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インバウンドと私と2024:第三話「バランスの芸術」

2024年3月18日、なんばのエディオンアリーナ大阪は熱気に包まれていた。
年に6回ある大相撲のうち、大阪で大相撲が見られるのは3月だけで、春場所(はるばしょ)と呼ばれている。
年明けからたくさん問い合わせがあった。この春、初入幕で初優勝という大番くるわせが起き、春場所は大いに盛り上がった。


どこの座席で相撲が見たい?

水色の座布団が敷いていあるのが座ぶとん席。後ろのオレンジ色のシートが椅子席。

大相撲のチケットを買うとき、土俵に近いほどいい席なのでチケットが高くなる。しかし、大相撲のいい席は総じて座ぶとん席。床に座ることに慣れていない海外ゲストはこれが大きな壁で、私の経験では多くの海外ゲストが椅子座を希望される。今回、エヴァさんたちも例外ではなかった。

遡ること数ヶ月前、フロリダのエヴァさんからガイドの依頼がきたとき、23人グループだと聞いて驚いた。兄弟姉妹とその子供・孫たちと、義母や義兄弟などみんな一斉に日本に来るという珍しいパターンだった。
私がガイドするプライベートツアーは4人家族が多く、祖父母が来て6人とか、友人が加わって8人とかを引き受けることがある。20人を超えるのはもうプライベートとは呼べない大所帯だ。
お問合せを受けたときは一瞬断ろうかと思ったが、エヴァさんに熱心に口説かれ断りきれず、引き受けてしまったのだった。中型のバスと運転手さんを雇って大阪、神戸、姫路を旅行することになった。大阪ではぜひ大相撲を見たいとのことだった。

さて、23人のうち、大阪で大相撲が見たい人は12人だった。
人数が多いのでフロリダと日本を繋いでみんなの家族会議にリモートで参加した。一番最初に聞いたのは、どこの座席で大相撲を見たいかということだった。リモート家族会議で自己紹介をしたあと、相撲に興味津々の皆さんに座席の説明を始めた。

We need chairs!

まずはいい席の利点を述べる。価格は高いけど、近くで力士を見られ臨場感たっぷり、お弁当やお土産がついてくるチケットもある。ただし、椅子ではなく座ぶとんというクッションに座るんです。と画面上に枡席(ますせき)の座ぶとんの写真を見せた。

目が点になる海外ゲストたちなんだこの薄っぺらい布は?とでも言いたいのだろう。そう、大相撲の座ぶとんはお世辞にも座りごごちがいいとは言えない。ペラッペラなのです。(ちなみに、一番前の「砂かぶり席」は、座布団がやや分厚い)
もう一つの壁は、ひとり分の座席幅がものすごく狭いこと。四人一組がぎゅうぎゅうになって座る枡席(ますせき)は、足を伸ばすスペースもない。体の大きな海外ゲストだと、4枚の座布団に一人か二人で座ってちょうどいいくらいのサイズ感だ。

しばらく押し黙るみんな。
ひとりが言った。
「The ticket price being high is no problem. 」
(チケットの価格が高いのは問題ないよ。)

「You know, since we are here, why not pay for better seats. But… 」
(せっかく行くんだから、いい席のために全然払う。でもぉ)

私は、画面に椅子席の写真を出した。
この会場は、大相撲の期間以外はボクシングやバレーボールの試合が開催される府立体育館で、階段状の観覧席が四方を囲んでいる。観覧席は跳ね上げ式のオレンジ色の椅子で、これが急な傾斜に沿って一番後ろの壁ぎわまで続いている。枡席(ますせき)に比べ土俵まではかなり距離がある。

「Some of my former guests had a hard time remaining sitting on floor seating style.」
( 以前のゲストの中には床に座り続けるのが難しい方もいらっしゃいました。)

やんわりと、床座の心配事をお伝えする。
「I think you are right. 」
(あなたのいう通りだと思う。)
ためらうみんなを代弁してエヴァさんが言った。
「We need chairs. We are old! 」
( 椅子がいいです。私たち、年寄りだから。)
最後は、茶化すようにぺろっと舌を出した。
ということで、椅子席の中でなるべく良い席に座ることに決まった。

