一対(いっつい)?:トイレには行かない方がいいんじゃないかなぁ、というお話
トイレには行かない方がいいんじゃないかって話なんですけどね、不思議なことで頭がいっぱいになったときにトイレに行くのはやめておいたほうがいいんじゃないかと思うんですよ、集中が途切れることで気がつかないでいいことに気がついてしまう可能性があるものなんです。
話を持って来たのはA君男性で、小学校に入学したときから始まった話だっていうんです。
小学校に入学する日、親に連れられて学校まで歩いて行ったんですけどね、途中に公園があるんです。
家を出発して学校に向かって、途中右側に公園があるんです。
その右側の一画は全部公園で、信号を渡って右前の角から、歩ききって次の信号で右後ろの角になるまで全部公園なんですが、A君が歩く道側には入口は角の二つしかありません、信号を渡って右前になったところと次の信号に行き着いて右後ろになったところの二箇所です、それまでの道は生け垣になっていて公園には入れないんですけど、その途中に、信号を渡ってすぐのところに祠があるんです。その祠に通じる道はあるんです。
A君、その入学式の日からずっと祠が気になっていましてね、その道を通るときはずっと祠を見ているんですけど、別に何ていうこともありません、普通の祠です。扉は開いているときもありますし、閉まっているときもある、変わった部分も無いですし、誰かが世話をしているようで清潔です、不快感もありません、ただ気になるんです。
気になって気になって、学校に行く日は毎日(なんなんだろう)と思いながら祠を見ながら通ります、帰り道もそうです、じっと見ながら通ります。
しかし何一つ変わったことのない普通の祠なので、家族や友人にも話すこともなく、自分一人の胸に仕舞ってずっと見続けまして、小学校を卒業し、中学校もその道を通って通いましたんで三年間続き、高校生になってようやく全然違う方向に進むことになりましたんで祠を見ることもなくなりました。
見なくなって他のことに興味が向いたり新しい刺激に見舞われたりして、すっかり祠のことを忘れて行ったんですけどね、
通学路が変わって、そもそもそっち方面に行くことがなくなったんで祠のその後がどうなったのかも知らなかったんですけど、大学を卒業して社会人になって、ふとしたことで祠を思い出しまして、行ってみたんですって。
信号も公園も祠も、全く変わっていません、当時と同じです、ただA君は身長も伸びて大人になったんで、見る角度は変わりましたし、祠も年月相応には古びている、でも誰かの世話も続いているようでそれなりの風格は変わらないな、という感じです。
もう気になることはありません。
大人になって改めて観察してみますが名前や由来が書かれているものがなく、何を祀っているのかもよく解りません。
五分ばかり眺めていて、もうこの祠には用はないなと思って帰ろうとしたら、トイレに行きたくなったんですね、で改めて公園を見たらトイレがあるから、初めて公園の中に入ったんです。
やめておけばよかったんですよ、
家から見て進行方向右に祠と公園があるわけですから、トイレも右側にあるわけじゃないですか、トイレを出て初めて気がついたんです。
進行方向左側に廃墟があるんです。
一瞬何も考えられなくなって、すぐ気を取り直して、真っ昼間ですしA君も大人ですし、廃墟も禍々しい感じではないので近づいてみましたら、ぱっと見は廃墟だけどひょっとしたら人が住んでるかもしれないくらいの家の頑張り、まだなんとか保っている感があるような気がして、(廃墟ではないのかな?でも微妙なところだなー)という家で、A君にはそこが解らないんですけど、まぁいいやと。
でA君には廃墟マニアの気はないんで家に帰ろうかとしたんですが、そこで気がついた。
あの祠の真向かいに窓があるんですよ、
木製の雨戸がぴったり閉ざされていましてね、A君何気なくというか勢いにというか流れで上を見たら、そこにも窓があって、木製の雨戸の中心が少し開いているんです。
今日は晴れているから開いているのか、誰も住んでなくてずっと開いているのか解りませんけど、A君の頭に、ずっとその二階の窓から祠を見ている人の映像が浮かんでゾッとしたんですって。
考えて見れば小学生の六年間と中学生のときの三年間、祠のことが気になっていたとはいえその家のことを一度も見なかったのはおかしいじゃないですか、この家の古び具合がいつからかは解らないんですけど、六、三、三、四、プラスαで二十年くらい前からあってもおかしくはない、つまりA君が祠を見ていたときこの家の住人は祠とA君を見ていた可能性があったんだと気がついたんだそうです。
もちろんそんなことは無いと思いますよ、この家にA君の登下校の時外に出ずに家に籠もっていた人がいたのか、その人が窓の外を見ていたのかなんて、可能性は低いでしょう、でもA君にしてみたら、そもそもなんで祠が気になって気になって仕方がなかったのかという不思議が年月を過ごしてきたわけですから、一度気になったら可能性を振り切ることができなくて、
「もう二度と行かない!行けないですよ!」
なんだそうです。
ただ後日談というか後になって似たような体験として、
祠に感じていた感覚って、A君がネットで「集合体恐怖症の人は見ない方がいい画像」を見てしまったときの感覚に近いんだそうです。
見慣れないものを凝視してしまう不安定さ、気持ち悪いものから目が離せない感覚、それを数百倍薄めたものを祠に感じていたような気がするんだそうです。
そして別れ際、「そういえば」と付け加えたことがこれです。
「そういえば、その公園で誰かを見たという記憶が無いんです。登校時間は朝早いので誰もいなくてもおかしくないんでしょうけど、下校時間は九年間、夕方なのに誰も見た覚えがありません。もちろん私の目に入ってなかっただけかもしれません。
しかし大人になって最後に行った日、休日のいい時間なのに誰もいなかったことは確かです。
考えすぎですかね?」
私は私で別れ際、
「そういえば祠の扉が開いていたときもあったと言ってましたね、何が祀られていました?」と聞こうと思ったんですけど止めました。
たとえばそこに鏡があったとか、実は何もなかったと言われても、大して違いはないなと思ったからです。
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