嘔吐:トイレには行かない方がいいんじゃないかなぁ、というお話
この話には嘔吐、吐瀉のシーンがあります。汚いものは読みたくない人は、引き返してください。
トイレには行かない方がいいんじゃないかって話なんですけどね。
話を持ってきたのはA君で、大学生のころだって言うんです。
大学は県の中央の田舎にあって、ほとんどの学部がそこに集中してるんです。大学を作るとき、土地が安かったんでしょうね。
田舎で特に見るものもない、土地の人にとっては学生が来て、不動産や飲食を中心に流通や娯楽とか、いろいろ需要ができるんで歓迎したんだと思います、学生向けのアパートだのマンションだの作られたんですけど、ここ二、三十年、少子化が社会問題になって、来る学生は減ったんですけど、まだバブル崩壊の弊害が本格化するまでは、あるいは本格化してもある層の人たちには、子供が少なくなったぶん自分の子供に掛けるお金が集中するんで、アパートやマンションも古いところを学生が選ばなくなった、大家さんは鉄筋コンクリートのクーラーの、設備投資をしないといけなくなったんです。しかし学生の総数は減っていくわけですから経営競争は激しくなり、お金を掛けないと学生は来ない、しかしお金を掛けても一定数は卒業して出て行くわけですから苦労は減らないという負のスパイラルに入って、もろもろ厳しい状況だったそうです。
しかしA君が大学生になったときは、学生数の急下降もまぁまぁ和らいで、住宅事情も疲弊しながらも小康状態かなってときみたいだったそうです。
大学に入学したA君が不動産屋さんにいろいろ案内された中で、バブル前からの生き残りである古びた木造アパートに決めたのは、上の階に綺麗な女の人が住んでいるのが見えたからだそうです。
家賃も平均的で、まぁ高くもない、設備は古いほうですが、マイナス要素というものも築年数くらいしか無いので、その女性との出会いの場として決めたわけです。
それでもA君、事故物件かどうかは確認しまして、そんなことはないと断言されました。
引っ越しを始めて両隣の家に挨拶に行きまして、片方が学生、片方が家族住まいで、そういう古アパートに住んでるくらいの人ですから特に警戒することもなく、お互い「よろしくお願いします」で順調にスタートしまして、直上に住んでる女性のところにも一度行ってみたんですって。お蕎麦を持って。でも留守で空振りし、うむやっぱり止めといたほうがいいかな、と二度は行かなかったんですって。
半月は何も起こりませんでした。というかA君のその部屋では最後まで何も起こりませんでした。
その日、A君がトイレに行って用を足していたら、上の部屋から声が聞こえていたんですって。
吐く声なんですが、ゲーゲーなんて生やさしいものではなく、内臓を全部吐き出してるんじゃないかってすごい声で、これあの女の人の声か!と驚いたんですけど、A君だって酔って吐いたことは山ほどありますので、笑うこともなく幻滅することもなく、ごく普通に(大変だな)と。
その日はそれで寝まして。
一ヶ月くらい経って、またA君がトイレで用を足していると上からア゛ーッ、ア゛ーッ、と聞こえてきまして、また(大変だなぁ)と。
しかしまた一月経って、同じ事がありますと、(大丈夫か?)と心配になってくるんですね。綺麗な女性ですから。
うむ、酔っているのかと思ったけど、実は何か病気で、他の日も気がついてないだけで苦しんでるのかもしれないな、と考えたんですけど、でも詳細は解りませんし、どうしようもありません。しかしこのとき、日にちは同じ日なのかとは気がつきました。しかし他の日もそうなのかも知れないと思いましたんで、そのことには特に何も思わず。
しかしA君が普通に暮らしていまして、女性が吐く声がするのは毎月の決まった日で、他の日には一度も聞いたことがない、日にち限定でこうなるのって、なんか変だなぁと思っているうちに半年が過ぎ、年末年始が過ぎ、ときどき女性を見てやつれが酷くなっているのを見ても声を掛けられない状態が続いたんですけど、三月になってその日、また声がしたなぁと思っていたらアパートの前が騒がしくなって、救急車のサイレンまでする、なんだなんだとドアを開けてみたら、女性が運び出されて救急車に乗せられて行ってしまった、あらまぁと思っていたのですが女性は帰ってくることもなく、家族の人がさっさと引っ越しの作業をして行ってしまいました。
どうなったんだろうとアパートの人だけではなく近所の人にも機会を見つけて聞いてみたんですが、みんな知らないという。みんな好奇心旺盛で知りたがっていて、A君にも何か解ったら教えてね、といってくるのですが、その後道で会って世間話をしても誰も女性のことを言わない、つまり誰も解らないんです。
ここでA君考えまして、上の部屋は空いたんですよ。
新年度になって大学に新入生が入ってきて、何人かは不動産屋から上の部屋を紹介されたんでしょうけど、誰も入居しない。そこでA君、上の部屋に引っ越そうかなと考えたんですよ。
