢いよくビシッと閉めた。

男は、その一部始終を目の前で見てしまった。

(なるほど、そういう感じか)

ぼんやりして男がどこともなく見ている時、不覚にも目が合ってしまった。すぐ隣の飾り窓にいる娼婦と、である。

その豊満過ぎる肉体は、窓の大半を占めているほど大きい。長いソバージュの金髪、顎は二重、お腹から太ももにかけてたっぷりと脂肪が付いている。

間違いなく男より歳上だがランジェリーは派手派手しく、深く刻まれたしわと赤い口紅がさらに老けさせてしまっている。男はその娼婦から微笑みかけられていた。

(まいったな...)

地球上に存在する男たちにとって、この歓楽街は欲望を満たすオアシスだ。甘い誘惑に乗るも乗らぬも、それは男たちの自由である。

だが、男はずっと冷静だった。

(“これ”をするために、俺はヨーロッパまで来たわけじゃない)

男は、飾り窓にいる娼婦から目を逸らした。

そして、そこから静かに立ち去った。

男は、ハンブルクから殆どヒッチハイクで移動した。

日本で買ったユーレイルパスは北欧滞在中にとっくに期限が切れている。移動費をなるべく節約して宿泊費に充てたかったのだ。

ハンブルクを去ったその日の昼過ぎ、男はアウトバーン*の休憩施設の駐車場にいた。ここからケルン方面か、あるいはフランクフルト方面に行く車を探していた。ここから少しでもフランスへ近づきたいと考えていた。

駐車場にはたくさんのトラックが並んでいる。こういう時、トラックを選ぶのが一番いい。長距離トラックのドライバーは、基本的にいつも一人で走っているし、会話もせずにただハンドルを握って走り続けている。あのトラックドライバーの孤独感なら男も日本で少し心得ていた。

しかし、そのトラックの群れの中にひと際乗り心地が良さそうなベンツが一台止まっていた。男はそのベンツを見るなり気持ちが揺らいだ。

(これに乗ってみたい。声を掛けてみよう)

男は少しだけ待ってみた。やがて、サングラスを掛けた背の高い中年のおじさんが車に戻ってきた。さっそく男は英語で声を掛けた。

「あの、ケルンかフランクフルト方面まで行きませんか?」

「んっ? お前さん、どこから来たんだ?」

「日本です」

「そりゃあ随分と遠くから来たんだな。お前さんは運がいい奴だ、乗りな!」

男が思っていた以上に気さくなおじさんだった。おじさんは、フランクフルトから少し南に下ったマンハイムという街に帰るとこだったのだ。

車内に乗り込むと、いかにも高級感が漂う本革シートの香りが漂っていた。助手席に座った途端、男は心が躍った。

(こりゃあ最高やな!)

おじさんは、仕事の関係でドイツ国内をよく車で行き来しているらしい。ベンツが駐車場から走り始め、本道に合流していく。

「お前さん、日本からわざわざ一人で来たのか?」

「はい、一人です」

「一人じゃ寂しいだろう。故郷にガールフレンドはいるんだろ?」

「いいえ、いません」

「冗談だろ? ハンブルクはどうだった? お目当ての女の子は見つかったか?」

「ええ、美人があまりに多いので選べませんね」

「ワハハハ! 兄ちゃんも好きだねぇ~!」

ふと気が付くと、男の身体は宙に浮いているような感覚になった。ジェットコースターが急降下する時のあの感覚だ。

思わず男は首を少し伸ばし、運転席のメーターを覗き込んだ。

(やっぱりそうか)

速度メーターの針は、時速170㎞を超えている。

男がさらに唖然としたのは、おじさんは背もたれを45度くらいまで倒し、片足をダッシュボードの上に伸ばしながら運転している。その姿勢でおじさんがこちらに顔を向けて話す時、さすがに男も鳥肌が立った。

そんな調子でしばらく走り続けていた、その時だった。

後続を走る一台の車が快音とも爆音ともいえるような地響きを轟かせながら、一瞬ともいえるスピードでベンツを抜き去っていったのだ。

ポルシェだった。

あの感じだと、時速200㎞をゆうに越えていたに違いない。

その瞬間、運転していたおじさんがそのポルシェに向かって罵った。

「チクショー! クレイジーな野郎め!」

それを聞いた男は、ついつい言いかけそうになってしまった。

(あんたも十分クレイジーや!)

*** (#6へつづく) ***

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。毎週土曜日に小説は投稿しています。

*飾り窓・・・ドイツやオランダなどのゲルマン諸国にみられる売春宿の形態の呼称。商品を陳列するための大きなショーウィンドーから転じて呼ばれた。

*アウトバーン・・・ドイツ、オーストリア、スイスの自動車高速道路。一部の区間をは例外として、基本的には速度無制限道路。現地の人にとって、時速200km前後で走ることは珍しくない。特に忙しいビジネスマンは、昔からアウトバーンを国内移動のために活用している。

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