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ヴェノム〜邪悪で優しいもう一人の自分〜

 三十年前に車椅子の身になって、初めは「車椅子」とか「障害者」というレッテルを貼られるのが嫌でたまらなかった。生まれたときから身体や精神に障害を持っている人たちからしたら、「それまで存分に二本脚で道楽三昧したじゃないか」と妬まれるかもしれない。確かに交通事故に遭うまでの僕は、親の心配もよそにバイクで北海道へ一人旅に出かけたり、唐突に渡米したりする、まさに典型的な放蕩息子だった。恐らく、受傷後、医師から歩けなくなるのだと知らされても悲観して塞ぎこまなかったのは、それまでにやりたいことを悉くやらせてもらえたからなんだと思う。

 車椅子の身になって社会に出ると、まだ障害者の社会参加に寛容ではない人たちから煙たがられ、階段や段差など大なり小なりの物理的な障害に僕はストレスを感じ始めていった。

 振り返れば、そうした手探りの日々の中で、僕は常に僕自身を俯瞰していた。

 歩いていた頃の僕が、歩けなくなった僕を遠目から観察し、その難関をどう乗り越えるのか、また乗り越えた先でその体験をどう活かすのか興味津々で見ているのだ。

 歩けない僕も、僕を見ている僕に気づいていて、彼に嘲笑われるような無様な真似だけはするまいと、鼻息荒く邁進してきた。だから、僕は常に影のようについてくるもう一人の僕と、これまで切磋琢磨してきたようなものだった。

 歳を重ねて、怪我や病気にも陥りやすくなった。今は尻の左側面に正体不明の腫れがあり、患部の熱とそこを起因とする体調不良に振り回されている。

「ついこの間、褥瘡の再発を乗り越えたばかりだというのに、一難去ってまた一難だ」
 病院の待合室で、僕は誰にともなく呟いた。
「まぁ、そう拗ねるな。こうして自力で受診できるだけ、ラッキーだったのかもよ」
 僕の背後からニョロニョロとせり上がってきた黒い影が言う。まるでヴェノムのようだ。
「給料日前で医療費も払えるかわからないし、これから通院が続くともなれば、交通費も必要だし、会社の残り少ない有給休暇も底をついちまう」
「おいおい、まだ診察もしていないうちから泣き言かよ。今までどれだけの手術や療養生活を乗り越えてきたんだ?今まで、どうにかなってきたんだ。これからだって、どうにかなるに決まってる」
「そうかな?」
「思い出せよ」ヴェノムは僕の背中からぐにょーんと僕の前に出てきて、人差し指で僕の鼻面を指差しながら、低い声で言った。「お前が北海道に出かけた17歳のとき、キャンプの調理器具が壊れてしまっただろ?その時、どうなった?」
「隣でテントを張ってた老夫婦がジンギスカンをごちそうしてくれた……」
「お前が勢いだけで渡米した19歳のとき、キャンプしたヨセミテ国立公園でテントもバックパックも消えちまっただろ?その時、どうなった?」
「盗まれたんじゃなくて、夕立に濡れないように隣でテントを張っていたドイツの若者が岩陰に取り込んでくれていた……」
「お前が車椅子の身でウランバートルに行ったとき、車椅子のフレームが折れたよな。その時どうなった?」
「もう旅は頓挫したと諦めかけたけど、現地のドライバーが片っ端から鉄工所を巡ってくれて、半日のうちに溶接ができた……」
「だろ?」

 ヴェノムは自慢げに胸を張り、僕を見下ろした。

 ベルリンで無一文になったときも、ロサンゼルスで車椅子のタイヤがパンクしたときも、台北で屋内ロックフェスのチケットが発券できなかったときも、メルボルンでニューイヤーカウントダウンを狙ったテロに怯えたときも、その場で考え、決め、行動してきた。そして、その背後にはいつももう一人の僕がいた。

「転職した途端に尻が腫れて、職場に迷惑をかけてるんじゃないかと卑屈になっているんだろ?」

 ヴェノムにそう言われ、僕は反論できなかった。

 長い就職活動の果てに53歳の僕を採用してくれた新しい職場に恩返しをしたいと思ったのは本心だし、その意欲と実際の自分の健康状態がうまく噛み合わないことに苛立っているのも事実だった。

「でも、視点を変えてみてみろよ。再就職する前に病気や怪我に陥っていたら、それこそ医療費が払えないどころか、家賃も払えなくなって家族の暮らしも破綻してしまうところだったんだ。再就職して、社会保険にも加入して、特別休暇や有給休暇を取らせてくれるときに尻が腫れた。お前の尻は、腫れるべくして腫れたんだ。そう思えば、少しは気が楽になるだろ?」
「でも、仕事に穴を開けるわけだし……」

