リスナーインタビュー【93】男性/20代前半/大学生の場合
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男性/20代前半/大学生
東京都在住
リスナー歴10年
■私のラジオ歴
朝のラジオを目覚まし代わりにして起床する小学6年生
断片的にラジオを耳にしていた記憶はちらほらあって。家で父親が休日に地元・静岡の放送局を聴いていたり、あとはスイミングスクールの行き帰りのバスで流れていたり。でも、聴き流していて、興味は持っていなかったです。
自分から聴き出したのは小学6年生の4月。ちょうど英語の学習が始まるタイミングで、リスニングCDを聴かなくちゃいけなくなったんです。そうしたら、母親がCDプレーヤーを買ってきてくれて。それがラジオも聴けるものでした。
母親が「これってラジオも聴けるんだよ」と教えてくれたので、試しに聴いてみたのが最初のきっかけです。自分の部屋にはテレビがなかったですし、スマホもまだ持っていなかったので、それからラジオを定期的に聴くようになりました。
最初にAMとFMのどっちを聴くか迷いましたね。静岡だとAMはSBSラジオ、FMはK-MIX(静岡エフエム放送)になるんですけど、両方聴いてみたら、AMは音がこもっているというか、音質があまりよくなかったんです。しかも、勉強机のデスクライトをつけると、まったく聴こえない。でも、FMはクリアーだったんですよ。内容云々ではなく、音質で選んで、聴きやすいほうにしようとK-MIXを聴くようになりました。
当時はK-MIXで朝6時から『中西哲生のクロノス』(TOKYO FM)がやっていたんですが、毎日6時起きだったので、CDプレーヤーのアラームをセットして、『クロノス』を目覚まし代わりにして起きるという生活をしていました。中西さんが「おはようございます」と言って、1曲目が流れて、それで起きるみたいな。今考えると、小学生っぽくないですけど(笑)。
15時からは『K-mix RADIOKIDS』という番組が生放送していて、下校してきたらそれを部屋で流す感じ。夜は学生向けの『K-mixみんなの19HR!』を聴いて、番組が終わる21時頃には寝ちゃっていました。
小学生なら家に帰ってきたらすぐ友達と遊びに行きそうなもんなんですけど、どちらかというと自分ひとりで本やマンガを読むのが好きでした。もちろん友達と遊ぶ約束をしている日もありましたが、していない日はラジオでしたね。親の方針だったのか、自分でいらないと言ってしまったのかは記憶に残っていませんが、家にはテレビゲーム機もなかったですし、本やマンガを除くと、カードゲームをするぐらいしかなくて。他に娯楽がなかったから、ラジオを聴くようになったのかもしれません。アイドルやタレントが好きで、それがキッカケでラジオに出会ったんじゃなく、本当に“ラジオ”を聴き始めたんですよね。初めて気づきましたが、改めて言われると珍しいかもしれません。
風邪をきっかけに週末のラジオも聴き始めて“笑い”も知る
それからも同じような聴き方をしていたんですが、中2の4月に熱を出して寝込んだ日があったんですよ。普段からラジオを聴いているので、つけっぱなしにしておこうと。そうしたら、熱が下がらず、週末まで長引いちゃって、自然と今まで聴いていなかった土日のラジオも初めて聴くことになって。風邪が治っても、流れで週末も含めてずっとラジオを聴いているようになりました。
なるべく1日中ずっと聴いていたいって考えていましたね。勉強する時はラジオを消していたんですけど、それから部屋にいる間は常にラジオが流れている状態になって。当時は家族や友達とラジオの話はほとんどしてなくて、本当に自分だけの世界でした。
親からは「あんたずっとラジオを聴いているわね」「たまにはラジオ聴いてないで出かけなさい」と言われていました(苦笑)。硬式テニス部に所属していたので、土日も練習や試合があったりはしましたけどね。学校ではそこまで内気なタイプではありませんでしたが、ラジオをつけてずっと机に向かっていた分、勉強はしていて、成績は結構よかったです。“机に向かっている時間=ラジオを聴いている時間”になっていたというか。ラジオを聴く言い訳として勉強していたところはあるので。
中学生になると、テスト勉強で遅くまで起きていることが増えたので、21時に眠らずに、それ以降も起きていることが増えました。そうすると、『SCHOOL OF LOCK!』(TOKYO FM)がやっていたんですよ。FMを聴いているほとんどの10代リスナーは通る番組だと思います。でも、最後までは起きていられなくて、そのあとの『JET STREAM』は聴いたことなかったですね。