不動産屋に行きまして、上の部屋ってどうですか、私が二階に引っ越すのはどうですかね、と言って、それで「女性はお亡くなりになってしまった」ということは解りました、瑕疵物件になってしまったわけですが、世間に言いふらすことでもない、実はあの部屋を紹介された人は誰も住みたいと思わず事件のことも聞かれなかった、
「う~ん、君が上に引っ越すかぁ…」となりまして、大家さんに話が行きまして、何回かやりとりがあって、それなりに安くしてもらえることになりました。
A君、それでニヤリとはしたんですが現実はそんなに甘くなくて、一階の部屋の清掃代等はとられました。仕方がないですが、A君が望んだのは家賃のことではないのは、みなさん解りますよね。A君、女性が亡くなったことを近所の人に言う気はありません。
女性はいなくなって荷物は全部無くなっていますが、A君はそれでも構わないと。
もちろん近所の人たちもA君の引っ越しをみて、
「あぁ、何もなかったのか」と思ったみたいで、A君に何も聞かなかったそうです。
さて、A君が二階から大学に行くようになりまして。
A君がその部屋でどう過ごしていたかは、まぁ想像つきますよね。しかし女性はお亡くなりになっているわけですし、遺族今のアパートを知らないし、大家さんと不動産屋も別になんとも思わない、どこにも〝嫌だ〟と思う人はいないわけですから、何の問題もありません。といっても、A君も女性がここに住んでたんだなぁと感慨にふける以上のことは、何もできないわけですが。
とにかくA君がその部屋に住むようになりまして、しばらくは何も起こりませんでした。毎月のその日が来ても、夜になるまで思い出すこともありませんでした。
その日の夜、つまり女性がすごい勢いでトイレで吐いていた日になり、夜になり、A君が普通にトイレに行きましたら、酸っぱい臭いがしましてね、あれ?今まで何もなかったのに、なんだ?と。A君別に酔ってませんし。
と思った瞬間、とてつもない吐き気に見舞われまして、ゲーゲーと。
酔ってません。お腹も痛くなっていません。体調不良でもありません。なのに酸っぱい臭いがしたなと思った途端、吐き気がこみ上げてそのまま胃の中のものを吐き出しました。
吐いても吐いても吐き気は止まらず、本当に内臓が口から出るんじゃないかというほどの吐き気で、え~!と。
A君も今まで生きていて、それなりに吐いたことは経験してます。酔って吐いたこともありますが、実はA君頭痛持ちで、肩の筋肉から首の筋が引っ張られて頭の皮が引っ張られての頭痛と、頭の斜め後ろの血管が収縮してズキズキいたんで、それらの緊張を解くための吐き気が主です。純粋に吐き気だけで吐くのは、たぶん生まれて初めてじゃないか、で吐き気が止まらない。
それでもその日はなんとか止まって、部屋で時計を見ると五分くらいしか経っていない、なんだこりゃと。そして、女性も体調が悪くて吐いていたんじゃなく、訳がわからない吐き気で苦しんでいたのかと気がつきました。
しかしこの部屋に引っ越すとき、不動産屋も女性以外で亡くなった人はいないと力説していましたんで、一体何なんだろうと。
吐き気はその日だけではなく、毎月その日に起こりました。近所の人に会って、あの部屋のこと、女性のことを聞かれて「いやぁ、何もありませんよ」と言いつつ、女性が住む前のことを聞いても特に何もなかったと言われる。
月に一度が何度も続いて唯一解ったことは、酸っぱい臭いを感じてから吐き気が始まるです。臭いが刺激となって吐き気がする、それまではその日も何も起こらないのです。
まいったなぁと思いつつ、もう女性のことは頭から消えています。どうしたもんか、引っ越そうかなぁと思っていて、また三月になりましてね、吐いて苦しんだあと、寝て、夢を見ました。
この部屋で、ちゃぶ台があって、夕ご飯が並べられている。その向こうにお母さんがいるのですが、暗くて顔が見えない。食べたくなくて固まっていたら、お母さんに怒鳴られて、しぶしぶ箸をのばす。
黄色くて固いご飯を口にする。とても酸っぱい。
冷え切った魚を口にする。とても苦い。
芋を口にする。とてもネチャネチャしている。
嫌な感触を我慢して口に運び飲み込むのだが、とうとう我慢できなくなってトイレに行ってゲーゲー吐く。
その後ろでまたお母さんが怒鳴って、自分の体を引きずり起こして殴る…ところで目が覚めた。
…なるほど、児童虐待があったのか…子供が死んでなければ瑕疵物件にはならないだろうな…女性は体力が保たなかったか、解っても逃げ出さなかったのか。
朝になって、近所の人で家の前を掃除している人をみつけて話しかけて、はやり何年も前に母子家庭が住んでいたことを聞いて、不動産屋に行って解約を言いました。事情を説明しますと不動産屋さん、「私は最近親から継いだのでそこら辺知らなかったです。親は事件を知っていたのかもしれません」と言いつつ、次の部屋を探してくれました。
A君つくづく、
「いやぁ、トイレには行かない方がいいんでしょうけどね、行かないわけにもいかないですからねぇ」と言って、話を終えました。