リスナーインタビュー【94】男性/40代前半/たこ焼き屋の場合
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男性/40代前半/たこ焼き屋
福岡県在住
リスナー歴38年
■私のラジオ歴
入院した時に母が『ドラえもん』の歌をリクエストしてくれた
初めてラジオに触れたのは、4歳で大病を患って入院した時のことです。感染する恐れがある病気だったので、子供病棟ではなく、隔離病棟に1ヵ月ほど入院することになったんです。
親は一緒に泊まってくれましたが、病室は個室でした。部屋にテレビはありましたけど、見る気にはなれず、あとで親に聞いた話によると、僕はずっと外の景色を見ていたそうです。毎日、窓から子供病棟でみんなが楽しそうに走り回っている姿を見て、「いいなあ」と思っていたのを覚えています。
そんな僕を不憫に思ったのか、おじいちゃんがポケットラジオを持ってきてくれました。地元は兵庫県なんですが、その当時はまだ地元にFM局がなく、AMだけしか聴けなかったんですけど、試しにラジオを付けてみたら、スピーカーから大好きだった『ドラえもん』の歌が流れてきたんです。
無邪気に喜んでいたら、その歌と一緒に「早く病気を治して、また元気に保育園に行こうね」というメッセージも読まれて……。実はうちの母がその番組にハガキでリクエストをしていたんですよ。番組名は覚えていませんが、放送局はラジオ関西だったと思います。本当にビックリしましたけど、4歳ながらすごく嬉しかったですね。
母はもともとラジオ好きで、病院に通院する時にカーステレオから流れていたのもいつもラジオでした。母がMBSラジオリスナーだったので、よく『ありがとう浜村淳です』が流れていて、自然と一緒にMBSラジオを聴いていましたね。
小学校低学年から『ヤングタウン』を聴き始める
自分から積極的に聴くようになったのは小学校2、3年生の頃でした。家に使っていないラジカセがあったので、試しにラジオを付けてみたら、いつも車で聴いているMBSラジオが流れてきて。それからは家で毎日のように聴くようになりました。
学校で勉強しても、友達と遊んでも、家に帰ってきてからはいつもラジオでした。テレビも見るには見ていましたけど、たぶんラジオが楽しく感じたんでしょうね。もしかすると、僕自身が根暗だったのかもしれませんが、とにかくラジオを聴いているのが楽しかったです。
当然、聴いていた番組は子供向けではありません。親に「寝なさい」と言われながら、イヤフォンでこっそり『MBSヤングタウン』を聴いていました。当時はよしもとや松竹の芸人さんが主に担当していましたが、関西は週末になるとテレビで漫才が当たり前のように放送していたので、「知っている芸人さんが喋っている」という感覚でした。内容は小さかったのでよくわからなくても、お喋り自体は楽しかった印象があります。
小学校高学年ならいざ知らず、まだ2、3年でしたから、それでも聴いていたということは、当時から相当ひねくれていたんでしょうね。普通の子供がするようなことはしたくなくて、あえてラジオを選んで。性格的にもかなり偏っていたような気がします。当然、友達にリスナーはいませんでした。ラジオの話をしても、友達自身ではなく、その親御さんが『ヤンタン』を聞いている場合があったので、「『ヤンタン』なんか聴いてるの?」と驚かれました。
小学3年生の時、初めてハガキでネタコーナーに投稿しました。『裕司と雅子のガバッといただき!!ベスト30』(ニッポン放送)にハガキを送ったら、すぐに読まれたんです。ラジオから自分のラジオネームと書いたネタが流れてくるのは不思議な感覚で、今まで感じたことのない気持ちになりました。叫びたくなるような、天に昇るような気持ちでしたね。それ以降、ハガキ、FAX、電話リクエストといろいろと送るようになりました。自分では“ラジオの病気になった”と思っています(笑)。
小学校高学年の頃は、学級新聞を作る機会があったので、そこでオススメのラジオ番組について書いてアピールしていました。放送局や周波数まで加えて。その影響で、数人はラジオを聴くようになったと記憶しています。夜になると音楽のリクエスト番組が多かったので、周りには電リクに参加して、ノベルティがもらえることにワクワクするような人たちがちょっとずつ増えてきた感じでした。
