パロールな真理とエクリチュールとしての真理、それから承認欲求とかコミュニケーションについて
パロール(話し言葉)とエクリチュール(書き言葉、記された物)の対立はかなり昔からある。
それこそ古典的なものだと言ってもいいことだろう。
パロールが人文科学的なものだとしたのなら、エクリチュールは自然科学的なものではないだろうか? というのも、自然科学的真理は常に記述されるもので、そして書かれた式というものを容易に変更することはしがたいから。
パロールは話し言葉的なもので、対話により新たなことを発見する、会話している人達がそれぞれ自己の認識を改める、自分が思い込みを持っていたことに気付く、……といった真理を開示している気がする。
それでも数学者は話す生き物だということが言われていて、同業者の間でコミュニケーションを彼らは取り、アイディアについて話したり、仮説を検証したりすることを繰り返しているらしい。話したり、仲間を持ったりすることは大切だということをどんな数学者も繰り返し強調して言う、……らしい。
その為、パロールとエクリチュールの対立はあるけれども、どちらかのみを選択するということではなくて、……どちらに比重を置くかの問題ではないかと思う。
ここでは、パロールにしろエクリチュールにしろそれらに対応する独自の真理があるのではないかということを言っている。
異文化理解とか権力の行使/制限といったことにパロールは向いているかも知れない。
しかし、伝達という意味においては、伝言ゲームが示すように、それが正確に為されなかったり、情報が簡単化されたりするというリスクを孕んでいる。
時代間を隔てて伝えることや、正確な伝達をすることにエクリチュールは向いているかも知れない。書き言葉は容易に変更することが出来ないし、話し言葉的に伝達することも出来ないのだけれども、不変性を持っている。……これは自然科学的仮説が科学実験を経て検証を繰り返されることからきている性質でもあるかも知れない。
面白いのは自然科学の祖とも言えるソクラテスがエクリチュールに対してパロールを優越させているところで、ソクラテスは実際、アテナイの虻と言われるくらい、相手の言葉から背理を引き出すのにご執心だった。
この対立は相対主義と客観主義との対立にどこか似ているようである。
相対主義者は「Aにとって真理であることがAにとっては真理なのであり、Bにとって真理であることがBにとって真理である」というようなことを言う。客観主義者にとっては絶対の真理というものがあり、それを追い求めている訳である。……前者の末裔が人文科学であり、後者の末裔が自然科学であると言ってもいいかも知れない。
ただ、真理とは何かという問いに相対主義者は答えられない。客観主義者は真理とは何かと問うことが出来るけれども、相対主義者にとっては真理というものはある意味、「誰かにとって真理であるもの」であり、循環定義に陥らざるを得ないことになるだろうから。相対主義者にとっての真理とは、ある意味で”事前に肯定されたもの”なのだと言ってもいいことだろう。……それは一つの思い込みとも言えるかも知れないし、文化的なものであったり、蓋然的に当てはまる経験則的なものであったりするかも知れない。
パロールな知性というのは認識者の態度変更を促すものであったのではないかと思えるのだ。
情報の共有をしたり、誰かに誤りを指摘して貰ったりすることで理論が精緻化される。自然科学者だって検証という過程を通さなければ学術的真理を明らかにすることが出来ない、……というのも自分の書いた論文に誤りが含まれているかも知れないし、証明の過程や実験手法が間違っているかも知れないからである。
そもそもコミュニケーション的に真理探究をしている訳だけれども、論文の審査という意味でも他者の承認のようなものを避けることが出来ないようである。
……最近は承認欲求がどうとか言われるようになったけれども、承認欲求って、何でそんなに下から目線なんだろう? 承認をする側、とか、「いいね」をつける側が偉いみたいになってしまうのは何故なんだろう? 結局、いいねを付けたり拡散したりする側の方が無償労働をしていることからそういうものがくるのかも知れない。承認欲求を抱いている側が誰かに承認させる、ということも起こっているようだけれども。
それにしても、承認欲求という言葉はそれ自体ミスリーディングなもので、承認される満足感を求めている、ということになってるのであって、承認欲求的満足感、というようなものは、それを表すのに承認欲求という言葉を用いざるを得ない、謂わば承認欲求的満足感を求めるというときには、欲求を欲求するという言い方をせざるを得ないというような二重表現を用いていることになる。
誰かに養われたい欲求的満足感、と言うなら誰かに養われたいとか、不労所得を得たいとか言えば済む話であり、物を食べたい欲求的満足感と言えば物を食べる満足感とか物を食べたい欲求とか、言えば済む話である。
承認欲求が何を求めているのか、どんな満足を目的としているかについては、未だ承認欲求的満足感とでも言うしかない状況にあると言っていいだろうと思う。
そもそもSNSにおいては、モテていたり、スクールカーストの上層にいたりする人達がフォロワーやインフルーエンスを持つことになる。
パリピと言うと人間関係的な意味では希薄なそれでつながっているようだし、リア充と言うと現在三十代以降の女性達、それもそれ程モテなかった人達が使う言葉であるし、化粧をしたりどれだけ男性と付き合えるか(希薄な関係を持てるか)競ったりすることによって自身の魅力の無さを補填しようとしている人達が求めている価値である訳だけれども、そういった方達ではなく、基本的にスクールカーストで言えばその上層にいる人達の方が、強くなるツールなのである。
そうして、彼らのような人達はSNSを使わないという話もある。
承認欲求を抱いているのは、どちらかと言えば、それほど人に好かれないタイプなのではないか……?