それまでは番組内で面白いトークがあっても、ちょっとニヤニヤ・クスクスするぐらいで済んでいたんですけど、この頃から聴き始めた『福山雅治 福のラジオ』(TOKYO FM)と『国分太一 Radio Box』(JFN系列)が抜群に面白くて。声を出して笑っちゃうと親にバレたら恥ずかしいので、必死にこらえながら聴いていました。こんなにラジオって面白いんだという感覚になったのはこの2番組が最初でしたね。
音楽に興味を持ったのもラジオの影響です。特に大きかったのは『NISSAN あ、安部礼司 ~beyond the average~』(TOKYO FM)の存在。ラジオドラマなんですけど、この頃は途中に、いわゆる“今ツボ”(今さらツボなコレクションの略)と呼ばれる80~90年代のJ-POPがかかっていました。僕の部屋は西側に窓があって、毎週、そこから夕焼けが差し込む中で『安部礼司』を聴いていたんですよ。その雰囲気と80~90年代のサウンド感がとてもマッチして心に残ったというか。それから昔の音楽が好きになりました。同時期に『山下達郎のサンデー・ソングブック』(TOKYO FM)も聴き始めましたね。
初投稿から変わらないラジオネームの由来
初めてメールを送り、しかもそれが読まれたのは中学2年生の時。送った番組はK-MIXの『みんなの19HR!』です。ちょうど卒業ソングリクエスト特集をしていたので、D.W.ニコルズの『春風』をリクエストしたら、採用されて。放送局のホームページに過去のオンエア曲がまとめられているんですが、調べてみたらこのリクエスト曲がかかったのは「2月27日20時14分」でした。
特にきっかけはなくて、なんとなく投稿してみたいなと思って。採用された時はもちろん嬉しかったんですけど、ぶっちゃけ実感はなかったというか。さっき言った通り、自分ひとりでずっとラジオを聴いている状況だったので、感覚として本当に他の場所で流れているかわからないわけですよ。あくまで自分の部屋で流れているだけなので。イスから飛び上がったり、机をバンバン叩いたりする感動まではなかったです。
この時から今と同じ「ハブラシマン1号」というラジオネームを使っていました。由来は……昔からマンガを読むのが好きだったんですけど、それが高じて小学校1年の時から自由帳に自分でギャグマンガを描くようになったんです。友達の間でもマンガを描くのが流行っていたのもあって。それから数年間で通算100話ぐらい書いたんですけど、その主人公の名前が「ハブラシくん」で、作中では変身して「ハブラシマン」というヒーローになる設定でした。
漠然と「マンガ家になりたい」と思っていたんですけど、小6ぐらいになってから、急に「あっ、自分って画力がないな」と急に気づいて(笑)。中学に入ったあたりで「これはマンガ家無理だわ」ってスパッと諦めちゃったんですよ。
でも、マンガからラジオに興味が移ってしまったとはいえ、それまでマンガを描くのが好きだった気持ちは本物だったわけじゃないですか。このラジオネームは一生使い続けるつもりでいたので、その気持ちを忘れずに今後の人生に残したいという思いと、同じくらいの熱量でラジオを楽しみたいという願いを込めて、主人公のヒーローの名前に収まりのいい『1号』をつけてラジオネームにした……というちゃんとした由来があります。タイミング的にはマンガを描いていた時間がラジオを聴く時間に入れ替わったところはあるかもしれないですね。マンガを描く上で面白おかしいストーリーを作るのが好きだったんですけど、のちのちそれが投稿に生きてくるので、伏線ではあるんですけど。
バカボン鬼塚との出会いとその影響
『19HR!』で定期的に読まれるようになり、パーソナリティさんにラジオネームも覚えてもらえたんですけど、この年の3月に番組が終わってしまったんですよ。とても残念な気持ちになったんですが、後番組として始まったのが『K-mix FOOO NIGHT ピンソバ』でした。
パーソナリティはバカボン鬼塚さんと、『19HR!』から継続して出演することになった局アナである高橋茉奈さん。これまでのラジオライフで一番好きなのがこの番組で、これを超えるものにはいまだに出会えていません。自分の中では原点みたいな存在ですね。
とにかく抜群に面白かったんです。福山さんや国分さんのラジオで「笑っちゃう」という話をしましたけど、言っても月に1回ぐらいの頻度でした。でも、『ピンソバ』は帯番組なのに、毎日耐えきれずに笑いすぎて過呼吸になる瞬間があるみたいな。
鬼さんはずっとNACK5で活躍しているベテランで、メチャクチャ面白いし、トークの中で急に叫んだり歌ったりするんですよ。さらに凄かったのは茉奈さんで、鬼さんが引き出したところもあると思うんですけど、茉奈さんも局アナとは思えないハチャメチャなトークをしていました。茉奈さんがぶっ飛んでいたのを鬼さんが手綱を締めたり、逆に2人で乗っかって暴走したりして。