中学生でニッポン放送を遠距離聴取
中学生になった頃、自分でお年玉やお小遣いを貯めて感度のいいラジカセを買いました。それを使うと、夕方ぐらいになると他の地域の電波も拾えたので、この頃からニッポン放送を直接聴くようになりました。
ニッポン放送の『上柳昌彦の花の係長 ヨッ!お疲れさん』や『加トちゃんのビバノンラジオ全員集合』をよく聴いていたのを覚えています。特に『花の係長』にはどハマりして、その流れで22時台からやっていた井出功二さんの『ゲルゲットショッキングセンター』や、さらに深い時間の『オールナイトニッポン』も聴くようになりました。
『花の係長』は上柳さんが男性ひとりで、アシスタントも付けずにメッセージに対して適度に笑いを入れたり、ツッコんだりしながら話していて。上柳さんは音楽にも精通しているので、聴いたことのない洋楽や邦楽も流してくれるし、とても新鮮に感じました。中学時代は部活もやってましたし、放課後は友達と遊んでましたけど、だいたい18時ぐらいになると周りに「帰る!」と言って、家でニッポン放送を聴いてましたね。
一時期、上柳さんの影響で、ニッポン放送のアナウンサーになりたいと考えていた時期があります。1年間ぐらい夢見ていましたけど、頭が良くていい大学に進学しないとなれないと気づき、自分の学力じゃ無理だなと思って諦めました(苦笑)。
当時は地元の放送局も聴きながら、ニッポン放送にも手を出して、いろいろな放送局をローテーションしながら聴いていました。ラジカセは2台持っていたので、120分のカセットテープに録音もして、毎日のように様々な番組をチェックしていましたね。
住んでいた場所の影響からか、FMはKISS FM(兵庫エフエム放送)とNHK-FMしか電波は入らなくて、FM大阪やFM802がなかなか聴けなかったんです。ただ、隣のFM岡山やFM香川は聴けたので、そこでネットされていた『中島みゆき お時間拝借』(TOKYO FM)や『赤坂泰彦のミリオンナイツ』(TOKYO FM)を聴いたりもしていました。いろいろなラジオを聴けることがとにかく楽しかったので、当時はメチャクチャ聴いていましたよ。
高校時代に有線放送を自宅に導入
高校時代になると、誕生日プレゼントとして親に有線放送(現USEN)を家で聴けるようにしてもらいました。当時は「家でも有線が聴けます」というキャンペーンをショッピングセンターなどでやっていたんですけど、それをお願いして。有線を導入したことで、クリアな音声で関東と関西のラジオが聴けるようになりました。そんな状況になったので、朝から夜までずっとラジオ漬けの生活になりましたね。頭が悪いながら勉強もしていましたけど、勉強しながらやっぱりラジオを聴いていました。
当時の投稿は、地元のKISS FMやABCラジオの『ABCミュージックパラダイス』あたりが中心でした。高校生になると周りにラジオを聴いている人たちがさらに増えたんで、自分のハガキが読まれると、翌日は学校でその話題ができるようになりました。こういう状況になったのはとても嬉しかったです。少しずつ同級生の中にリスナー友達が増えていきましたし、久しぶりに地元の友達に会ったら「この間、読まれてたよね」と言ってくれた時もありました。
その後、栄養士&調理師関連の専門学校に進学しました。もともと母子家庭で、お祖母ちゃんとの3人暮らしだったんですが、母は仕事で夜遅くまで家におらず、普段はお祖母ちゃんと食事を取っていたんです。ただ、お祖母ちゃんは漬物とご飯しか食べない人だったので、「これは栄養が偏るなあ」と自分なりに考えて、料理をするようになりました。
『クッキングパパ』とか、料理のマンガが好きだったので、それを見ながら見様見真似で料理を作るようになって、お祖母ちゃんに食べさせたり、母に試食してもらってダメ出しされたりしていました。そのうちに栄養士と調理師の資格を取ろうと考えるようになって、それで専門学校を選びました。先ほどもお話ししたように、ラジオ関連の仕事はもう無理だと諦めていましたね。
最初は栄養士になって、保育園の給食のおじさんになりたかったんですけど、専門学校の進路担当の先生に「お給料は安いし、男がなる仕事じゃない」と言われてしまい、「それになりたいから学校に入ったのに……」と夢がなくなって落ち込んでいました。それでも、調理関連のバイトもしていたので、料理を作る方向に行けたらいいなと考えていました。
