脳味噌破裂するような(8)

 屍の転がる間だった。……異臭が放たれていた。誰も、どこにもいないといった間……、それは空間、暗いところ、日の当らない部屋。
 メイドさんと一緒に歩いてゆく。
――一歩進むごとに空気が足に纏わりつくみたいだった
 粘性的なそれが抵抗を増加させてゆき、僕の進行を遅らせようとする。
――吐く息さえ、ゆっくりと重たげに拡散してゆくかのようだ
 異臭のせい……? いいや、どうにもこれは、過去の記憶のせいではないだろうか? 僕に見せてきた虐待の光景、拷問の風景、処刑の遠景、それらが足に纏わりついてくるかのようなのだ。……あるいはこれは、恐れ、なのか?
 僕に立ち向かうことを躊躇させているのか、彼が?
 人を殺していると畏怖を感じさせすらするのだろうか、人とは異なるものとなってしまうのか?
 いや、違う、赤黒い血溜まりを避けたいだけなのだ、汚れたくないだけなのだ、けれども進む……、あいつのいる方へ。
 この間の、このラインを跨ぐのは初めてのことだなんて思いながら、彼女の方を見ると、ゆっくりと微笑みを返してきていた。
 一瞬、弾ける日にそれは明るく照らし出され次いで逆光となり影と化す。
 いつか、彼がそうであったように……。
 止めることなく進んでゆく。
  まるで二人の歩みは何かに決定付けられたことだとでも言うように。

 ふらんふらん、と歩いてゆくと、そこには意外に速く外廊をゆくあいつがいた。血を垂らしている。……ナイフで首を刺されても、歩けるのか?
 愉快気に手を振りながら歩いている自分に気付かされる。
――謂わば、愉快なウォーキングです
 それは何故か、中学時代、学校の中でした鬼ごっこを思い出させた。ある女子が逃げ、次いで僕が追い掛け、二人は密室に居り、彼女に誘導されたことに気付かされ、遅れて追い付いた幾らかの女子達が囃し立てる言葉を聞き、……それは詰まり僕が彼女を追い立てたとか手籠にしようとしていたとか言いたい訳で、それが実のところ彼女らの期待の裏返しであったと気付かされるような……、あるいは、あのとき僕は狼さんになることを求められていたのか?
  そうだ、僕は性的なるものが嫌いだった。それが如何に微光を放っていても。

 一歩目、踏み出す度に、思い出のようなものが甦っていった。村上春樹の、”つらいことがあると思い出すねん、過去のこと、それがいいものか悪いものかに関わらず”といったような一節、それは確か『アフター・ダーク』の。
 それ自体、あいつが読んだり、教えてきたりしたものであるのだが。
 何故なのだろう、そういったことをして僕が喜ぶとでも思っていたのだろうか?
 銃があれば放っていただろうことを思う、彼の背に真っ赤な花が咲かされていただろうことを……。
 傍らの彼女はこちらを笑みつつ見ている。

 純文学が嫌いなんだと彼は言っていたが、それなら何故そんなことしてきたんだろう?
 自分が嫌いなものを他人に押しつけても喜ばれる訳がないじゃないかと、そんなことを思いながら、……歩く。
 無暗に重くなる足が、……妙な感じだ。

 彼女はすらりとした足を真っ直ぐに前に伸ばしながら揺れるように歩いてみせる。……影すら涼しげな、真っ白で清潔なエプロンを付けた彼女だった。ドレスチックなメイド服を着た。
 その手は靭やかに振られる。

 あるいはどこか僕の似姿をそこに見出していたかも知れない、そんな彼女……。

 記憶の中、もう一人、女子が浮かび上がる。吐く息が、震える。
――いつものようにただ一緒にいただけなのに、急激に首に手を回し、重力に素直になれと言うが如き態度をするような
 それは詰まり、僕に何をしろと言っていたのだろう?
 偶然、押し並べて偶然という言葉で括られてしまうようなアクシデント・セットの中にそれは組み入れられてしまえるものなのか、……? それでも彼女は僕に何かを囁きかけていた、あなたがしたことなのよ、といったことを。
 それはどうして?

――彼はそういったことについて何を言うだろうか?
 足を引き摺ろうともしないあの仮面のあいつは……、僕の前方をゆくあいつは。
 ただ愉快気に手を振り歩く僕がいる。
 何がそんなに楽しいのか分からないけれども。
――内心、恐れを抱いていた筈ではないのか……?
 見縊るな、と呟いてもみる。

 どうしてか、それが彼の肩をびくつかせように思える。
 ……聞こえる筈なんて、ないのに。

 しかし、どうしてなのだろう? 程ほど多くの時間を共にしていた筈なのに、監禁していた彼との思い出こそ少なに感じられるようなのは。

 彼はいつも背を見せていたように思えるのだ。
 あるいは正面から見たくなかったのかも知れない、あるいはあの間でただ語るとかいつも同じようなことを繰り返して来たから思い出なんてものを作り出さなかったのかも知れない。
――それでも妙なぐらい彼が嫌いだ
 ストック・ホルム症候群とか、いつでも彼に好意を抱くチャンスはあった筈なのに、……そうならなかったのが不思議なくらいだ。
 どうしてあんなにも嫌いになれたのだろう……? そう、過去形で語れてしまうくらいに嫌いだ。
 あんなものが排除されない訳がないと確信めいたものを抱いてしまうくらいに嫌いだ。
 ダーティー過ぎる、血で汚れていることから分かるように。

