トイレの換気扇:トイレには行かない方がいいんじゃないかなぁ、というお話

 この話を持ってきてくれたのはA君社会人男性で、何年も前だっていうんです。

 当時住んでたアパートが契約更新になりまして、家賃を値上げするって言われたんで嫌気がさしまして引っ越すことにしました。
 不動産屋に行って相談すると、いくつか紹介されたんですが、その中にすぐ近くのマンションがあるのを見て、簡単に引っ越せるかもと思い、とりあえず中を見せてもらうことになりました。
 築五十年くらいの鉄筋マンションで、大家さんがリフォームに凝っているようで別に古びた感じもしない、部屋は2DK、畳も障子も新しい物が入っているし、水道の蛇口も冷水と温水が一本にまとめられている、ダイニングの片隅に洗濯機を置く場所もあるしで悪くはない、台所も標準の二口ガスコンロが置けてシンクも料理が出来る大きさがある、トイレとお風呂はユニットバスでこれもまぁまぁ、家賃も安くもないけど高くもない。
 不動産屋の人が告知義務として、
「事故物件とかじゃないですけどね、正面の通りもそうなんですが、こっちが~とユニットバスをさして~路地で、飲み屋街なんですよ、夜に酔っ払いの声なんかがうるさいって大家さんが気にしてます」
 へぇと。
 まだ住んでるアパートはこのマンションとそんなに離れてないんですけど、そのちょっとの差でそんなことがあるのかと。
 不動産屋さんにそう言われたんで、じゃちょっと周囲を見せてくださいと言いまして、二人でマンションの周りを一周したんですけど、不動産屋さんが指した方向って、別の建物が建ってるんです。二階建てで一階が服を売ってる店で、二階がバーなんです。その建物を超えると路地になっていて、飲み屋が何軒も並んでいて、
「あの部屋まで、そんなに大声が届くんですか?」
「あー、ですねぇ、私も深く考えてなかったんで気がつきませんでした。あの二階のバーのことかな?」
「そもそもあのユニットバス、窓ないですよね、そんなに聞こえるんですかね」
「いやー、ちょっと解らないです」
 というやりとりがありまして、まぁ大丈夫だろうと思ってこの部屋に決めました。

 引っ越してすぐ、なるほど、ベッドを置いているリビングの、大通り側窓の方から酔っ払いのさわぐ声が聞こえてきて、これはなかなかだなと。
 酔っ払いの声は歩きながらの大声なので、ちょっと我慢してれば通り過ぎるんですよ、我慢できないほどではない、だからまぁしょうがないかと思っていたんですけど、
 いつからそうだったのかは解らないんですが、トイレで用を足していると、ごしょごしょ声が聞こえてくるのに気がついたんです。
 窓の外から聞こえてくる声は、酔っ払い特有のリミッターが外れたスコーンとした大声なんですけど、トイレで聞こえる声は霞がかかった感じで声質が全然違う、換気扇を通って聞こえてきているのかと。
 A君呆れまして、大声も困るけど、こうした聞こえるか聞こえないかってくらいの声もまたタチが悪いよなぁと。
 でもトイレにいる時間って一日の中でも少ししかないし、たまに聞こえないときもあって、これもがまんしなきゃしょうがないだろうなって思ったんです。