専門学校時代はバイトを3つ4つ掛け持ちしつつ、それなりに遊んでもいたので、さすがにラジオを聴く頻度は減りましたね。それでも録音して『オールナイトニッポン』を中心に関東のラジオを聴いていました。その当時『ヤンタン』は週末の笑福亭鶴瓶さんや明石家さんまさんだけになっていたので、MBSラジオはあまり聴かなくなっていたように思います。
流転の日々でもラジオは聴き続けた
20歳で地元から離れて大阪の会社に就職が決まったんですが、就職して1ヵ月半後に会社の不祥事が発覚し、5人いた新卒が全員リストラなってしまいました。そこからは迷走して、20代は仕事しては辞めて、仕事しては辞めての繰り返しでした。
21歳になった頃、思いきって東京に行こうと決意し、荷物ひとつで上京したんです。東京に行けば、どこか住み込みで働けるんじゃないかと思って。本当にボストンバッグ1つで東京に出てきて、最初はネットカフェで寝泊まりしながら、求人誌をチェックしていたら、たこ焼き屋の店長の求人があったんです。関西人だし、たこ焼きには馴染みがあるから自分でもできるんじゃないかなって思って。とりあえず仕事をしたいし、社員にもなりたいからと応募しました。そうしたら、すぐに採用されて。「大阪で1ヵ月間研修してください」と早くも大阪に戻ることになったんですけど(笑)。
研修を終えた後、約2年間は東京でたこ焼き屋の店長をやっていました。会社がお店の運営自体をやめるとなってからは、またいろいろな仕事を転々としていたんですが、「たこ焼きの仕事が楽しかった」という思いが強くて。だから、たこ焼き屋としての修行は続けていたんです。そして、26歳の時、栃木の益子町にいる私の師匠から移動販売のノウハウを教えていただき、それを活かして、2014年10月からキッチンカーで移動販売するたこ焼き屋を始めることになります。
仕事を転々としながら、ずっとラジオは聴いていましたね。自分の人生で一番逃げ腰だった頃で、何をしても続かなかった時期なんです。最初のリストラがキッカケで、2年店長をやっていたけど、お店が潰れることになって、その後も何をしても全て上手くいかず、続かない毎日だったんです。
迷いながらやっていましたけど、その時によく聴いていたのはNACK5でした。カーラジオでいつも聴いていたんですけど、特に好きだったのがバカボン鬼塚さんと玉川美沙さんがやっていた『The Nutty Radio Show 鬼玉』。たま(玉川)ちゃんの声は大阪時代に聴いていたので、「たまちゃんが埼玉で喋ってる!」と思って聴き始めました。この番組がきっかけでメールをまた送るようになり、小林克也さんの『ファンキーフライデー』には今でも投稿し続けています。1日中NACK5を聴いていましたね。
mixiのコミュニティに入ったことでリスナー仲間ができて、地方出身の人間だけど、すごく仲良くしてくれました。オフ会をやったり、一緒に公開生放送を見に行ったり。一番しんどい時期でしたけど、今はそういう仲間がいたから乗り越えられたのかなと思います。
背中を押してくれた日高晤郎さんの言葉
ただ、20代後半にはまた大病を患ってしまって……。地元の兵庫に帰ってしばらく療養していました。バイトはしていたんですけど、やっぱり好きだから、たこ焼き屋でバイトしていましたね。体調が悪化してしまい、この先働けるかどうかわからない状況でした。その頃は「人生1回なら自分の思うようにしたい」という気持ちはあるけれど行動はできず、くすぶっていました。
そんな時期にハマったのが『ウイークエンドバラエティ 日高晤郎ショー』(STVラジオ)です。北海道で絶大な影響力を持つ番組で、とにかく主体がリスナーからのハガキ、FAX、電話なんです。だから、思いきって自分の気持ちを手紙にして、送ってみることにしました。
「人生同じようなことの繰り返しで、逃げてばっかり。病気を患い、体調も崩してしまった。一度きりの人生だから、どうにか自分自身の力で歩んでいきたいけど、どうやったらいいかわからない」。そういう内容の手紙を番組宛てに送ったんです。