「しゃがむ」が困難な欧米ゲスト

We are oldとおっしゃったが、実際のところoldかどうかはあまり関係がない。若くても、床に座るというのが本当にできないひとがいる。
正座は、「JUDO習ってます」という例外を除いて、ほとんどの欧米ゲストが困難だ。あぐらはできる人が多い。
問題は、そこに至るまでの「しゃがむ」と、床から「立ち上がる」という行為だ。手すりがない場所でスクワットをするように膝をまげ、お尻を床に下ろす。これができずに、転倒してしまう人がいるのでとても危ない。また、床から膝を立ててお尻をあげ、体全体を持ち上げて立ち上がる。これもできない。
理由は生活習慣の違い、骨格の違い、筋肉の違い、足首の柔らかさの違いなど色々な指摘がある。
なので、oldかyoungかに関わらず相撲の枡席のような狭い空間で手すりなしにしゃがむ→座る→立ち上がるが想定できるかどうか、よくよく確認するようにしている。じゃないと危険!

エディオンアリーナ大阪へ行こう!

普段は体育館だけど春場所の期間だけ大相撲の特別仕様になる
力士のパネルと記念撮影できる

ツアー当日。午前中からの観光とランチを終えて、エヴァさんたち12人を連れてエディオンアリーナ大阪に到着したのは3時半ごろだった。ちょうど最も上位の力士たち、幕内力士(まくうちりきし)が土俵入りしようとするタイミングだ。

「エディオンアリーナ大阪」は、大阪最大の繁華街のひとつ、難波エリアに位置し、観光して昼食をとった後行くのに絶好の場所にある。春場所の間は入り口に色とりどりの「のぼり旗」が立ち、力士の名前や部屋の名前がはためいている。

場内に足を踏み入れると、むわっとした熱気を全身に浴びた。ここが普段ボクシングやバレーボールの試合をする体育館だとは思わないだろう。アリーナの中央に土俵。天井からは巨大な屋根が吊り下げられていて、それがアリーナの中心に特別な神聖さを落としている
私たちは土俵が目の前に見える枡席(ますせき)を横目に通り過ぎ、スタンドの椅子席に進んだ。

午後3時半ごろ、幕内力士(まくうちりきし)と呼ばれる上級の力士たちが入場する

単独無敗の力士TAKERUFUJI

みんなをスタンドのS席に案内し、そのうちの数人を売店や手洗いに慌ただしく案内しているうちに取り組みが始まっていた。
手元の、TODAY's BOUTS と書かれた新聞紙のような白黒の用紙に目を落とす。これは英語版の取組表で、外国人っぽいと判断されるともぎりのスタッフさんが無料で手渡してくれる。
Around 14:15 Juryo Entrance (14:15ごろ十両の入場)
などざっくりしたタイムテーブルが一緒に掲載されている。

十両(じゅうりょう)は JURYO Intermediate Division (中級部門)
幕内(まくうち)はMAKUUCHI Senior Division(上級部門)
とそれぞれ英訳されていて、力士の名前も全てアルファベットになっている。力士の名前の横には本日までの勝敗も掲載されている。9日目なので、(WIN-LOSE 4−4)など勝ち負けがちょうど同数の力士もあれば、(WIN-LOSE 7−1)など一度しか負けていない力士もあった。

ふと、ひとつの項目に目が止まった。
「TAKERUFUJI  WINーLOSE 8ー0」
ということは、8勝して無敗の力士だった。
他の項目に8−0はなく、無敗の力士はこのひとりだけのようだ。タケルフジとはどんな力士だったっけ。
英語版の取組表の横には、英語版の番付表も掲載されていて、上からYOKOZUNA(横綱)、OZEKI(大関)、SEKIWAKE(関脇)、と東西に分かれアルファベットで力士名と部屋名が載っている。その中から目だけでTAKERUFUJIを探した。
横綱の照ノ富士と一瞬見間違えた。照ノ富士はアルファベットだとTERUNOFUJIとなり、TとFUJIが一緒で字面が似ていたのだ。アルファベットにすると、とたんに力士名は読みづらくなる。
 あれ?ない。
ざっと目だけではその名前が見つけられず、今度は番付表にひとさし指を添えて上から下に一行ずつTAKERUFUJIを探した。ない、ない、ない。無敗の力士なので、上の方から探したのだが見つからない。下に行くほど番付は下がる。
 
ない、ない、ない。あ、あった!
その名前は番付表の一番した、MAEGASHIRA#17(前頭17枚目)という番付であった。

番付表の1番下の力士が、たった1人無敗というのはなんとも心躍る展開だ。今日も勝つだろうか。
取組票のTAKERUFUJIにボールペンでマルをつけ出場を楽しみに待った。

SHIKOをふめ!

