「陰謀論」は無くならない

人は誰でも、他者からの評価を気にするものだ。
他人から「愚かしい人物」とは思われたくないものだろう。
その為に、何かを語ろうとする時には、極力間違った事は言わないよう、注意深くなる。

だが実際には、数多くの人が論理的な妥当性の無い主張を自信満々に披歴している。
ネットと言う狭くなりがちなメディアでも、マスメディアでもそう。
また、知的に優れているとされる社会的ステータスを備えた人であっても、論理的、科学的に正しくない主張に流されてしまう様子をしばしば目にする事がある。

ここから導かれるのは、
 「人は誰でも、安易に騙されてしまうものだ」
と言う事実だ。

多くの人が非常に疑わしい情報に惑わされるものに「陰謀論」がある。
古今東西を問わず、その時代その時代、特定の地域から世界全体を巻き込む物まで、数多くの「陰謀論」が存在した。
今回は、「陰謀論が生まれる訳」を掘り下げて行きたい。


人は「誤解する生き物」

「直感的思考」と「論理的思考」

月刊ムーやオカルトだったら何でもござれのたま出版に代表されるように、科学的証明が無い話に惹かれ、それを楽しむ文化は昔からあった。

人間は直感的思考論理的思考の組み合わせで物事を思考する。 
当然、直感的思考が先に発生し、論理的思考が後から来る。

直感的思考は素早い判断を行う為に必要だ。
動物としての危機察知能力に繋がる思考能力だから、素早い事が何より大事となるからだ。

例を挙げて考えてみよう。
大木の向こうに動物の姿が見える。
大木の右側に頭が見え、左側に尻尾が見えていて、それがほぼ同じ高さにあった場合、人は直感的に「この大木で隠れた部分に胴体がある1匹の動物だろう」と推察する。
大脳が見えていない部分を自動で補って、1匹のサイズをイメージさせるからだ。

だが、冷静に考えれば、2匹の動物がいて、それぞれの頭だけ、尻尾だけ見えてる可能性だって普通にある。
見えてないだけでもっと多くの動物が潜んでいたっておかしくない。
だが、そう言った論理的に正しい情報を思考するのは、必ず直感的思考の後になる

視覚的錯覚(錯視)はこの直感的思考に働き掛け、人間の誤認を積極的に生み出すデザインになっている。
パッと見だけで全体像を想像出来るのは動物的に必要な能力だ。

また、パレイドリア現象と言うモノがある。
これは、何かを見たり聞いたりした時に、自分が見知っているパターンを想起する心理現象の事を指す。上側に2つ、下側に1つの逆三角形に配置された点を見て、顔に見えるのもパレイドリアの一種だ。
(この3点が顔に見える現象を特に「シミュラクラ現象」と呼ぶが、学術的な正式用語ではないらしい。パレイドリア現象は学術用語でもあり、認知機能の研究対象の一つのようだ)

「経験からの学び」は「必ずしも正しくない」

このような無意識下での情報処理が、直感的思考と大いに関わって来る。
 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
と言う名言がある。これはドイツ宰相・ビスマルクの言葉だ。
これは「経験から学ぶ事が愚かしい」と言っている訳では無い。
「多くの人は自ら失敗して、そこで得た経験を次に生かす事が出来るようになる。特別賢い者は歴史を学ぶ事で最初から成功をつかみ取れる」
と言った意味合いの話だ。
まぁ、「本当の愚者は経験した所で学ばない(学べない)」と言う真理もある訳で、「経験から学べる」時点で「愚者」と言うのは厳しい表現な気がする。
ただ、これは人間が学びを得るスタイルに対する至言である事は間違いない。
多くの人は、経験した事柄について、何らかの学びを得る。
だが、その学びが必ずしも論理的思考に適うものだとは言い切れない。
経験に対して”働いてしまった”直感的思考を、あたかも「正しい思考」と誤認するリスクがあるのだ。
常日頃、意識的に論理的思考を働かそうと考えている人でなければ、直感的思考に振り回される方が余程多いだろう。

