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安寧から逃れられない
2024/09/17
最近わたしの「休んでる」が支援者のいう「休んでる」と釣りあってないことを認識できるようになった。「こんなに頑張らなくてもいいのかもしれない」と主治医にはなしたら「ようやく気づいたの?」といわれた。この溢れでる強キャラ感。
「そもそも大学があるのに、なんでさらに働こうとするのか謎だよ。ニートだったら、すこしは身体を動かしたり社会と触れあう機会を持ったほうが健全だから就労を勧めることはあるけど、墨染さんは違うじゃん。大学の勉強して当事者活動してボランティアとかもやって支援施設にも通って訪問看護うけてカウンセリングしてデイケアもいって。そこに仕事までいれたらそりゃ疲弊するでしょ。わかりきってるじゃない。単純に予定がおおすぎるのよ。ひとと関わるタスクは1日1〜2個まで。メールを返す業務とかも該当するからね。外出が伴わない訪問看護もひとつの用事としてちゃんとカウントしてね」
相変わらずのド正論。
就労に固執するのは「社会の歯車でなければならない」という呪縛とスキーマ。いつから存在する呪いなのかわからない。健常者であれ、障害者であれ、雇用形態がなんであれ、働いているひとが羨ましい。決まった日に通院することすら困難なわたしにとってシフトを守って通勤するスキルはほしくてたまらないものだ。
最初からできないわけじゃなかった。むしろこれまでは社畜と呼べるくらい働いてきた。多忙だけどやりがいのある仕事たち。毎日勤務も苦ではなかった。
明確に働けなくなったのはひとり暮らしをはじめてからだ。これまで家庭環境が悪く、社会(職場)に逃げ場をつくって暮らしていた状態から一転、じぶんだけの安寧の地がうまれてから、外にでることが困難になった。
だれにも迫害されることのない世界
じぶんの都合で塗り替えられる時間
なにをしていても咎められない空間
安心できる拠点ができたかわりに「外に拠点をつくる」ができなくなった。はじめて手にいれたこの安寧がなくなってしまうかもしれないという恐怖もあるから極力家にいたがる。いまある拠点には積極的に出向いていけるが、新しい拠点に定着するのは難しい。ひらたく言えば引きこもり予備軍。
働くということがこんなにも困難になるなんて、数年前のわたしには想像できなかった。そのくらいあたりまえのことだったから、いまの「働けない墨染」を過度に責めるし無価値とおもう。理想はあくまでかつてのじぶんとおなじ水準。なぜ働けないのかはわかったとしても、どうしたらまた働けるかはわからない。
「スキルはあるのにね」と言われる。
そりゃある。必死で手にいれてきたんだから。看護・支援・飲食・接客。手広くやってきた。家事も書類作成も会議もできる。あがり症だけど役割をもって他人の前にたてる。だれかと関わり、協働を依頼して、会計管理をして、運営をして、複数人のスケジュールを管理できる。商業高校で学んだスキルも活きている。
スキルはあるから困るのだ。書類上は難なく突破してしまう。特にここ数年面接におちたことはない。はいってからの継続のほうが難しくなってしまった。以前はこうじゃなかったという「過去の栄光」が自責の材料になりつづけている。
働けないのはスキルや体調や心的負荷の程度だけではなく居場所の問題も関係あるかもしれない。
こころや身体をだれにも傷つけられない安全な家がずっとほしかった。「安全」に飢えつづけてきたわたしにとって、ひとり暮らしはようやく手にした宝物。それが手に入ったいま、外部に居場所をつくる必要性が一気に薄れてしまって熱量が維持できなくなったような気もする。
ただ、その欲を完全に手放してしまうと孤立にむかうから最低限、地域活動支援センターや生活訓練などの場所を確保しようと努力するし積極的につながりをつくって当事者会に参加もする。在学もそのひとつかもしれない。
大学には明確な目標と欲しい知識があり、それを活用できる場もある。これ以上なにかを増やさなくてもいいんじゃないかとどこかで思っている。閉鎖的な思考だ。もっと社会に属するべきだともおもう。だからじぶんのなかのアンビバレントと戦いつづけている。
「あなたはどうしたい?」と問えば「安寧でいたい」に尽きる。これまでは満たされなかった幼少期のわたしが原動力だった。欲するもののために動きつづけられた。繋がりや友情や自尊心などさまざまなもののためにいくらでも努力できた。そのパワーをくれていたちいさな墨染は、いま、おうちのふとんに包まってスヤスヤ寝ている。
ああ、そうか、安心して眠れる環境、ずっとほしかったな。気を抜いたらモノが飛んできたり、服を脱がされたりしない安全にようやく慣れてきてスヤスヤ眠れるようになったんだもんな。そんなインナーチャイルドがみえるから「無理に起こすのはかわいそうだな」とおもう。おとなのわたしが頑張れたらいちばんいいのだけど、彼女にくらべておとなの墨染は無欲なのだとおもう。
積みかさなる「ダメだった」ですこし諦めモードに入っていたからこそ、もっと休んでいいという主治医からの言葉をようやく真正面からうけとめることができた。
やけになったわけではない。将来を放棄したいわけでもない。ただ、過去のわたしに戻ろうとするガムシャラな努力を一旦やめてもいいんじゃないか。取り戻すという意味あいでのリカバリーに固執しすぎているような気がする。欲しないに帰属するのもひとつの答えなのに。
当時とは環境も必要なものも違う。わたしにとっての幸福のかたちはかわってきている。これまでほしかったもの、これから手にいれたいもの、そのへんを整理してから動いてもいいのかも。
What do you want ?