それが幸運にも番組で採用されて、晤郎さんに「1回スタジオに遊びにおいでよ」と声をかけていただきました。この番組は基本的に公開生放送で、30人ぐらいのスペースで毎回やっていたんですよね。それならば、旅行兼ねて1回お邪魔しようと思い、札幌に行って、生放送の現場にお邪魔したんです。
晤郎さんにご挨拶したら「君か。9時間楽しんでいき」と言っていただきました。朝から夕方まで生放送を現場で見ていたんですけど、晤郎さんの言葉1つ1つに力があったんです。ちょいちょい僕のこともいじってくれて、「たこ焼き屋をずっと続けてきたなら、これからたこ焼き屋をやればいい。北海道ならこんな食材があるから……あっ、でも高いか」なんて笑ってくれて。ずっとトークを聴いているうちに、晤郎さんの言葉が持つ力の大きさをヒシヒシと感じて、涙が止まらなくなりました。
番組終了後、晤郎さんはスタジオに来た人たちひとりひとりにあいさつをして、握手をして終わるんです。その時に私が「ありがとうございました」と声をかけたら……。「9時間見てわかったでしょ。自分がやりたいと思ったら、どうやってでもやるべきなんだよ。俺は俳優もやって歌手もやったけど、結局それを辞めて、ラジオという世界で自分を表現しているから、今こうやって続けていられる。だから、自分を表現できる場所で思いっきりやってみな」。そう言ってくださったんです。その言葉に背中を押されて、自分の力でやってみようと決意しました。
ラジオから生まれた縁をキッチンカーで繋いでいく
まずは地元の兵庫県からスタートしました。ちょうど地元でお店をやっている方や企業の社長さんと知り合うタイミングがあり、「ここにお店を出していいよ」と言っていただける場所がたくさんあったので、またキッチンカーでたこ焼きを販売するようになりました。
軌道に乗って6年半は地元で販売を続けていましたが、2021年に新型コロナウイルス問題が起きて、急に飲食店がキッチンカーを始め出したんです。兵庫県から助成金が出る時期だったこともあり、みんな安易にキッチンカーを始めるから、そればっかりが増えて。特に関西なんで、みんなたこ焼き屋さんを選択するんです。その影響もあって、赤字ではないけれど、これ以上の黒字は望めない状況に陥っていました。
そんな時、マンガの『クッキングパパ』のことを思い出したんです。作者のうえやまとち先生は福岡出身なんで、マンガの舞台も博多なんですね。ふとそれが頭を過りました。ちょうど爆笑問題の太田光さんが全国各地のラジオについて話すようになって、よく沢田幸二さんがやっているKBCラジオの『PAO~N』が話題にしていました。その影響もあって、僕も『PAO~N』を聴くようになり、KBCラジオを中心に福岡のラジオも聴くようになっていたんです。
そこでまた縁が繋がって……。以前から応援していた元お笑い芸人さんが福岡のコミュニティFMで番組をやっていたんですけど、そこにグルメブロガーの上野万太郎さんもレギュラー出演していたんです。なんとなくメールを送ったら採用されて、「たこ焼き屋をやっているのでコラボしたい」とお話ししたら、上野さんから「1回焼きに来る?」と提案してくれました。それがきっかけにトントン拍子に話が進んで、営業許可も取り、試しに1週間出店させてもらうことになったんですね。
いざ販売してみたら、コロナ禍だったのに、たくさんのお客さんが来てくれて。九州のリスナーさんとのつながりもできていたので、売り上げも上がったんです。それを受けて「もしかしたら、これは最後のチャンスかもしれない。ライバルの多い兵庫でダラダラとやるよりも、思いきって場所を変えてみよう」と決断して、博多中心の形に変えることにしました。それが2021年1月のことです。4月の終わりには引っ越しました。そのインフルエンサーの方が協力してくれて、出店場所を探してくれたので、5月の頭からいい形でスタートしたんです。
今もキッチンカーで全国のラジオを聴き漁る毎日
それから3年半経って、今に至りますが、仕事のほうは順調です。本当にラジオが作ってくれたご縁によって人生が変わった経験をたくさんしてきたように思います。今もたこ焼きの販売をしながら、いろいろな番組を聴いています。生放送の番組を選ぶようにしていますね。