土俵に目をやると、呼び出された東西の力士が足を高く上げた。一番高い場所で一瞬静止して、踏み下ろす。膝を折り曲げ、深く、深く腰を下ろす。

「That's SHI-KO, right? 」( あれはシコでしょ?)
とエヴァさん。四股(しこ)のことだ。

SHI-KOという言葉を有名にしたのは、2023年に全世界で配信されたNetflixのオリジナルドラマ『サンクチュアリ-聖域-』だったと思う。エヴァさんが相撲に興味を持ったのもこのドラマの影響だった。
ドラマの中で四股はそのままSHIKOと訳され、主人公が強くなっていく際の重要なキーワードとして何度も登場する。重心を低くバランスを保つことのできる足の筋肉と柔軟性を手に入れるため、主人公が何度も四股を踏む姿が印象的なのだ。

「SHIKOができてねえやつは弱いやつ。」
「強くなりたかったらSHIKOをふめ。」
何度も、何度も、強くなるためのトレーニングとして、SHIKOが視聴者の目に焼き付く。

ドラマが四股をSHIKOとして最高にクールに切り取ってくれた。それが相撲のもつ格闘技としてのクールさをぐっと引き上げてくれたと思う。

クールよりファニーだったSumo

バルーン状の相撲力士衣装。パーティの余興で人気。

相撲を裸バージョンの面白いレスリングだと思っている海外ゲストは多い。
アメリカのアマゾンでは sumo suite (スモースーツ) といってバルーン状の着脱できる相撲力士の衣装が人気で、パーティーの余興を盛り上げて笑いをとるために使われていたりする。子供用にまわしがカラフルなピンクやブルーになっているデザインなんかも存在する。相撲の印象はクールよりファニーに大きく寄っていたと思う。

エド・シーラン「Shape of you」のミュージックビデオより。

エド・シーランが2018年にグラミー最優秀賞を受賞した曲「Shape of you」のミュージックビデオにもこの手のsumo suite (スモースーツ)が登場する。スモースーツに身を包んだエド扮するボクサーが、土俵で敵の力士に追いかけ回された挙句、まわしを取られる屈辱を受け、その仕返しとばかりに彼女(元カノ?)がジャンピング・キックで力士に挑む、という日本人からしたら何もかもチグハグなシーンがこのMVの一番の落ちとして使われていたりする。

四股は強さの象徴、そこに神が宿る

何を隠そう、わたし自身も相撲には大人になるまでファニーな印象を持っていた。大相撲をライブで見たことがあれば違っていただろうが、テレビの中だけで見かける大相撲は、時々わたしのお気に入りのテレビ番組を放送休止にしてくるよくわからないものだったし、丸くて大きい力士たちにはサッカー選手や野球選手と比べ「シュッとしない体型」という表面的な印象を持って子供時代を過ごした。

相撲は神にささげる神事であるということを、通訳案内士の勉強をするようになって初めて知った。試験対策の教科書の中で、相撲はちょっと引くほどページ数が割かれていたのを覚えている。学べば学ぶほど相撲にまつわる全てが神事でできていた。
中でも「四股は地中の邪気を払うための神事だ」という通訳問題は頻出だった。この試験勉強で「相撲は神事」「四股は神聖」が頭にすり込まれ、自分が海外ゲストに四股の説明をするときは、四股の持つ神聖な意味を伝えることに必死になってきた。
しかし、相撲の神秘性をいくら言葉で訴えても、そのファニーな印象まで拭えたかと問われると完全に力不足だと感じてきた。そしてやっと、四股が強さの基礎であるという説明がすっぽりと抜け落ちていたことに気づいた。

Netflixのドラマでは、SHIKOはシンプルに強さの象徴として描かれている。
SHIKOに挑む男たちの痛みや汗が、結果的にSHIKOに洗練された神秘的なスポットライトを落とした。言葉で「これは神事です」と言われるよりもずっと説得力を持ってSHIKOを、相撲を、神ががり的にクールなものに見せていた。

試合開始の合図はありません

「立ち会い」をする力士。なかなか始まらないことも多い。

 塩をまく。
 向かい合い、膝を折り曲げ、腰を深く下ろしていく。
欧米のゲストが苦手な、特別な姿勢だ。
試合開始が近い。
エヴァさんも、他のみんなも、息を呑んでその瞬間を待つ。
「始まるーーーー。」
ふ、と力士の体が重力に逆らって立ち上がる。
あれ?始まらないの?」と首を傾げるゲストたち。
 相手とは反対方向に歩き出す力士。
 また向かい合う。よーい。
 またふっと立ち上がる。
 またあらぬ方向へ歩き出す力士。
この繰り返しだった。

What is going on now?
(今、どうなってるの?)
What are they doing?
(彼らは何をしているの?)