笑いも深夜ラジオのように毒のある皮肉めいたものじゃなく、もっと原始的というか、子供でも楽しめるようなものだったんですよね。ちょっとした言い間違いから始まって、それをいじって10~15分伸ばしていき、最後は歌って終わるみたいなよくわからない感じだったんです(笑)。それが衝撃的で、一気にハマりました。しかもこの時に初めてラジオ番組のスタートに立ち会ったんです。前から「開始当初からの常連になりたい」と考えていましたし、常連のラジオネームにも憧れがあったので、この番組で常連になってやるぞと決意しました。
ただ、『19HR!』はリスナーがほぼ学生だったので自分も採用されたんですけど、『ピンソバ』は老若男女かかわらずメッセージが来る番組で。鬼さんはもともとNACK5で『(The Nutty Radio Show)おに魂』をやっていたので、そこから聴いている関東のリスナーがたくさん入ってきて、メチャクチャ競争率が上がってしまったんです。当時の僕の投稿歴は1ヵ月ぐらいですから、自分のスキルじゃ太刀打ちできず、全然読まれませんでした。
それで危うく熱が冷めかけたんですけど、中3の夏頃、20時の時報明けに「お風呂コントのコーナー」が始まりまして。パーソナリティのお二人が老夫婦になってお風呂に入っているという設定で、リスナーから募集した台本を演じるというネタコーナーなんです。僕の投稿がこのコーナーのメールを選んでいた茉奈さんの感性にハマったみたいで。僕みたいな15歳で送ってくるリスナーは珍しかったのもあって、ほぼ毎週読まれるようになったんです。これがネタコーナーへの投稿の原体験ですね。大喜利に出会ったのも『ピンソバ』でしたし、ここからさらに投稿にどハマりしていきました。
あと、『ピンソバ』では主に60~90年代ぐらいの洋楽がかかっていて、この影響を受けて、洋楽も聴くようになりました。のちのち鬼さんがアナログレコードを紹介するコーナーがスタートすると、僕もレコードを買うことにもハマリ、今やレコードは350枚、CDは170枚ぐらい持っています。
『お風呂コント』以外のネタメールをさばくのは基本的に鬼さんだったので、どうやって鬼さんにハマっていくのかを試行錯誤していました。ネタ投稿の基礎を鍛えてくれたのは間違いなく鬼さんですね。家に帰ってスマホを触っていると親に怒られるので、学校の駐輪場で蚊に刺されながらずっとメールを書いていた思い出があります(笑)。友達と学校で喋るのは楽しかったですけど、部活動があったので放課後に一緒に遊びに行くことは少なかったんです。ずっと家に帰ってラジオをつけるのが楽しみでした。
当時送っていたのはネタコーナー中心。まだ人生経験が少ないから強いエピソードがなくて、テーマメールは弱かったんですよね。大人のリスナーがたくさんいたので、エピソードの強さでは勝てないなと思っていました。
SNSを始めて他のリスナーとの繋がりができた
ずっと部屋ではK-MIXがついていたんで、AMは選択肢になかったです。もうradikoは始まっていましたが、他の地域の番組を聴こうとも考えませんでした。K-MIXはTOKYO FMからのネット番組はあるにしても、昔から番組の自社制作率が高くて充実していたんです。「地元の局では面白い番組をやっていない」という人もいるようですから、静岡で育ったのは恵まれているなと思いますね。
メールを頻繁に送るようになってから、友達にラジオの話をしたことはあったと思うんですが、なにせ周りは聴いてなかったので、興味をほとんど持ってもらえず「ああ、そう」みたいな反応でした。ラジオの楽しさを共有する相手はこの時も周りにいませんでしたね。ラジオネームを持ったリスナーというもうひとりの自分がいる世界で、そこは日常生活と切り離していました。
高校生になってもリスナーライフはそんなに変わりませんでしたが、大きかったのはX(旧Twitter)を始めたこと。それまでは一度も見たことなかったんですが、開いてみたら、メールが採用されているんで、番組のハッシュタグ上で自分のことが話題になっていたんです。そこで初めて「自分の送ったメールが読まれて本当に放送されているんだ」という実感が湧きました。
アカウントを作って、ここでようやく他のリスナーさんとの関わりができました。常連のリスナーさんがアカウントを持っていて、実況に参加していたので、「面白そう」と思い、高1の春に自分も実況に加わるようになりました。SNS上ではあるんですけど、初めて“みんなで聴く”という経験をして楽しかったですね。読まれた時に「おめでとうございます」と言ってもらえると嬉しくて。
初めて公開スタジオで生放送を観覧したのもこの年です。高校生だったこともあり、夜の番組なので最後まではいられなかったんですけど、いつもラジオを聴いている2人がガラスの向こうで喋っている姿を初めて見ました。