その典型例が”ジンクス”だ。
スポーツ選手などは特に、”ジンクス”と言う考え方を大事にする人が多い。
ジンクスは元々、不吉なこと、人知を超えた避けられない運命を指す言葉でネガティブな意味を持っていたが、今では善悪両方の意味合いで使われている。
基本的には自身の運動能力がどれだけ実力通りに発揮できるかどうか、の世界でしかない訳だが、その成果を見せる本番を前に日常的な生活スタイルから特定の行動を決めておく、つまりジンクスを大事にするのだ。
試合前のルーティーンに関して言えば、練習通りの力を最大限発揮させる為、練習中に繰り返し体に染み込ませた動きを再現し、適度な緊張感で集中力を高める意味合いがある為、これはジンクスとは必ずしも一致しない。
だが、「勝利している間は下着を変えない」だったり、「試合会場には右足から入る」のように、明らかに運動能力の発揮に繋がらない決め事を自分に課す事は、完全にジンクスに振り回されている状態だ。

ジンクスの考え方として、

「もし上手く行かなかった場合、本番までの様々な事、些細な行動すら『ああしなければ良かったのかも』と悩んでしまいがちだ。
これを避ける為、結果が良かった時の行動を極力再現しておく事で、『結果が良くなかったのは運を含めて仕方が無かったのだ』と割り切る事が出来るようになる。
その為に、自分の中で決め事を作っておくのだ」

と明確に言語化し、実践しているスポーツ選手もいる。
精神的に無駄な消耗を避ける為、これはこれで一つの効率的な対処と言えるかも知れない。
ただ、第三者的にはそのジンクスに縛られた行動選択のどれもが、論理的思考では正しさを証明しようもないものばかりだ。

「守株(しゅしゅ)」と言う故事成語がある。
韓非子にある話で、宋の国の農民が野良仕事の途中、野兎が走って切り株に衝突し、首が折れて死ぬところに出くわした。その農民は仕事を放り出し、その切り株に次の兎が飛び込んで来るのを待ち続けた、と言う逸話だ。
北原白秋作詞、山田耕作作曲の童謡「待ちぼうけ」はこの守株のエピソードを歌ったものだ。
「二匹目のどじょうを狙う」、「柳の下のどじょう」とのことわざも、たまたま鳥が食いそびれたか、どじょう売りが落としたのか、たまたま柳の下にどじょうがいたのを見付けた者が、もう一度どじょうが獲れないかと待ちわびる姿を表現したものだ。
共に、「経験から適切ではない学びを得て、間違った行動選択を行ってしまう」事を諭す内容だ。

ジンクスにしても、守株などのことわざにしても、「経験からの学びが必ずしも正しくない」事を示すものだ。
特にことわざは生まれてから現代まで廃れる事無く言葉として生き残っている時点で、多くの人の共感を得るものだった証明を携えている。

「経験」は「先入観」の土台であり、「先入観」は「認知バイアス」を生み出す

人は「経験」から常に「学び」を得るが、上述した通り、その「学び」必ずしも正しい訳では無い

しかし、個人的、または社会的な「経験」は、その個人、または社会に「先入観」を作り出す。
「経験」に対して抱いた「直感的思考」から始めて、導き出した妥当性の怪しい結論を、「正しいもの」として個人、社会的に認識する。
そうして「正しいもの」だと認識された内容が、すなわち「先入観」だ。

「先入観」と言う単語が、どのような文脈で使われているかを考えれば明らかだが、これは物事を正しく見ようとする上で邪魔な存在だ。
「認知バイアス」とは、経験、先入観によって適切な思考が難しい状態となり、非合理的な結論を導き出す心理現象を示す言葉だ。

このような文脈で説明されれば、多くの人が
 「先入観は良くないんだな」
 「認知バイアスに陥らないよう、注意しなければならない」
のように考えるだろう。
それ自体はまさにその通りで、物事を理解する為の正しい姿勢なのだが、人間はここを理解した上でさえ、「先入観」や「認知バイアス」を引き起こすのだ。
これが「先入観」、「認知バイアス」の恐ろしい所だ。