 そうだ、あの彼がした渋谷パーティーの中に、あの女子達はいただろうか? 僕に重力に素直になれと促した女子達は……。
 彼がしたこと、思い出? ”大災禍”、放火、それから……? 渋谷パーティーなんてこともしたことがあったなぁ。
 渋谷スクランブル交差点前のビル屋上から、電車線路火災テロより仮想通貨や為替取引で得た利益を、日本の紙幣として風に乗せて撒いた事件。
  あらゆる人がそこに集い、ツイッターで拡散されユーチューブ・ライブで配信され、BBCやSky newsといったニュースメディアにオンラインで中継されたあの事件、……各国のテレビでも騒がれたあの事件、渋谷で大手を振り、経済が活性化するなんて騒いでいた若者達ばかりがいたあの事件、テロリストの名を知らしめた、まさか電車線路火災テロよりも世間の注目度を集めることになるとは大方のテロの同志達が思っていなかったあの事件、すき家にいながらスマホで視ていた、あれ……、大人しく視ていたのに何故か男達が絡んできた、興奮してきた男達がどこにその感情をぶつけるべきか分からず、僕らに声を掛け、すぐに店を出ることになった、一連の行動を齎すことになったあの事件……、いかがわしい金銭に群がる人々を浮き彫りにして見せたあの事件……、パーティーみたいなもの。
 実のところ、それは幾度もされており、第一波のときは屋上に僕はいたのだけれども、風が強過ぎ、……髪が絡まるみたいに靡き、嫌な気持ちを味わわされたのだった。あのときもあいつは、そこにいろ、と僕をそこに置いていたのだった。
 あらゆる人が拝めた。子供も、大人も、紙幣を拾っていた。警察が出動し、拾わないでください、拾わないでくださいとメガホンで叫び、これは犯罪の絡んだお金に違いないから自分達に渡せと言っていたあれ……、老若男女を問わず、みながみなが紙幣を掴もうとしていたあれ、……、どうして誰も止めることをしなかったのだろう?
 実のところ、混乱が起き、あの経済にとって重要なスポットらしい渋谷において人々が騒いだことは、不利益を齎すものであったというし、何度もしていたのだから警戒を強め、防ぐことも出来た筈だろうと思えるのだが、しかし、存外な程警備は緩く、またそういうことを任されていた人達も紙幣を手に掴んでいたようにも思えるのだ。……局所的に、日本の法律を無効にする場を作り出したみたいだと、彼は言っていたか。
 渋谷の明かりに紙幣は照らされ、きれいにひらひらと舞いながら、人々やアスファルトの手に落ちてゆくようでもあり、何かよく分からない渦の中に吸い込まれてゆくようでもあり、それに人々を巻き込もうとしているかのようでもあり、自動車達も臭いも道路も街路樹もビルも光も何もかも呑むみたいでもあった。
 人は重力に逆らわなかったみたいだ。
 自動車よりビルより先に落ちてゆこうとしたのは若しかすると人間の欲望がそれらよりも重かったからなのかも知れない。相対性理論以降、空間にとって直線を描くものこそ自然落下しているもの、重力に真っ直ぐ引かれるものとして扱われる訳だけれども、彼らのベクトルこそ真っ直ぐなものであり、空間の様相そのものであるといったような。空間そのものが相を変え、欲望を中心としたフィールドと化してゆく、……その揺らぎを観測していたのかも知れない。
 人は綺麗な螺旋を描きながら中央へと寄り、それから様々な方向へと弾け、といったことを繰り返しているようだった。
 どうしてなのだろう、彼はそのときもまた講釈を垂れるようなことをしていた気がする。……風に煽られながら、仮面越しに声を発していた。
 それなら、仮面、脱げばいいのになんて思っていた。
――夜空が仄かに浮き立っているように見えもした、まるで東京の光に照らし出されるようにして
 東京の空に星が見えないのはそれがすべて下に落ちたからなんだとか、……、なら、それなら再度星を吸い込もうとする、失われたものを取り戻そうと空が蠢くのもまた不思議ではなかったのかも知れない。
 そう、それは震動し、まるで落ちようとしているかのようであった。
 プロペラの巨大な機動音が聞こえ、テロリスト達は公安から逃げ去ることになるのであった。……僕は立ち止まった。
 このままここにいれば、逃げられる。国の人達に保護して貰える、そしてテロリスト達の内部情報を流した僕は英雄に……っ。
 仮面の男は、僕の手を引いた。
「こっちへこいっ!」
「嫌だっ!」
抵抗する僕を、抱えるように彼は連れ出していった。彼の息が弾んでいた、……昂揚している? 正義の味方にでもなったかのように感じているのが、伝わってきていた。それに、自分が善い事をしているといったような昂揚を味わっていることも……。
 何がしたかったというのか?

 その彼が、血を垂らしながら歩いていた。どうして、歩むことをやめないのだろう? 彼が偶にするジョークも卑屈さの裏返しなら、どうして卑屈なままで、それだけでいようとしなかったのか? そうしていれば僕に関わろうなんてしなかった筈であるのに。
 バイバイ、と口に出してみた。

 彼女が遠慮なく笑みを弾けさせた。