実はこの時も感動はそんなになくて(笑)。「写真で見たことのある人たちがガラスの向こう側にいる。凄いなあ」ぐらいの感じで、メチャクチャ感激したというのはなかったです。ただ、メールを送ったら、生でいじってもらえたので、それは印象に残っていますね。あと、その場にいたリスナーさんと話ができたのは嬉しかったです。最初は顔も何も知らないし、どのラジオネームかもわからないから、自分もサイレントリスナーのフリして見学してたんですけど、途中で「ラジオネームはなんですか?」と聞いてくれた方がいて。名乗ったら、「ああ、あの!」と。自分のことをちゃんと知ってもらえているんだという実感がありました。
本当に何年もずっとひとりで聴いていたので、この頃から急に世界が広がった感じがします。K-MIXが主催する海岸清掃イベントにも参加して、初めて鬼さんと茉奈さんと直接お話しして、握手して、写真を撮ってもらったこともありました。僕がひとりで参加していたのを察してくれたのか、鬼さんがラジオネームを周りに言ってくれて、他の常連さんとつなげてくれたのも思い出に残っています。
『国分太一 Radio Box』への投稿に全集中
僕が高校2年生になった4月、K-MIXを退社した茉奈さんが『ピンソバ』から離れて、新卒として入社したばかりの川﨑玲奈さんが代わりに加わりました。はっちゃけた茉奈さんとは真逆で落ち着いた感じでしたが、いきなりだから上手く喋れないじゃないですか。改編にはリスナー側にわからない事情もあったと思うんですが、茉奈さんが突然離れて、リスナーは残念がっていましたね。
「お風呂コント」のほか、ネタコーナーが減ってしまったんで、僕としてもそれまでの2年間の日課がなくなってしまいました。ちょっと悶々としていた時期でもあります。それでも「相方が鬼さんなら、どんどん育っていって、凄いパーソナリティになるだろう。ずっと聴き続けて応援しよう」と思ったので、聴くのはやめなかったです。
ただ、ネタを書いていた時間が空いちゃったので、どうしようと考えて、『国分太一 Radio Box』の投稿に全力を向けることにしました。以前から定期的に投稿していたんですが、番組では毎年採用数のランキングを作っていたので、その1位を目指してみようかなと。東京や大阪では放送していないとはいえ、全国ネットなので、職人さんはたくさんいたんですけど、『ピンソバ』で2年間培ってきたネタスキルをぶつけてみて、どれだけいけるか試してみようと一念発起しました。
寝る前に4つネタを書くというのを毎日続けました。4月から本格的に投稿し始めて、上半期の時点で6位までいったんですけど、「12月までに間に合うかな?」と焦りだし、途中から投稿数を1日8個に増やしたら、最終的に2位まで行って、コーナー賞ももらいました。調べてみたら、僕が1年間で読まれたのが合計94回。1位の方が137回だったので、さすがに勝てなかったですけど、わりと満足できました。
高3の1年間は大学受験なので、最初から投稿を休もうと決めていました。とにかく浪人したくなかったんです。浪人するともう1年ラジオを全力で楽しめなくなるじゃないですか。大学に入れば、ラジオを全力で楽しめるんで、それをモチベーションにしていました。
番組を聴いていると「楽しそうだな」って思って投稿したくなっちゃうので、聴くこと自体を大幅に減らしました。ただ、音楽番組だったらリクエストするにしても1曲で終わるので、それなら負担にならないだろうと。それで音楽番組だけは聴いて、なんとか受験を乗り切り、東京の大学に進学することになりました。
コロナ禍で上京 塞ぎ込む日々を変えた新たな番組
受験が終わって、いざラジオ中心の生活に戻ろうとしたら、3月に『ピンソバ』が終わっちゃうという知らせが急に入って、帰るべき場所を失うということになって……。本当は4月に大学に入ってからリスナーに復帰しようと思ったんですけど、終わるなら3月から参加しようと思い、最後の1ヶ月だけ全力で投稿して。番組の終わりを見届けてから、上京することになりました。
もともとradikoのプレミアム会員だったので、東京に来てからもエリアフリーでK-MIXを聴き続けました。『ピンソバ』が終わりはしたんですが、鬼さんと川﨑さんがお昼の時間帯に始まった『K-mix Wiz.』の水曜と木曜を担当することになったんです。コーナーも結構引き継いで、大喜利コーナーも残ったので、そのまま投稿を続けました。ほぼ大喜利コーナーしか送るものがなくなってしまったので、「どんな対策をすれば読まれるのか?」「週どのぐらい送れば、このぐらいの確率で読まれるのか?」なんてことを試行錯誤しながらやるようになりましたね。採用数を常に記録して、しっかり分析をするタイプなんです。