平日の朝は横山雄二アナウンサーがメインでやっている広島RCCラジオの『平成ラヂオバラエティごぜん様さま』を聴いて、昼は『PAO~N』を聴きつつ、名古屋の東海ラジオで大前りょうすけさんがやっている『OH! MY CHANNEL!』も聴いています。
夕方に聴いているのは広島FMの『江本一真のゴッジ』やFM宮崎の『Radio Paradise 耳が恋した!』あたり。夜に聴く番組は日によってバラバラなんですけど、よく聴いているのはナイターオフにやっているKBCラジオの『MANDAN』やRKBラジオの『服部さやかのシュンすぎ』でしょうか。聴きたい番組が被った時は、その日の気分で選んでいます。
週末はまた聴いている番組が違って、土曜日の日中はニッポン放送ですね。『ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回』から『サンドウィッチマン ザ・ラジオショー サタデー』という流れになっていて、夜は大分とか、沖縄とかの番組をチョイスしています。日曜日は朝からずっとTBSラジオを聴いている感じ。『ONE-J』、『安住紳一郎の日曜天国』、『爆笑問題の日曜サンデー』という流れです。日曜日の夜はそんなにラジオは聴いていなくて、家のことをしたり、翌週の仕込みの時間に当てています。
『ゴッジ』のコーナーで、とある企業の社長さんに「自分のやりたいことや夢をプレゼンする」という企画があるんです。僕は「たこ焼き屋を100店舗にしたい」という夢があるので、昨年そういうメッセージを送ったら、社長さんが興味を持ってくださって、ラジオに出演させていただき、お話もして。損益計算書とか、原価表とかも作って確認していただいて、たこ焼きも試食してもらった結果、フランチャイズじゃないですけど、加盟店という形で地方店を始めてくれたんですよ。『ごぜん様さま』も含めて広島のリスナーさんとの繋がりも広がってきました。
こうやって仕事に繋がっていることを考えると、radikoプレミアムで全国のラジオが聴けるようになって本当によかったと思います。自分の好きなラジオを聴きながら、ちょっと自分の思いをメールで送ったら、ちゃんと反応してくれて、対応してくれるのは本当に嬉しいですし、それがきっかけで人生が180度変わりましたから。それもこれもラジオがあったからこそです。単純に電波だけで聴く時代だったら、その地域だけの話になってしまいますから、radikoは大きな繋がりを生んでくれるものだと思います。
キッチンカーだとラジオを流せるのはとても大きいですね。やっぱりひとりでやっていると寂しくなるんですよ。お客さんが来てくれたら喋れるんですけど、喋れない間は寂しいもので。音楽を聴いていても飽きるから、1日中ラジオを流していますね。飲食店は別ですけど、キッチンカーではラジオをかけている方は多いと思います。
■自分が思うラジオの魅力
ラジオは想像しながら楽しむメディア 双方向性も魅力
声と音だけで五感に刺さる言葉や音楽が自分に直接届くところです。テレビは音声よりも映像のほうが記憶に残ると思うんです。でも、ラジオは五感を研ぎ澄まして、想像しながらパーソナリティのお喋りや流れている音楽を吸収するじゃないですか。だから、考えながら楽しめるメディじゃないかなと感じています。
自分でも投稿しているからわかるんですけど、家族や友達に言えない話でも、ラジオだからこそ文章にして投稿できるんだと思うんですよね。以前、ハガキやFAXが中心だった頃にパーソナリティの方が「筆圧や文字の書き方でその人の人となりがよくわかる」と言っていたことがあるんです。投稿している側としても、こういう人間だって知ってもらえるのは嬉しいし、たとえパーソナリティが自分のことを覚えてもらえなくても、自分の思いを直接届けられるのはありがたいじゃないですか。
自分ではどうしようもないことをひとりで抱え込んで悩んでいるんじゃなくて、ラジオだったら直接パーソナリティに届けられるし、それに対する返答ももらえる。今はネットが主流になっていますから、さらにSNSで他のリスナーが励ましてくれたり、意見をくれたりもする。今はラジオも双方向で言葉のキャッチボールができるようになりましたけど、そこも魅力だと思います。
■一番好きな(好きだった)番組
カッコ良さが際立っていた『上柳昌彦の花の係長 ヨッ!お疲れさん』