 僕がそう弱気をこぼすと、ヴェノムが大口を開けて今にも僕の頭を飲み込むかのように迫り、長い舌で僕の頬から目尻までをなめ上げた。

「おこがましいんだよ!お前が思っているほど、周りはお前に期待してないし、仮にいくらか期待していたとしても、病気で休むことを責めたりしないさ。妊娠したり、骨折したり、うつ病になったり、尻が腫れたり…、みんな持ちつ持たれつだってことを忘れんな!」

 そこまで言うと、ヴェノムは黒い煙が換気口に吸い込まれるように、僕の背中から僕の中に帰巣していった。

 やがて診察室に呼ばれた僕はそこで手荒い処置を受け、ひとまず熱の元凶になっていた膿を絞り出してもらうことができた。

「感染の原因や皮下でどんなことが起きているのか詳しく調べたいから、来週また来て」

 医師はそう言って僕を送り出した。

 心なしか尻の左側の熱が引き、痛みや気持ち悪さが和らいだ気がした。しかし、医療費の支払いという最終難関が待ち受けていた。

 ベルリンで現金の殆どを散財し、手元に限度額に到達したクレジットカードを残しただけで、ホテルの無料のミネラルウォーターや機内でもらったチョコバーで空腹をしのいでいた僕は、毒食わば皿までと、レストランで堂々と食事をして、支払いの段になってただのプラスチックの板となってしまったクレジットカードをウエイターに差し出した。

(申し訳ございません、お客様。このカードは使えません)
(そうか、困ったなぁ。現金はないんだよ。あ、トラベラーズチェックならいくらかあるんだがね)
(そうですか……、本来はトラベラーズチェックは受けないのですが、仕方ありませんね)
(ありがとう。また来年もこの店に食べに来るよ)

 そんなシナリオを絞り出していたのだが、僕のクレジットカードを持って戻ったウエイターは、笑顔で伝票を僕に差し出し、サインを求めた。

(あれ?三日前にホテルにチェックインしたときには使えなかったのに……?)

 毒食わば皿までのつもりが、虎穴にいらずんば虎子を得ずという顛末になった。僕はヴェノムが言ったように、ひとまず一人で考え、行動してみた。

「すみません。医療費の持ち合わせがなく、今日支払いができないのですが、抗生物質が処方されているのでそれは持ち帰りたいんです。来週、再診の予約もありますから、その時に支払います」

 来週になれば給料が振り込まれる。

「全然大丈夫ですよ。この処方箋をあちらの薬局でお薬を受け取ってください。お支払いは来週で構いませんから」

 受付の事務員は屈託のない笑顔で僕にそう言い、僕の背中にそっと手を添えてくれた。これも「手当て」なのだ。

 僕の中に潜むヴェノムは、いつでも僕を見ている。心細くて路頭に迷っているときだけじゃなくて、僕が浮かれて調子に乗ったとき、大事な理念やプリンシパルを見失っていないか、僕を戒めてくれる。

 だが、彼にとっても僕は守護神だ。後先考えずに本能のままに行動する彼を、僕は時に足元の石橋を叩き、時に黒い雨に濡れぬように傘を差し出す。そして、彼が冷静さを取り戻して、僕のことを思い出してくれたときに、僕らは改めて互いの絆を確かめ合う。

「さて、ヴェノム。なんだか膿を出したところがまた疼き始めてきたよ。影の君も辛いだろうが、光の中に生きる僕も厚顔無恥を貫くのが、なかなかしんどい。ひとまず次の診察を乗り越えよう。その後は、またそのときに考えればいいさ」
「お前もだいぶ分かってきたな」

 僕の中で、ヴェノムが憎らしげに言った。

「その人に乗り越えられない苦難は、訪れない、とも言うしな。まぁ、誰が言ったかは知らないけど」
「コロナが終息したら、また二人で海外に行こうぜ!見た目には一人だけど」
「あ、ベトナム、行きたい!」
「イイね、ベトナム!もういい歳なんだし、新しい職場でちょこっと蓄えて、定年でベトナムへ移住、なんてのも悪くない」
「うん、悪くない」

 再び襲ってきた微熱に浮かされて、どうやって家に帰ったかもろくに覚えていない僕は、そのままベッドに横たわり、バターの塊が熱でゆっくり溶けていくように、眠りに落ちていった。

(了)
 

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