とはいえ、夜に聴く番組がなくなってしまったので、しばらく投稿は停滞しました。コロナ禍が始まったのが高2の終わりで、受験の間はどっちにしろ遊びに行けないし、勉強しかすることがなかったので、あまり影響がなかったんですけど、大学に入って「さあ、遊べるぞ」となった時に、まだコロナ禍が続いていて、ましてや知らない東京で。
全然外に出られないし、授業もオンラインですし、遊びにも行けない、サークルにも行けないと。ずっと家にいて、バイトもコロナの影響でそんなにできなかったですから、完全に塞ぎ込んでいました。コロナ禍でラジオを聴き始めた人って多いと思うんですけど、僕は反対に自宅時間が増えたのに、塞ぎ込んで、ラジオを聴く時間が減ってしまったんです。本来なら聴く番組が広がるタイミングになりそうなものなんですけど。ぶっちゃけ、この頃の記憶はほとんどないです。
『ピンソバ』がなくなった影響もあって、投稿のモチベーションも湧かなくなったんです。メール投稿って人と関わらないとネタが出てこないんですよね。ひとりでいて、人との関わりがないと、「日常でこんなことがあった」と書けることがないので、投稿自体がキツかったです。
大学1年の年末まで塞ぎ込んでいたんですけど、さすがにこれではいけないなと思いました。ラジオは好きだし、前の状態に戻りたいなと考えて、復帰しようと決意し、翌年の年明けから投稿も本格的に再開することにしました。
1月から聴き始めたのがBSSラジオの『森谷佳奈のはきださNIGHT!』。『ピンソバ』で出会ったリスナーさんが熱心にこの番組を聴いていて、実況ポストが流れてきていたんです。そういう人気番組があるんだなというのはわかっていて。ここで始めてちゃんとAMの番組を聴くことになるわけですが、もはやAMとFMの垣根はなくなっていましたね。「中高生時代以上にラジオを楽しみたい」という目標がありました。
いざ聴き始めると、それまでとはまったく違う世界がありました。そもそもリスナーが全然違う。共通のリスナーさんも何人かはいましたけどね。トークの後ろでアップテンポのJ-POPがずっと流れていて、それに乗せてメールをどんどん紹介していく感じ。本当にトークとメールメインの番組でした。
森谷さんが凄かったのは、本当にトークがよどみなくて、立板に水だったんですよ。濃いエピソードのメールが多かったんですけど、あの内容のメールをあのスピードで読んで、頭をフル回転させて、鋭いコメントを入れる。こんなに頭の回転が速いアナウンサーがいるんだと衝撃を受けました。
最初はテンポの違いに戸惑ったんですけど、段々慣れてきて、それに合わせて好きになって。すぐに初メールを送ったら、いきなりその日一番良かったテーマメールに選んでもらって。もうそこから“沼”ですね。すぐハマっちゃいました。
この番組はテーマメールが基本で、大喜利は月に1回ぐらい。そこで戦っていくしかないので、苦手だったエピソード系のメールの書き方を学べたというか。それまでは書き方がわからず、自分の言いたいことを全部ダーッと改行もせずに詰め込んでいたんですけど、読むのが速い森谷さんが読みやすい文章を心がけるようになりました。いらない情報はなるべくカットし、膨らませるところは膨らませて、1文ごとにスペースを空けて改行し、語尾も気をつけるようになって。聴いている側もダレないようなメールを書こうとメチャクチャ考えたので、自分なりに学べたところがあります。
リスナーとの繋がりが拡大 地方遠征も経験
以前取材した中に「投稿はスポーツみたい」と言っていた方がいるんですか? 僕も本当にそうだと思います。センスがある人が独占できるものではなく、誰でもやり方に則って、順当に対策を練っていけば、上達できるものだと思うんです。「ネタ職人」「ハガキ職人」って言うと、一部のセンスがある人たちの集まりみたいなイメージがありますけど、誰でも根気さえあればできると思います。
こういうノウハウは他の人にどんどん教えちゃってもいいんじゃないかと考えていて。みんな同じになっちゃうとつまらないので、それぞれやり方があっていいと思うんですけど、「なかなかメールが読まれない」と悩んでいる人に対しては、「自分はこうやっていますよ」とヒントを伝えることがあります。
西日本の番組を聴くこと自体、『はきださNIGHT!』が初めてだったんですけど、西日本にもリスナーのコミュニティがあるので、そことも繋がれたのは大きかったですね。そうしたら、半年後に森谷さんがギャラクシー賞のDJパーソナリティ賞を受賞したので、それの直前に滑り込んだみたいな感じになり、ますますハマっていきました。この番組のおかげでラジオに復帰できたと思っています。