「They are getting psyching to start the match.」
(試合開始のために気合を高めているんだよ)
「Waiting for the moment to take the lead.」
(優位に立つ瞬間を待ちながら)

ふーん?とさらに深く首を傾げるゲストたち。それもそうだよね。
スポーツの開戦はふつう、審判の「よーいどん」とか「はじめ」の合図によって下される。相撲はプレイヤーが相手と目を合わせて両手をつく瞬間がスタートの瞬間。その瞬間を自分達で決める。審判役である行司も、たっぷりとその時間を与える。制限時間は4分、その後は待ったなし。
この試合開始の時間を「立ち会い」といい、うまく「呼吸」が合わなかった時は「仕切り直し」といって、スタートをやり直すことができる。え、スタートがやり直せる?と驚かれる。スタートがやり直せるなんて、そんなスポーツは他にない

How do the rikishi know when to start?
(力士はいつ始めるかをどうやって判る?)
後ろの席からゲストの1人が尋ねてきた。

うーん、それは日本語では「呼吸が合ったとき」と表現されるが、果たして「呼吸が合う」とはどんな感じなのかと問われると困ってしまう。まず簡潔に You read the body language. (ボディーランゲージを読み取るんだよ)と言ってみる。しかし、それにしても「呼吸」という要素がうまく伝わった感じがしなくてまた困る。立ち合いはボディランゲージと呼ぶにはあまりにも些細なものをdeal(処理)している時間に思える。

「They are looking for the moment of ….」
(彼らはその瞬間を狙ってるんですよ、えーっと)

呼吸。呼吸?
直訳はbreath(ブレス)だけど、息を合わせるというときget in sync (ゲット・イン・シンク)と言ったりするので。

「…synchronizing with each other,」
(お互いにシンクロする瞬間を。)

と言ってはみたが、言ったそばから自分の頭の中に浮かんだのはシンクロナイズドスイミングだった。(今はアーティスティックスイミングというらしい)
これだと力士ふたりが協力して一緒にパフォーマンスを行うというような印象を与えるかな、と思い直し、あわてて付け加える。

・・・but also trying to read each other's mind to get an advantage.
(同時に、優位に立つようお互いの心を読み取ろうとしています)

そしてこの時間には観客が期待感をふくらませる、suspenseful excitement (ドキドキ、わくわくする感じ) があるんだよ、とも。
なるほど、この謎めいた「いつ始まるか分からない時間」をドキドキ過ごすものなのね、という納得感は与えられた。

こんな感じで、立ち合いで交わされる呼吸なるものをゴタゴタと訳してしまった。力士が聞いたら序の口にも立てぬと怒られるかもしれない。

おしだし?よりきり?つきおとし?

王鵬が「おしだし」で勝利した。その後も「おしだし」での勝利が続く。

「ただいまの決まり手は押し出し〜」と、アナウンスされるのが聞こえてくる。耳ざといゲストが質問してきた。あれは何を言っているの?あれは winning technique (ウィニング・テクニーク) である Kimarite (決まり手) がアナウンスされている。

「So you want to push the other out of the ring.」
(リングの外に相手を出すのですね)
と理解するゲストたち。
そうだ。一番分かり易い勝利の技は土俵の外に相手を出すこと。しかし決まり手のアナウンスはもっと細かく勝利の方法を伝えている
相撲は、「勝ったのはいいが、どのように勝ったのか」にうるさい。
私のような素人からすると見分けがつかない細かい違いが区別され、決まり手の数がいっぱいある。どのくらいあるか?なんと全部で82種類もある。


82種類の中で「押し出し」は最もよく見る決まり手で、相手の体を手のひらでどんどんと押して土俵の外に出す。'Frontal push out'と訳される。
同じように土俵の外に押し出すのでも、相手の「まわし」を掴んで体をくっつけるようにして押し出す決まり手は「よりきり」。’Frontal force out’として区別して訳されている。ゲストに伝えるときは  You get a belt grip and push the other out of the ring. (まわしを掴んで相手を押し出す)と伝えている。

土俵の外に出さずに勝つ方法もある。
You lose when you touch the ground with any part of the body except the soles of your feet.」
地面に足の裏以外の体のパーツをつけると負けです。)