何故このような事が起こるかと言うと、「直感的思考」を「論理的思考」によって自力で認識する事が先ず困難だからだ。
「認知バイアス」、「先入観」を排除するには、経験から得てしまった「間違った学習」を取り除かなければならない。
だが、経験的に得られた(と感じた)「正しさ」、「ある事物への認識」を全面的に捨てるのは非常に難しい。
直感的思考で無意識下で発生した学びの全てを、論理的思考によって吟味し直すなんて事は普通に無理な話だ。

さらに普通の人ならば、「社会常識」に必ず囚われる事になる。
「社会常識」とはその多くが、その社会に所属する人達の経験的に得られた正しさを反映したものだ。日常生活を平穏無事に暮らせるのは、「社会常識」を理解し、そこから逸脱しないよう心掛けているからだ。
普通に暮らしていれば、論理的思考から必ずしも正しいと言い切れない社会常識に従っているはずだ。
「常識を疑って掛かる」のは言うのは簡単だが、実践するのは容易な事ではない。

これらの事情を正しく踏まえるならば、
 「先入観、認知バイアスを発生させずに生きる事は不可能」
と言う結論に至る。
 「人は生きていれば、必ず先入観、認知バイアスに左右される」
とも言えるだろう。
これが見出しで語った「人は『誤解する生き物』」の意味だ。

大事なのは、「論理的思考」によって正しい結論を導き出そうとするタイミングで、自分の思考の中から「直感的思考」部分を認識し、これを極力排除する事で、「先入観」や「認知バイアス」の影響を最小化しようと試みる姿勢だ。
「先入観」、「認知バイアス」をゼロに出来ると確信するのは、自身の思考に対する過剰な期待であり、驕りだ。
人は驕りによって論理的思考から遠ざかってしまう。
 「分からない事を分からないと正直に言える」
 「判断が付かない事に対して判断を保留する」
このような情報に対する真摯な態度、謙虚さと自分の思考の限界を認める勇気があって、初めて「論理的思考」を十分機能させる事が出来るのだ。

「陰謀論」は無くならない

この先、どれだけ人類が歴史を積み重ねようと、同時代に生きる人間すべてが「論理的思考」の正しい使い手になる事は無いだろう。
今現在の社会が「論理的思考」にきっちりしたがって運営されている訳では無い。
社会がただ回る上では、必ずしも「論理的思考」に従う事が必要とされていない。
また、誰もが「論理的思考」を求める時代なんて、どんな前提条件が揃えばそうなるのか、皆目見当もつかない。

つまり、この先も人間は誤解し続けるのだ。
そして、何時の時代も一定割合の人間が非合理的な結論に「正しさ」を感じ、「陰謀論」に振り回される事だろう。
論理的思考を大事にする人がどれだけ努力しようが、「陰謀論」を発生させなくするのは不可能だ。
私たちに出来るのは、「陰謀論」が発生した後に、「それが如何に論理的に間違っているか」を詳しく説く事だけだ。

「陰謀論」は常に発生し得る。
特別な事ではない。
だから、「陰謀論」に振り回される人を前にして、殊更その人の知性を蔑み、貶めるような言い回しはすべきじゃない。
誰もが「陰謀論」にハマる可能性を秘めているのだから、そこには寛容になるべきだ。
「陰謀論」自体の間違いを厳しく指摘する事に妥当性があっても、ハマった人を糾弾する必要は無い。
それは陰謀論に正にハマっている人にとって、転向する事をより難しくしてしまう。
批判を甘受する事が自身の愚かさを認める事と同義であるならば、多くの人は陰謀論信者のままでいる事を選んでしまうだろう。
論理的思考から陰謀論者を減らしたい、陰謀論による社会への害悪を減らしたいと考える人にとって、望ましくない結果を生むのだ。

ここまで論じて来たように、
 「『陰謀論』は無くならない」

と私は考える。
だが、これを人間社会に対する諦めとして言っている訳では無い。
人間の本能的な思考の働きの一部なのだ。
生存競争を生き抜いて来た動物としての本来的な機能であり、これを予め無くそうとするのは、人間が人間らしさを失う事も意味する。
過剰表現でも無く、人間への嘆きでもなく、ありのままを単純に受け入れる意味で、
 「『陰謀論』は無くならない」
のだ。

<了>

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