 ところがですね、酔っ払ってトイレに座ってグデーっとしていたときに気がついたんですけど、窓から聞こえてくる大声は、酔っ払いの歓声とか、喧嘩する声とか、威勢のいい声なんですね、でもトイレで聞こえてくる声って、内容が陰気なんです。
 窓から聞こえてくる声が「てめぇ!ぶっ○してやる!」というアッパー系なのに対してトイレで聞こえる声は「お前のせいでこうなったんだ、絶対許さないからな」みたいなダウナー系でずっと続くとか、よく怪談話で猫の声か赤ん坊の泣き声かって言われるようなあの声とか、すすり泣く声とか、聞いてて気が滅入るような、不安になるような内容ばかりだって気がついたんです。
 A君も自宅を出てアパートに住むようになって長いので、部屋の外から聞こえてくる声や音はあちこち反響してるんだろうなと想像つきます。(うぇ~、なんだよこれ)程度に、嫌だなぁと思うくらいだったんです。
 そして何日か経ち、ゴミを出しに集積所に行って、マンションと隣の建物の間が視界に入りまして、ドアが付けられているのに気がついたんです。
 そのドアは最初に不動産屋さんと一周したときも見ていたんですが、そのときはドアが見えて足が止まりまして、ノブを回してみたんです。
 鍵が掛かって開かない。
 開かないなら、トイレで聞こえる声って、このドア外とか、飲み屋通りとか遠いところから反響して換気扇に入ってくるのか?
 あぁ、ちょっと言い忘れましたけど、ユニットバスの換気扇って、プロペラタイプじゃないんです。台所スペースにはひもを引っ張るとプロペラが回転する式の換気扇があるんですけど、ユニットバスの換気扇は天井に小さな穴があって、その奥に凹の字を上下逆さになっているやつが回転して湿気を吸引するタイプで、そこから聞こえてきているんだろうなと思っているんですが、このドアの前からだってよほど大きな声を出さないと換気扇通らないんじゃないか?それとも夜はこのドアの鍵が開いていて、人が入ってグチグチ言ってるんだろうか?猫ならどっかから入れるだろうし、なんて思いまして、また夜になって聞こえてきたときに、ドアのところまで行ってノブを回してみても、やはり鍵が掛かっていて、誰もいないようなんです。
 ここでようやく(なんか変じゃね?)と思うようになりまして。
 不動産屋さんに
「あの路地に誰か入っているような感じがするんですけど、あのドア以外に入れるところってあるんですか?」と聞きましたら、不動産屋でも解らなくて大家さんに聞いて、
「いえ、行き止まりで入れるところはないそうです。その行き止まりも高い塀で、向こう側の隣家との壁になっているんだそうです。そこを乗り越えるのは難しいし、向こう側の隣家もそんなことをする必要もないようです」
「なんか声が聞こえるんですよ。変ですね」
「大家さんが言うには、その壁には一つも窓がないので、誰かが路地に入っても泥棒に入ることは不可能なので、気にする必要はないとのことです」
 で終了。その声がネガティブな内容で嫌なんだとまでは、A君もいいませんでしたので。
 でやっぱり、それでもトイレに入ると聞こえてくる。
 ひょっとしてユニットバスの換気扇から聞こえてくるんじゃなくて、上下に繋がっている下水管から聞こえてくるのかなとも思ったんですが、たとえそうであっても部屋の中で起こっているのではないから何か事故があったとも思えないし、そもそも大声でもないしで、どうしようもないのかなと。

 ここでA君、ようやく会社の同僚に愚痴りましてね。同僚はみんな
「ふーん、大変だね」で終わったんですが、一人だけ
「心霊現象かもしれない。私の知ってる人で詳しい人がいるから、会ってみない?」と言ってきて、ちょっと考えて、ちょっと興味があることもあって、会ってみることにしました。
 その人はごく普通の人で、エキセントリックでも陰キャでもなく、スーツを着てネクタイを締めて、ちょっと軽食食べに来ましたって感じで同僚とA君の前に座ったんですが、A君の顔を見てすぐ
「その部屋、出たほうがいい」と言ってきまして、
 なんだいきなり、それに、そこまでの過程を言えよってもんですが、その人曰く、
「霊って、道を歩いていて付いてきちゃうのとか、元々その部屋にいるのとか、窓からターゲットを見つけて狙ってきたのとか、パターンがあるでしょ、窓もない壁越しに力を発揮してくるのはヤバい。隣の部屋から壁越しに声が聞こえてくるパターンもあるけど、それは関わり合いを持たないようにすればこっちに来ることはないわけで、あなたの状況って換気扇という壁の外と中をつなげる管があるんでしょ、それはヤバい」
「って、霊現象確定ですか。いたずらにしろマジにしろ、人ってことはないんですか」
「ドアが閉まっているのもそうなんだけど、境界線ってのが危ない。土地の境界線てのは隣人トラブルのもめ事の原因上位なんだ。人の可能性が低いところで境界線てのはかなりヤバいよ」
「えー」
 信用できるかどうか気をつけないといけないなと思っていたのが、別に透視とか実地検分とか一切しないで状況からの判断で、知識だけで言われてちょっと肩透かし食らった感じなんですが、別にお金を要求されるでもなく待ち合わせ場所での食事代も出せと言われず、本当に相談で終わりまして、その人が帰ってから同僚に
「いつもこうなの?」と聞いたら
「医者だって一時間患者を待たせて五分で帰すだろ、あれだよ。毎日山ほど診ている医者は、だいたい顔見ただけで解るんだよ。大勢と違う顔色の人だけ専門病院を紹介して。
 お前だってぼそぼそ声がストレスなだけだろ?金縛りに遭うとか変な夢を見るとか、体に変調がってわけじゃないだろ?
 でマンションを出た方がいいって唯一の忠告を聞くか、それともこの程度かと聞き流すか、それがお前の判断すべきことだよ」と言われまして、まぁ確かにそうだなと。
 同僚とも別れて、一人で考えましてね、マンションを出ることにしました。引っ越し代はもったいないですが、ここにいたら巷で言われる怪奇現象が始まっちゃうのかなと思いまして。
 で不動産屋にまた行きまして、これこれこういうわけでと事情を説明し、また部屋を紹介してくださいと頼みまして、不動産屋もカネ返せとも言われないし、きちんと事情を言われたんで、信じるか信じないかは別にして注意深く部屋を探してくれまして、二、三巡って、また新しい部屋を見つけました。

