暗闇を照らした光
冬晴れの午後、リュックサックとブーツを車に積んだ。
東名高速を静岡方面へ1時間ほど走らせる。
その山の情報はざっと調べておいた。
標高1200m、頂上から富士山の全景を一望できる。登山口からは1時間ほどで頂上まで行ける。登山初心者にも登りやすく人気がある山だ。
山の名前は、金時山(きんときやま)といった。
*
登山口の駐車場に着いた時、すでに15時を過ぎていた。
駐車場には車が数台止まっている。車のそばで着替えをする登山客の姿もあた。もちろん、彼らはこれから家に帰るところだ。
僕が登り始めた時、駐車場には僕の車以外にシルバーのセダンが1台止まっているだけだった。
(明るいうちに頂上には着けるだろう)
後先のことなど全く考えず、僕は1人で登り始めた。
*
序盤からなかなかの傾斜を登っていく。
やがて、登山道をせき止めるかのような巨岩が目の前に現れた。
(これが金時宿り石か…)
金太郎が母の山姥(やまんば)と暮らしていたと言われる伝説の岩である。
(で、でかい…)
見上げるほどの巨岩を回り込むようにして歩き、さらに登っていく。
次第に呼吸が激しくなっていき、ペースも落ちてきた。
時々、立ち止まっては山の裾野に広がる街の景色を眺めた。
街に少しずつ明かりがつき始めている。
頂上まであと数百メートルの所で、岩に座り込む1人の登山客と遭遇した。
酷く疲れた様子で顔色も悪い。僕は心配になって声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと急に調子が悪くなってな。はぁー、はぁー、はぁー」
「一緒に降りましょうか?」
「いや、俺なら大丈夫だよ。少し休めば良くなる。頂上行くんだろ? 俺は大丈夫だから行きな」
その中年男性の見た目や口調からして、僕より登山経験が豊富なのは明らかだった。結局、僕はそのまま頂上に行くことにした。
「気を付けて降りてください」
「あぁ、ありがとよ」
*
頂上に到達した。
途中、ペースは落ちたが所要時間はほぼ予定していた通りだった。
澄み渡った空が黄金色に染まり、富士山の全景が僕を迎えてくれた。
(やっぱり来て良かったな)
頂上には茶屋がある。その茶屋は一人の”娘”が守っていた。
登山客たちからも親しまれているこの山の有名な”金時娘”だ。
”娘”とはいっても、もう高齢のおばあちゃんである。
僕はしばらく立ち尽くして絶景に見とれていた。その時だった。
金時娘が、戸締りをするために茶屋の入り口に一瞬だけ姿を見せた。
僕の存在に気が付くと、呆れた口調ですぐにこう言った。
「はよ下りなはれ」
まもなく、茶屋は完全に閉ざされた。
*
僕は、山を下り始めた。
金時娘の一言によって動き出した時はもう遅かった。
それから日が落ちるまでは一瞬の出来事だった。
さっきまで見えていた登山道が暗闇の中に消えた。気温も一気に下がった。
そして、ここでもう一つの事実に僕は気が付いた。
ヘッドライトを持っていない。
登り始めたのが遅かったことは言うまでもないが、この時間から山に登るのであればヘッドライトは必須アイテムだ。
この頃、行き当たりばったりで山に1人で行くようになっていた。登山が趣味ですと言えるほどのものではなく、ただ登ろうという気持ちが先走りしていた。
ライトがなければ、街灯もない夜の山を下りるのは困難だ。
最悪、頂上の山小屋に戻ってあの金時娘に助けてもらうほかない。ただ、あの一言が僕の頭に残り続けていた。
ふと、ポケットの中に光を生み出すハイテク機器があることに気が付いた。
スマホだ。
手に取ると、すぐに内蔵ライトを点灯させた。
暗闇の中に、小さな希望の光が生まれた。
決して強力な光ではなかったが、辛うじて足元の状況は分かる。
ゴツゴツとした岩、砂利、冬枯れの落ち葉がやけによく見えた。
背中を丸めて低い姿勢になりながら、ゆっくりと降りていく。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ
静かな闇の中に、ブーツで落ち葉を踏む音だけが聞こえた。
1メートルほど先までは見えるが、それ以外は全て暗闇であることに変わりはない。
恐怖が常に襲ってきた。真横から、背後から。
獣が僕をさらに深い闇の中へと引きずり込みはしないか。
やがて、暗闇を照らす光がとてつもなく大きな物体の一部を照らした。
僕はぎゅっと身体を縮めた。自分の何倍もの大きさがある。
僕はもうその存在をすっかり忘れていた。
登ってくるときに突如現れた巨岩、金時宿り石だった。
暗闇に浮かび上がった巨岩の姿は、恐ろしさの次元を超えて時間を止めた。動くはずがない岩が、じっとこちらを睨みつけているように思えた。
まるで”生き物”のように。
宿り石から少しずつ離れていくと、僕は落ち着きを取り戻した。
(ここまで来ればもう少しだな)
ふと、手に持っていたスマホの画面を確認した。
(バッテリー残量10%…)
僕は急ぎ足になった。
何より、早く安心できる場所に戻りたい。人がいる場所へ。
そして、僕の視界に新たな光が横切った。同時に聞こえた。
道路を走る車の音とヘッドライトの光だった。
僕は安堵し、やがて登山口へと戻ってきた。
時間にすれば小一時間だが、随分長く感じた。
「ふぅー」
駐車場の隅には、僕の車だけがぽつんと止まっていた。
***
これは2015年11月の話です。
この頃に比べれば、今はまともに登山を楽しんでいますのでご安心を。