相手を地面に触れさせる決まり手でよく見るのは「突き落とし」。
向かい合っている状態で相手の重心を傾かせ、手前に払うようにして斜め下の地面に落とす決まり手だ。押されて劣勢かのように見える力士が急に相手をかわすので面白い。逆に優勢に見えていた方の力士が前につんのめるように傾き、両手や肘を地面につけてしまう。
この「突き落とし」は'Thrust down'と訳される。直訳すると「突き下げる」とそのままだ。この技は「相手の重心が斜め下に落ちていく」感じが印象的なので、私は
Drop the other's center of gravity diagonally downwards.
(相手の重心を斜め下に落とす)
などと説明している。実はもっと細かく「まわしを握らない」とか、「片手をわきに当てる」という条件があるので、これは突き落としだなと思っていても違う決まり手がアナウンスされることも多い。

静から動へ。バランスの芸術。

単独無敗で勝ち上がっていた尊富士(たけるふじ)が登場した。観客がいっそう沸いて、千秋楽のような盛り上がりだった。東側の座席に座っていた私たちには、西側の尊富士(たけるふじ)の表情がよく見えた。

 四股を踏む。
 腰を深く下げる。
 ツヤのある明るい紫色のまわし。そこから、のれんのようなヒラヒラの紐が垂れていて、腰を深く下げていくときに両手でそのヒラヒラを横に払う。
 すぐ立ち上がる。
立ち会いの駆け引きだ。
 またしゃがむ。ヒラヒラを横に払い、その動きのまま流れるように両手の指先が土俵にわずかに触れそうになる。
 立ち上がる。
 もう一度仕切り直し。
時間はたっぷりと使われた。

待ったなしの時、尊富士(たけるふじ)は両足で土俵の土を後ろに払い、体をゆするような動作を見せた。
その動きを見ながらゲストたちのテンションが盛り上がり「相手を煽っているのかな」と言っていた。私には自分を落ち着かせるための動きに見えたので、同じボディランゲージでも違う印象を与えるのだなと面白かった。さっき教えたとおり、おのおのが期待感をふくらませながらこの「いつ始まるか分からない時間」を楽しんでいる。

 先に手をついたのは尊富士(たけるふじ)。
 相手の目をじっと見ている。
相手はこれでもかというくらいゆっくりとためて、なかなか手をつかない。会場内にはりつめる「静」の空気。
 連勝の記録がかかっている。
 負けてほしくないな。
そんなことを考えているとーーー。
相手の力士の手が地面に触れ、次の瞬間、激しくぶつかり合う。1秒後、尊富士(たけるふじ)は相手の力士を土俵の外に押し出していた。

「Soooo, fast…」
(めーっちゃ、早いね。)
ゲストの一人がSoの'ooo’の部分を長く伸ばすようにして呟いた。

「静」から「動」へ空気が傾いた直後、勝敗は一瞬できまった。
この一瞬の空気の傾きを、何十年も前に Art of the balance (アート・オブ・バランス)と呼んだフランス人の詩人がいたそうだ。Art of the balance. バランスの芸術。

なるほど。そう言われてみれば芸術的なバランスシフトだ。表面張力でぎりぎりに張り詰めた緊張に、最後の一滴がそそがれ一気に決壊するようなエネルギーのバランスシフト。
しばらく呆気に取られてから、思い出したようにみんなが拍手を送った。もうくぎづけだった。

110年ぶり!新入幕で優勝

大阪の大相撲のほか、神戸の神戸牛ツアー、姫路の姫路城ツアーを行った。大人数のガイドは予想以上に大変で予想以上に楽しかった

エヴァさんたちは尊富士(たけるふじ)を大変気に入り、この日以降もテレビで春場所を見守っていた。尊富士(たけるふじ)はぐんぐん成績を伸ばし、本当に優勝してしまった。後から知ったが、尊富士(たけるふじ)は新入幕の力士、つまり力士になって今回初めてSenior Division(上級部門)で戦った。番付表の1番下にいたのはそのためだ。新入幕で優勝する力士は珍しい。どのくらい珍しいかというと、そんなことを成し遂げた力士が登場したのは110年ぶりだという。歴史的な勝利を見ることができてゲストたちはラッキーだ。

春場所から帰る夜道はあたたかかった。興奮で上気しているせいかと思ったが、夜風がいつもよりあたたかいのだった。それもそのはずだ。春場所の季節は冬と春が攻めぎ合う季節と重なっている。寒さに静かに耐えていた蕾が一気に花開く季節がやってくる。

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