一番好きだった番組は『上柳昌彦の花の係長 ヨッ!お疲れさん』です。まず僕は上柳さんの声が好きなんです。若い頃からなんですけど、いかにもアナウンサーさんという感じの綺麗なお喋りじゃなくて、庶民的な部分を持っているじゃないですか。同時にアナウンスの技術力はすごく高くて、聴いていて耳心地のいい声をされているんです。
ハガキ、FAX、メールひとつひとつに対して、ちゃんといいものはいい、違うものは違うと言ってくれる。バカバカしいメッセージには「バカだなあ」と言いながら、笑いの要素も入れてくれる。喜怒哀楽をきちんと持ち合わせているんですけど、それを単純に表現するんじゃなく、上柳さんらしい言葉の引き出しを活かして、わかりやすく伝えてくれる。そこはとても魅力的ですね。ずっとラジオに出ていらっしゃる方ですけど、それだけ活躍できるのは、リスナーからも放送局からも支持されているんだと思います。
あとは、鶴瓶さんとの掛け合いが好きなんですよね。共演している『笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ』(ニッポン放送)も聴いています。鶴瓶さんの『ヤンタン』に上柳さんがゲストで来られた時があったんですけど、上柳さんは兵庫県出身の関西人なんで、自分から「漫才の形式でやりたい」と言って、サンパチマイクをスタジオに立てて、立った状態でラジオをやったんです。鶴瓶さんは「こんなこと考えるアナウンサーはおらん」と驚かれて、それから鶴瓶さんは上柳さんのことが大好きになって、『ヤンタン』も一時期は立ってやっていたんですよ。
上柳さんはアナウンサーであると同時にエンターテイナーなんですよね。“言葉の魔法使い”というか。言葉で人を引きつけるアナウンサーさんはたくさんいらっしゃいますけど、その中で群を抜いてカッコいいと思います。
時間がゆったり流れる『ちょうどいいラジオ』
今好きな番組と言われたら、FMヨコハマの『ちょうどいいラジオ』。光邦さんがパーソナリティの朝の番組なんです。光邦さんは過去に同じ局で夜の『tre-sen』、そこから移動して夕方の『Tresen+』をやっていて、今は朝の番組を担当されています。
僕と世代が近いんですけど、光邦さんは同世代に対しての思いに共感してくれる方です。どんなにバカバカしい話でも、どんなに真面目な話でもすべてに共感してくれるんです。いい具合にいじってくれるし、いい具合に受け止めてくれるし、いい具合に否定もしてくれるんですよね。FMにはあんまりそういうパーソナリティがいないので、そこはカッコいいなあって。
自分が20代後半で大病を患った時に、翌日の手術が不安で、メッセージを送ったことがありました。その時に光邦さんが本気で応援してくれたのが嬉しくて。今は朝の番組ですから、リスナーのメッセージを読むよりも情報を伝える部分が大きいですけど、朝のバタバタした時間帯でも、光邦さんのお喋りを聴いていると、時間がゆったりと流れるような感覚になります。僕が尊敬するパーソナリティのひとりですね。
■ラジオで人生が変わった(心が震えた)瞬間
思いきって『日高晤郎ショー』の見学に行った時
先ほどお話しした『ウイークエンドバラエティ 日高晤郎ショー』を見学した時ですね。僕の人生においても、かなり大きな経験です。あの時、意を決して北海道に行ってよかったなと思います。行ってなかったら、今のこういう人生は送れてないかもしれないですから。あの頃の自分に「よく北海道に行ったね。あの時に行ったから将来の自分があるんだよ」と伝えたいぐらいです。
よく行こうという気持ちになったなって不思議に思うんですよ。ラジオはテレビや他のメディアよりも行動に移そうという気持ちにさせてくれるんだと思います。パーソナリティの方からすると、1対大勢として喋っているんでしょうけど、聴いているほうは1対1の感覚で聴いているので。語りかけてくれるのが嬉しいし、パーソナリティに呼ばれたら「行かなきゃ」って勝手に使命感が出てくるんですよね。
節目節目でラジオに人生を変えてもらっているので、今後も新しい出会いがきっとあるのかなとは感じています。でも、一番は毎日楽しく聴かせてもらっていることに感謝したいですね。
■自分がパーソナリティになったら、番組のテーマ曲は何を使う?