 引っ越しの準備をしてその部屋最後の夜に電話が鳴りましてね、見たことのない電話番号で気になったんですが、こんな時間にセールスでもないだろうと出てみましたら、かけてきた人は
「煙が入っちゃお終いだ、煙が入っちゃお終いだ、煙が入っちゃお終いだ」って、ずっと繰り返すんです。
「誰ですか?」と聞いても答えずずっと「煙が入っちゃお終いだ」を繰り返すんですが、聞いているうちに、同僚が呼んだ人かな?という気がしてきたんですが、はっきりとあの人だと思えることもできず、(誰?)と思っているうちに向こうから電話切られちゃいまして。
 表示された番号にこっちからかけてみたけど話し中で通じない。
(なんだこれ?)と思いながらも(煙?)と考えて、台所のガス栓は締まっているから火事の心配のはずはない、玄関ドア開けてみてもシーンとして危険な感じはしない、なんだろと思っているうちに、電話の相手があの人だとして、話したのは壁の向こうの声と換気扇しかないから、
「壁の中と外をつないでいる換気扇の管」かと判断し、ダクトを通って何か煙が入ってくるのか?と考えて、とりあえず引っ越し用品で破れる物、紙とかガムテープを折りたたんで換気扇の凹に突っ込んで、しばらく様子を見て、それから寝ました。
 朝になっても特に何もなく。
 あの番号に電話をかけてもやっぱり話し中で通じなくて。
 そのまま引っ越して、そのマンションとは縁が切れました。


 と、A君が私に話してくれましてね、私もまた「へー」としか言いようがないんですけど、A君が、その区域の中で住む場所を移っているってのは、解りますよね?
 話は続きまして、

 A君が二回目の引っ越しをして、そのマンションの近くを通ることがあるわけなんですけど、ある日突然、隣の建物が無くなって更地になっているのを見たんですって。
 築五十年のマンションが無くなったんじゃなくて、まぁ割と最近建てたんじゃないかって二階建ての建物のほう。
 もちろん無くなった理由はA君にも解りません、不思議な現象が隣にも行ってたのか、隣のどこかの部屋に〝煙が入っちゃった〟のか、それとも単に所有者が経営のことで解体したのか、それは何にも解りません、ただ、解体されてずっと更地で、駐車場にもならない。隣の築五十年のマンションはそのままで、もうすぐ築六十年になる、でも入居者募集は普通に続いて、他の階でも入居者を募集している、それはいいんですけど、
 隣の二階建ての建物が無くなって、マンションの見えなかった部分の壁に、変な模様だかマークだか絵だか、よく解らないものが描かれていたんだか浮かんでいたんだかしてたんですって。すぐ無くなったんですけど、壁の色が新しくなったようには見えないんで、塗りつぶしたんじゃなく消えたんじゃないかと思うのですけど、詳しいことはやっぱり解らないわけです。

 いったいなんなんでしょうね。

 うん、トイレでどこからかボソボソした声が聞こえてきたら、そのトイレには行かない方がいいのかもしれませんね。


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