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幸せなふり、やめようと思う

全く関係ない話ですが、入院して白いシーツと枕になってから想像以上に髪の毛が抜けていることに気付きました。不安。

本題です。

今までは私、全く不幸じゃないと思っていました。
いや、実際にそう思っていたというよりは、そう言い聞かせて幸せな風に振る舞っていました。

だってうちは両親が揃っているし、高校にも行かせてもらえているし、多すぎるほどの愛情を受けて育ったし。

それこそ虐待を受けている子達や貧困家庭の子達と比べてみたりしていました。
私の場合はお金もある、学校にも行けている、食べ物もある。友達がいて、いじめもない。家族は祖父母まで健康だし、妹と弟もいて、期待もされている。

そういう「形式上」の幸福度を集めて、自分は恵まれているから不幸なはずがないと言い聞かせて、それなりの振る舞いをしてきました。

でも実際、そんなことはありませんでした。
少なくとも、家庭環境においては。

確かに虐待を受けている子達や貧困家庭の子達と比べたら、恵まれているかもしれない。

でもそれは、他者が見て考えたときにわかりやすいように設定された、他者視点の尺度です。

「幸せ」なんてものは誰か他者によって定義できるものではないと考えます。

両親は健康に揃っているけど仲は悪い。夫婦仲もそうだし、親子の仲もそう。
一時的な収入はあっても小遣いには回ってこないし、生活費をせびられることだってある。
愛はあっても過度で過干渉。
目に見えないだけで精神的な虐待は日常茶飯事だし、目に付かないだけで身体的な暴力だってある。

癇癪持ちで理不尽な父親と、常にストレスの吐口に子供を使う母親。

体の不調を訴えたら怒る。
咳や体の痛みによる唸り声だけで怒る。
ちょっとした発言だけで怒鳴る。
というか何をしても怒る。
何もしなくても怒る。

理不尽な話です。

人の気持ちはわかろうとしないくせに、自分の気持ちが汲み取られないと怒る。
子供を自分の玩具で所有物だと思っている。
都合の悪いことは忘れたふりをして正直に向き合おうともしない。

生まれた頃は確かに「愛情」を受けていたかもしれません。
でも物心ついた時からのことをよく考えてみたら、それは愛情ではなく「支配」でした。

それをもう認めて、無理な幸せのふりはやめようと思います。
だって全然幸せじゃない。
「親が怖い」という感情から何もできず怯えて蹲っている現状が、何よりもその証拠だと思っています。

とはいっても、恵まれていることを否定するわけではありません。
親が揃っていること、学校に行かせてもらえていること、食べ物を与えられていること、家族が健康でいること、友達がいること。
これは確かに恵まれている環境です。
ただこれらの条件が、純粋なイコールで「幸せ」ではないというだけのことです。

まあそんな感じで、「精神病院に入院しなければならないほどに追い詰められた環境って、流石に幸せとは呼べなくないか?」と考えた結果です。

とはいっても「幸せ」「不幸せ」という感覚的な部分を一概に決定することはできませんから、幸せな時間ももちろんあるけど、総括して幸せとは呼べないな、というくらいのイメージです。

それと、あくまで家庭環境の話です。
学校は何より楽しいし、今行けないことが本当に悔しいくらいです。

自分語りしていたらいつのまにか1300字を超えていました。

そろそろ睡魔が襲ってくる時間なので、今回はこの辺りで失礼致します。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
前回から続きで読んでくださっている方、本当にありがとうございます。
次回がありましたらぜひその際も、よろしくお願いいたします。

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