スクールカーストのトップ層か底辺層かで言えば、底辺層に近いのではないか、と思ってもみる。
ツイッター社のマーケティングによると、ツイッターユーザーにはそういう傾向が強いようであるけれども、フェイスブックやインスタグムのユーザーも基本的にそういったタイプなのではないかと思う。キラキラしている自分、リア充している自分をアピールしたいという欲求を持っている点については変わらない、リア充な自分になりたいのであって、実際リア充でいる訳ではないのではないか?
大体、承認を求めているのはリベンジをしようとしている人達である、あるいは自分達より下の人を求めている人達かも知れない。ツイッターユーザーであるにせよ、インスタグラムユーザーであるにせよ、自分の為に拡散したり「いいね」をしてくれたりする無償労働者を求めている、という点については変わらない気がする……。
また、ツイッターではイキリ発言が多いとか言われる。けれどもそこはそれ、イキらなかったら逆に叩かれるから彼らはそうしているのではないか? みんながキラキラアピールしている集団の中では、ある意味では自分も集団の一員だということを示す為に嘘でもイキらざるを得ないのではないか?
詰まり、背景にはイキらざるを得ない状況があると言ってもいいことだろう。
これが逆転すると、詰まり無償労働者達に対して威張って接したりとか、これは素人の作品なんだとか素人なんだというある種の留保を置いて無償労働者達が接していることを、それを忘れてしまったりすると、関係性が壊れてしまうのだろうと思う。結局、無料で楽しみを得ている側、コストを払っていない側の方が偉くなるというのなら有料化するしかないのだろう。それでも、ある意味、承認されたい側の立ち場が低いというのはあると思う。それはそれとして、クリエイター同士の摩擦のようなことは起こるのだけれども、SNS上でそういった人達同士がつながりを持っても意味は無いのかも知れない。
さて、パロールな真理と言うと、コミュニケーションの真理と捉えられるかも知れない。……しかし、コミュニケーション上の真理なんてものがあるのだろうか?
人間の”何”に、どんな性質に比重を置いて人間を語るかということについては時代によって変化している訳だけれども、このコミュニケーション時代においてはコミュニケーションしているときの人間に比重が置かれているようでもある。
本質主義から実存主義への跳躍があり、規定されることから人間は逃れてきた訳だけれども、また新たな壁に突き当たっているのかも知れない。……あまりにも”コミュニケーション上の人間”に焦点が当てられ過ぎているのかも知れない。人文主義や個人主義と言うより、コミュニケーション的な人間中心主義と言えるかも知れない。
結局、コミュニケーションというのは個人のことや実際的なことを考慮するより、コミュニケーションそのものだとか、誰かの都合や、マニュアルを優先させることを意味していないだろうか? 思考停止させたり、誰かに搾取されたりすることを強制しているだけではないのか?
そうして、コミュニケーションの言葉には嘘が含まれているのであった。
パロールな真理は寧ろ、それに対して逆説を提起するだろう。
コミュニケーションについて未だ日本人達は知らないのだと言うことだろう。
結局、こういった”コミュニケーション”の能力というものの行く先はマインドコントロールだとか、自分の権力を増したり、自分の為に無償労働をしてくれる人を増やしたりするだとかいうカルト教祖的テクニックなのかも知れない。
自分にとって都合の良い相手を求めたり、自分にとって都合の良いように他人を変化させたりする能力だと言えるだろうか?
それに対して、エクリチュールな真理は寧ろ、権利や尊厳といった語で抵抗することを促すだろう。
……元々それはまったく科学者的態度と共にあったのであった。聖俗革命や啓蒙思想と共にあったのであった。
また、コミュニケーションの名の下に迎合するよう脅迫してくる者達に書かれた物は抵抗することだろう。
誰かが勝手に定義した”コミュニケーション”と、その強制から人間が逃れ、科学と共に新たなコミュニケーションを提起することが出来ると言うのなら、我々は新たな自由を手にすることが出来るのではないか?
そうして教会の権威主義が弾劾されたように”コミュニケーション”主義も弾劾されるようになることだろう。