その後、コロナ禍が落ち着いてきたので、ちょうど番組イベントが復活し始めるんです。大学生なので行動範囲が広がって、例えば静岡に戻ってイベントに参加したり、それまで会えなかったリスナーさんとようやくお会いできたり。『はきださNIGHT!』のスポンサーの1つが文京区にあるイタリア料理店『SPERANZA』なんですけど、そこにリスナーが集まって、よく番組を聴きながらご飯を食べたりするんです。そのリスナー会にも参加して。この時期にリスナーさんと直接会って話す楽しさを知りました。
同年代のリスナー仲間もようやく増えて。コロナ禍で人に会えなかった反動がここに出たというのはあります。今までの話からわかると思うんですけど、内向的でひとりでやるのが好きだったんですが、ここで直接人と会って一緒に楽しむことを初めて知った気がします。翌年には名古屋にも行ったし、その年の秋にはラジオのイベントに参加するために2泊3日で鳥取と岡山を1人旅しました。この時も現地のリスナーさんと会えたのは嬉しかったですね。地元の人とも触れ合えて、地域の良さも感じられました。1人で部屋にこもって聴いていた頃とは大違いだなと。
一度経験したからこそ、「もし好きな番組が終わってしまったら、メンタルが落ち込むんじゃないか」という危惧があって。だから、2023年はさらに参加番組を分散させていこうという目標を立てました。リスク分散と言うと聞こえが悪いですけど、なるべく多くの番組にハマって、どれか1つなくなってもリスナーは続けられるようにしたいなと。
80歳、90歳まで……いかに長く投稿を続けるかが目標
2023年4月には今聴いている番組がだいたい出揃った感じですね。今は15番組前後ぐらい。これまで名前を挙げた『はきださNIGHT!』や『Radio Box』に加えて、地元のK-MIXほか地方局を中心に聴いています。『Radio Box』や『酒井直斗のラジノート』(CBCラジオ)を除くと、アーティストやお笑い芸人、アイドルのラジオはほぼないですね。
もともと早寝で深夜ラジオを聴かないところから始まっているんですよ。あとはリスナーさんとの繋がりから聴く番組が広がっているので、深夜ラジオへのパイプが正直ないんです。自分が聴いている中には深夜ラジオ好きやネタ職人のリスナーが多い番組もあるんですが、たとえば『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)はまったく通ってきませんでしたね。いずれにしても現時点ではこれでいっぱいいっぱいなので、他の番組には手は広げられてないです。
2023年は、数え間違いがなければ全部で539通のメールを読まれました。投稿は全然飽きないですね。番組の分散が上手くいき、それなりに安定して読まれるという状況で、どれだけネタの方向を広げたり、番組を盛り上げたりできるのか。そこを考えるのが楽しいところです。今後も続けていくと思いますし、辞めたくないですね、今は。
「読まれなかったら読まれなかったでいい」「聴いてて楽しければいい」というリスナーがいるのもわかるんですけど、スポーツだって負けたら悔しいじゃないですか。囲碁でも将棋でもゲームでも何でもいいんですけど、それとラジオの投稿も同じだと思うんです。負けて悔しいという思いを持ってもいい。もちろんそれでパーソナリティや他のリスナーに矛先を向けて、攻撃したり嫉妬したりするのは論外ですが、負けたところからどうやって「採用されるようになるか」「勝ちにいけるか」を試行錯誤していく。ある意味、スポーツに近い感覚で楽しいかなと思います。
ここ数年はいかに長く投稿を続けられるかを目標にしています。1~2年大活躍して、急にいなくなる人っていると思うんですけど、僕はコンスタントに続けることをやっていきたいんです。数ヵ月に1回インパクトのあるネタを読まれるよりも、毎週毎週ライフワークとして続けて、50歳、60歳……できれば、80歳、90歳まで、生きているうちは続けていきたい。送らなくなってしまうと、今までのリスナーさんとの繋がりもなくなっちゃうでしょうからね。
リスナーがメールを送らないと盛り上がらないし、番組も続かないので。単純に応援したいという気持ちが強いです。リスナーとしてできるのはメールを送ることだけだと思っていて。ラジオを聴いて、メールを送って、読まれたり読まれなかったり。それで僕の中では完結しているんです。あとはリスナー仲間と遊べれば。それはオプションとして楽しんでいます。
■自分が思うラジオの魅力
「投稿」と「音楽」がラジオをより魅力的にしてくれる
「投稿」と「音楽」がラジオをより魅力的にする要素だと思います。あくまでも僕の考えで、全員に当てはまるとは思わないんですが。この2つはラジオを聴いている時間だけじゃなくて、それ以外の時間にも影響を与えてくれるんですよ。
