雪どけ、早春、今夜限り
眩しさに目を開くと、あなたがいつものようにこちらを見ていた。
「おはよう、よく眠れた?」
包み込むような声に、また眠りに落ちそうになるのを堪えて答える。
「そうねぇ、あんまり。なんだか夜が短く感じたわ」
「実は僕もそうなんだ。同じだね」
不安な気持ちが芽生えかけてもこうしてあなたが微笑んでくれるから、この笑顔よりも大事なものはないと思えた。
この世界には、私とあなた、ただ二人。それと地面を埋め尽くす雪。それだけしかないけど、それだけで十分だ。
幸せを感じた刹那、おとなしく私たちを見上げていた雪が、微かに震えるのを感じた。
――来る。
そう思うのと同時に、手を強く握りなおされる。握り返せば、足元の雪は一斉に舞い上がり、空へと還ってゆく。視界が真っ白になる。この世界では一日に一度だけ、このような「雪の再生」と呼ばれる現象が起きるのだ。と言っても、そう呼ぶのは私たち二人だけなのだが。
「これには、いつまで経っても慣れそうにない」
雪の向こうであなたの声がする。
「そう? 私は、あなたと二人で落ちていくような錯覚がして好きよ」
「雪があがっているのではなく、僕たちがさがっていると? 君はいつも面白い発想をするね。まったく、僕を飽きさせることがない」
表情が見えずとも、あなたがどんな顔をしているかは手に取るように分かった。
「あらそう? 楽しんでいただけるなら光栄です」
「落ちる、というと、それはそれで恐ろしいけどな」
「私はあなたと二人なら、地の底に落ちようが構わないもの」
視界がクリアになれば、目を合わせて笑い合う。空高く昇った雪は一所にぎゅっと集まり停滞すると、しばらくしてから、ふっと緊張が解けたかのように、またゆっくり頭上に降ってきた。私たちは、身体が白く染まっていくのを拒まず、変わらず手を握り合っていた。
雪越しに見えるあなたも素敵だと、もう何度目か分からない惚れ直しをしていると、急に辺りが暗くなった。あなたの顔も見えない。
「もう夜になったのか?」
声が聞こえる、手の感触もある、いつもと同じ。でも、こんなに早く夜が来るなんて、今までになかった。
「やっぱり、時間の進みが早くなっているんじゃ……」
私の声に潜む不安に気づいたのか、あなたは落ち着いた声で、私に語り掛けた。
「ハル、というものがあると、知っているか?」
「知らない」
「雪がトけると、ハルが来るらしい」
ハル、というのを想像してみるが、私の頭の中は真っ白に染められ、難しかった。トける、というのは、どういうことだろう。雪は、降るか昇るかなのでは? わからないが、なぜだかわくわくする気持ちを止められなかった。
「まだ怖い?」
「ううん、ハルでも何でも、あなたがいるなら怖くない」
「良い子だ」
手を握る。ハルが来た世界で、いつものように笑い合う二人を想像しながら。
「棺にいれるものは、もうありませんか?」
「あ、待ってください」
大事に仕舞っていたので忘れるところだった。美里は箱からスノードームを取り出し、一度だけ逆さまにする。祖母が毎年していたのと、全く同じ仕草で。
雪が舞うのを見て、こんなに美しいものだったのか、と燃やしてしまうのが惜しくなるが、祖母はきっとこれを連れていきたいだろうと思い直し、彼女の顔の近くにそっと置いた。
いつもクリスマスの日にだけ出してきて、二人身を寄せ合って眺めていたスノードーム。人形の男女が手を繋いで見つめ合っている、思い出の品だというそれを、祖父が何度もひっくり返したくなるのを祖母は強く手で制止し、「一度だけ、目に焼き付けるの」と言っていた。
「何度もすると飽きるでしょう、人生だって、一度きりだから精一杯生きるのでしょう」
祖父は、ふてくされつつも、そういう祖母のことを愛しそうに見つめていた。
棺が閉じられる。祖母が亡くなって悲しい気持ちはあるが、それ以上にほっとしていた。もう、あの寂しそうな背中を見ずに済む。
クリスマス前に祖父が亡くなり、一人でスノードームを眺める祖母を見たとき、この人ももう長くはないだろうと覚悟していた。やはり百箇日を待たずして、眠りにつくように息を引き取った。一人で春を迎えるのは心細かったのだろうと思う。
向こうで、二人、元気に暮らしてね。
手を合わせる。天国で、生前のように笑い合う二人を想像しながら。
このお話は3月に行われたTwitter企画 # 春の創作ワンライ に寄稿したものです。お題は「雪どけ、早春、今夜限り」でした。
スノードームは棺に入れられるのか?というツッコミは勘弁してください。