オープニングは『BITTER SWEET SAMBA』、エンディングは高橋優の『明日はきっといい日になる』
自分でもコミュニティFMで番組を持っていたんですが、絶対叶わない話ですけど、『オールナイトニッポン』をやりたいので、曲を選ぶなら『BITTER SWEET SAMBA』を使いたいです。
恥ずかしい話なんですが、僕は3回結婚しているんです。2回目の結婚式の時に、好きな楽曲を使っていいよと言われて、ケーキ入刀の時に『BITTER SWEET SAMBA』を流しました。周りには変なヤツだと思われているでしょうね(笑)。年上の方が多かったので、『オールナイトニッポン』の曲だとはわかったみたいですけど、「このタイミングでこの曲をかけるのか」とツッコまれました。
オープニングが『BITTER SWEET SAMBA』なら、エンディングは高橋優さんの『明日はきっといい日になる』がいいです。
商売を始めてすぐの頃にリリースされた曲なんですけど、ひとりで商売をするって悩んでもひとり、売り上げが下がってもひとり、トラブルがあってもひとりなんです。特に最初の頃はわからないことだらけで、失敗が続いていたから、物凄くきつかったです。
でも、恥ずかしさとプライドがあるからそのことを人には素直に喋れない。毎日落ち込んでいた時に、聴こえてきたのがこの曲です。とても励まされました。商売を始めてから10年になりますけど、何かあるたびにこの曲を仕事の行き帰りなどで聴きながら、自分を奮い立たせてやってきたんです。
ちょうど『オールナイトニッポン』の放送が終わったら、もう翌日の朝じゃないですか。そんな時に、「今日ダメだったとしても、明日も生きていればいいことがあるよ。人生はプラスマイナスゼロになるんだから、ずっとマイナスにはならない」……と励ましてくれるような曲なんですよね。自分のテーマ曲になっているというか。昨年12月に自分のやっていたラジオは終了したんですけど、最後にこの曲を流しました。
■私にとってラジオとは○○である
私にとってラジオとは「お米」である
お米は人間にとって必要なエネルギーの源ですよね。特に日本人であれば「お米」って必ずと言っていいほど食卓に上がるじゃないですか。炭水化物なので、食べ過ぎると太りやすいけれど、食べないとエネルギー不足で体も弱ってしまう。ラジオもそれに似ているような気がして。
心の栄養バランスというか、心の状態によって、聴きたい番組も選べるし、聴き過ぎてしんどくなったら、別に聴かなきゃいいわけです。自分の中の活力源であることは確かで、絶対的ではないけれど、そばにいる存在だなって。それが普段食べている白いご飯と重なって、「お米」を選びました。
ラジオは他のメディアに比べると、本音が出やすいと思います。今はコンプライアンスが叫ばれていて、ちょっと自主規制をしている、言いたいことを言い切れてない方がいっぱい出てきているような気がしていて。表現としてはちょっと微妙な発言だったとしても、それが言えるのもラジオの魅力だし、パーソナリティ自身が持っているものだから、それを聴けるのが本来のラジオなのになって。そんな風にいろいろと感じながら聴いています。
やっぱりメディアはスポンサーありきだから、言いにくいことが増えているのは仕方ないけど、パーソナリティのギリギリの本音を昔のラジオみたいに聴けるように戻してほしいなとは感じています。
あと、地方のラジオ局にありがちなんですけど、常連リスナーが話題に上がったり、スタッフをいじったりする内輪のノリってあるじゃないですか。もちろんそれをわかっていたら楽しいんですけど、あまりにも常連リスナーばかりで固める内輪のノリすぎて、「あの番組、ずっとこの人たちの話しかしてない」って新規のリスナーさんが離れていってしまうこともあるんです。そういう話を聞くと悲しい気持ちになるんですよね。
ラジオは誰にでも寄り添えるメディアだと思うので、もちろん内輪ノリはあってもいいんですけど、新しいリスナーも受け入れて、一緒に楽しめるような番組作りをしてもらいたいです。無難な番組じゃなくて、個性的な番組があってもいいんですけど、勇気出してメールを送っている新規の方もいるので。そういう方たちも歓迎してあげられる番組作りをしてほしいなと思っています。
(取材/構成:村上謙三久)