投稿だったら、例えば日常生活で面白い出来事があったら、すぐにメモってふつおたのネタにする。音楽も、ラジオで知った曲をきっかけに、他の時間でもそのアーティストの曲を聴いて、ライブにも行く。コンテンツとしては、それをやっている時間以外にも影響を与え始めたら“成功”みたいなところがあるじゃないですか。自分にも凄くハマれている実感もあります。ラジオで出会った音楽は一生モノで、ずっと聴き続けますから。
■一番好きな(好きだった)番組
オススメしたいのは『川﨑玲奈の踊るラジオシャドウ』
今好きな番組は……って考えたんですけど、決められなかったんですよ。だから、「ラジオリスナーにオススメしたい番組」を選んできました。
それは『川﨑玲奈の踊るラジオシャドウ』(K-MIX)です。ザキさんは『ピンソバ』から鬼さんと4年間コンビを組んで、メチャクチャ面白いパーソナリティになったんです。茉奈さんがさっき言ったようにはっちゃけるタイプだとしたら、ザキさんは落ち着いていて陰キャ寄りというか。とにかくラジオが大好きな方で、メールを送ることもあるらしく、『#むかいの喋り方』(CBCラジオ)のイベントにも行っているそうなんです。
深夜番組なので、昼間の番組では話さないような普段思っているモヤモヤを赤裸々に話してくれる。自己分析をする方なので、凄く深いところまで素直な思いを話してくれるんです。それに対して、リスナーも心を開いて、「実はこんな悩みがあって……」と送ったりして、リスナーと濃密なコミュニケーションをしているんですよね。
あと、局アナなのに企画からメール選び、編集にいたるまでワンマンスタイルで制作していて、毎週ネタコーナーをやっているんですよ。くだらないネタコーナーが好きな方で、リスナーのレベルが高くて、面白いなって。ご本人が好きな深夜ラジオを再現している感じがあります。1時間なんで聴きやすいし、オススメしたいですね。
■ラジオで人生が変わった(心が震えた)瞬間
能登半島地震が起きた日の夜、あえて普段通りのメールを送ったら……
突出して1つの経験はなくて、ちょっとずつ人生を支えてもらっているというか、ちょっとずつ継続して変えてもらっている感じがあります。つらい時にラジオを聴いて救ってもらった経験はほとんどなくて。毎日聴いてメールを送って、それが精神的に支柱になっている感覚なんです。
ただ、1つ挙げるとするなら……今年の1月1日に能登半島の地震があったじゃないですか。僕は実家に帰ってなかったので、ひとりで地震の被害を伝えるテレビを見ながら、鬱々としていたんですよ。ショックで塞ぎ込んじゃって、「今年はどうなるんだろう?」と落ち込んで。
月曜日だったので、夜に『はきださNIGHT!』があったんです。いつものハイテンションの感じでは放送できず、曲も多めでバラード系中心で。被害の全容がわかってないし、地震情報もその都度入ってくるし、森谷さんも不安な中で放送していたと思うんです。でも、僕は放送してくれていること自体が嬉しくて。普段、毎週聴いている声が聴こえてくるだけでも安心しました。
事前に募集していたテーマメールはその日の放送にそぐわないから読まれず、ふつおたも能登や地震に関連したメールが多かったんですけど、あくまでも僕の勝手な感覚なんですが、聴いていると森谷さんの声が不安そうに感じたんです。無理に明るくはできないし、迷いみたいなものが伝わってきて。リスナーも実況ポストは控えめになっていました。
僕がリスナーとしてできることを考えたら、さっき言った通り、メールを送ることしかないから、とにかくメールを送ろうと思いました。たぶんこの雰囲気だと、地震関連のメールは集まるんだろうけど、普段来るようなちょっと笑えるメールって来ないんじゃないかなって。普段のようなメールを送って自分の心を取り戻したいという考えもあったし、森谷さんやリスナーさんにちょっとでも笑ってもらいたいという思いもありました。別に読まれなくたっていいんです。「読めたら読んでください」と書いて送りました。
普段のフルスイングのような感じじゃなく、旅先で起きたほっこりするちょっとしたハプニングについてメールを送ったんです。クスっとできる要素も入れて、「こういう人の温かさが感じられた場面が僕は大好きです」みたいな感じにして送ってみたら、すぐ読まれて。これは僕の思い込みか、勘違いかもしれないんですけど、森谷さんが読みながら笑ってくれて、笑顔になったように声から伝わってきたんですよ。
そこから森谷さんの声がちょっと明るくなった気がして。僕自身もそれを聴いて安心できたし、リスナーが送ったメールで番組が動いた……じゃないですけど、普段はパーソナリティがリスナーを励ましたり、応援したりすることがありますが、リスナーのメールがパーソナリティを元気づけられるんだと感じて。やれることはメールを送るだけと考えてきたけど、それが本当に間違ってなかったんだなと感じられる瞬間でした。
■自分がパーソナリティになったら、番組のテーマ曲は何を使う?
オープニングはラズベリーズの『I Wanna Be With You』、エンディングはダリル・ホール&ジョン・オーツの『You've Lost That Lovin' Feeling』
ラジオを聴いているとこれって妄想しますよね。普段音楽を聴いている時も「この曲は1曲目にかけたいな」「これはバラードだからラストがいいな」なんて妄想したりしていて。
オープニングにしたいのは、アメリカのパワーボップのグループ、ラズベリーズの『I Wanna Be With You』。1972年リリースの大好きな曲です。明るくてノリがよく、物凄くポップな曲なので、オープニングにピッタリだなと。サビの「I Wanna Be With You~」の部分を訳すと、「僕は君と一緒にいたい。今夜がまさにその夜だ。ただ君と一緒にいたいんだ」という歌詞で、夜の番組を想定するなら、パーソナリティがリスナーに語りかける雰囲気と合うなって。イントロも15秒ぐらいでタイトルコールにちょうどいいから、それも込みで選びました。
エンディングはアメリカのブルーアイドソウルのデュオ、ダリル・ホール&ジョン・オーツの『You've Lost That Lovin' Feeling』です。1980年リリースのカバー曲で、オリジナルはライチャス・ブラザーズ。オリジナルは映画『トップガン』のラストシーンに使われている曲で、トム・クルーズがジュークボックスでこの曲を選んで、そのままエンドクレジットに入り、最後に2機の戦闘機が夕日に向かっていくシーンまで流れているんです。その雰囲気がエンディングっぽいなと。
カバーにした理由は、どちらのバージョンも大好きなんですけど、オリジナルのほうはイントロがなくてすぐに歌が入っちゃうんですよ。カバーのほうはドラムのイントロがあって、サウンドもロックっぽくて、エンディングに使うならならこっちかなと。
■私にとってラジオとは○○である
私にとってラジオとは「人生のサウンドトラック」である。もしくは「人と人の繋がり」である。
皆さんこの質問には悩むと思うんですけど、1つに絞れなくて、2つあるんです。投稿とか関係なく、単純にラジオを聴いている人全般に当てはまるかなと思うのは、「人生のサウンドトラック」であると。
映画やドラマにはサントラがあるじゃないですか。ああいう感じで、人生の場面場面に彩りを与えてくれるというか。劇伴みたいに人生に寄り添ってくれる。勉強している間も、移動している間もずっと聴いていて、家に帰ってきても流れている。僕にとってラジオはそういう距離感だなって。人生が変えられたとか、どうしても仕事にしたいとかは全然ないんですけど、人生に並行して存在している世界という感じがします。
もう1つはさらに深みにはまった投稿リスナーとしてなんですけど、ラジオとは「人と人の繋がり」であるという答えが思い浮かびました。リスナーがメールを送ると、パーソナリティが読んでくれて、それに対してコメントを返してくれる。そういうラジオの相互作用が投稿の魅力だと思うんです。それってリスナーとパーソナリティが繋がっているんだなと感じるんですよ。
さらに広がっていくと、リスナー同士で繋がることができる。繋がった人経由で他の番組を知ることができて、そこにも新しいリスナーがたくさんいて、そこからもドンドン広がっていく。そういう繋がりが楽しめるのはラジオならではかなと思います。今はエリアフリーもありますから、地域も関係ないし、全国各地のリスナーさんと繋がっていけるのは自分の中では大きな要素かなと。
聴くだけの人もいるでしょうし、SNSをやらずに投稿している人もいるでしょうから、当てはまらないリスナーもいると思います。全員が全員同じ考えで楽しめるとは言わないですが、あくまで僕はその部分に楽しさを見出して、踏み込んでいったのかなと。
自分からラジオ界をどうこうしようなんて考えはありませんが、今なくなったら困るので、ラジオはあり続けてほしいですね。今をずっと保つのが難しいんだと思うんですけど、無理なく続けてほしいです。リスナーとしてできること……メールを送ったり、イベントに参加したりして、番組を盛り上げていきたいです。そして、投稿はできるだけ長い間、趣味として続けていきたいですね。
(取材/構成:村上謙三久)
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