竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(58)
〈前回のあらすじ〉
T大学に着き、広い構内をさまよいながら諒は事務室にたどり着いた。そこで大学の卒業生である直について知っている人がいないか、尋ねた。対応した佐伯という女性事務員は諒の身元確認をし、まずは交友関係を当たるべきだとに再度懇願し、直のことを知っている風間教授との接見を取り次いでくれた。
58・シロナガスクジラのルーツは人間と同じ
僕が高校生だったとき、授業が行われている時間の校舎は物静かだった。T大には人気は少なかったが、部活や研究室でのアルバイト、春休みの補習で多少の学生が来ていた。それでも、敷地が広いせいか、事務室を出たあたりはまるで高原の奥深くにある別荘地のように、静かで牧歌的だった。
風間教授の授業が終わるまで、僕は半島の先にある大学付属の海洋科学博物館に足を運ぶことにした。歩いてそこにたどり着き、中を観覧し、また歩いて戻ってくれば、ちょうど昼頃になると見込んだからだ。
大学の門を出ると、松林の小径を見つけた。僕は土や松葉の匂いに惹かれ、そちらへ足を向けた。程なくすると、簡素ではあるが僕が泊まっている民家を改装した民宿とは比べものにならない立派な旅館を見つけた。もしも黒尾とかおりと三人で清水に辿り着いていれば、おそらく黒尾はワンボックスカーのナビゲーションシステムでこのような旅館を選んだだろうと、僕は空想した。
それから僕は、老犬と散歩をするような速さで小径を歩き出したのだが、まさかその旅館に、自分を捕まえようとやってきた黒尾とかおりが滞在しているとは、夢にも思わなかった。
大学は春休みだったかもしれないが、まだ小学校や中学校、おそらく高校も春休みには入っていなかったので、博物館に人気はほとんどなかった。
僕は初めてかおりと会った水族館での光景を思い返していた。あのときも、やるべき勉強も仕事も持たない僕が、平日の水族館を訪れていた。館内はひどく静かで、僕は大水槽の中に入り込み海の底に沈んでしまったような錯覚に陥っていた。そんなときに、隣に寄り添ったかおりの声で、僕は海底から引き戻された。
博物館に水族館ほどの魚や海獣はいなかったが、海や海に住む生き物を科学的に紹介してくれる展示物は、とても興味深かった。
海の生き物としては、ビグミィシロナガスクジラの骨格標本が僕の目を引いた。これほど大きな個体であっても海洋ではきっと小さな存在なのだろうが、そのシロナガスクジラのルーツが人間と同じところにあるのだと展示の解説で知ると、竹さんが言葉を持たずにピッピやベーブと言葉を交わすことができるのも、なんだか頷ける気がした。
また、陸上に住む僕らが、知らず知らずのうちに海からの恩恵を受けていることも知り、感銘を受けた。
海産物が僕らの食を支えてくれていることはもとより、海から昇る水蒸気が雲になり、それが雨となって陸に降る。そして、山を豊かにしたり地下水となってやはり僕らの糧になる。更には、海流や海底の熱、鉱石や石油なども、海は僕らに恵んでくれた。
僕が住む福島にも海があったが、今まで無知だった僕にとっては、それはただの大きな水たまりでしかなかった。しかし、直はそこに住む生き物を知り、その生き物が存続するために海を守ろうとしていた。そんなこと、大学生だった頃の直と同じような年齢になった今の僕には考えられなかったし、例え考えついても父親の願望だった工学や医学の道を蹴ってまでも追求しようとは思わなかったはずだ。
思慮の深い直ではあったが、それでも彼をそこまで突き動かす何かが、あの頃の直の身に起きたのだろう。そして僕はその頃の直が住んでいた場所にいる。時空を越えたようなこの旅で、僕はきっと直が残した大きな宿題をやり遂げることができそうな予感がしていた。
館内の時計を見上げると、まもなく十一時半になるところだった。歩いてT大に戻るには、ちょうどいい時間だ。僕はロボットのマンボウが優雅に泳ぐ水槽をあとにし、海洋科学博物館を出た。
T大の事務室に戻ると、先ほど風間教授との接見を取り次いでくれた佐伯さんが僕を待っていてくれた。
「私たちは目を瞑ってでも校内を歩き回れますが、きっとあなた一人では風間教授の研究室にたどり着けないでしょう。だから、私が案内します」
事務室を出て、後ろ手にドアを閉めながらそう言った彼女は、シルエットの美しいシャツにとても合った黒いタイトスカートを履いていた。裾は膝上の十センチほどのところにあり、そこから健康的な脚が伸びていた。僕よりも一回りは年上に見えた佐伯さんだったが、柳瀬結子のふくよかな容姿とは違う女性的な美しさを放っていた。
「お兄さんに頼まれた用事なのですか?」
廊下を歩きながら僕を振り返り、佐伯さんは言った。
「いえ、兄から何かを言われたわけではありません」
僕はそのあとに(だけど、大きな宿題のヒントとして、この場所を示唆されました)」と心の中で呟いた。
「勝手に母校を訪れて、あとでお兄さんに叱られても、こちらは責任を持てませんからね」
言葉は淡々としていたが、佐伯さんの薄い唇の橋には聞き分けのない弟を叱る姉のような優しい微笑みがあった。
「正しくいうと、兄はもう僕に何も言えないんです」
「何かの病気で?」
思いがけない僕の告白に、佐伯さんは足を止め、僕に向き直った。
「すみません。さっき事務室を訪れたときにはじめからきちんと打ち明けていれば、これほどお手数をかけなくて済んだかもしれません。実は、兄は死んだのです」
「亡くなったの?それはお気の毒に。私ったら、そんなことも想像せず、ずけずけとお兄さんのことを尋ねてしまったわ」
「いいえ、気にしないでください。細かい事情を伝えなかった僕が悪いんです」
「やはり、ご病気だったのかしら?」
悲しげな瞳を僕に向ける佐伯さんを見つめながら、僕は静かに呼吸を整えた。
「僕がここまでやってきたのは、兄がなぜ死ななければならなかったのかを追求するためなんです」
「もしかして……」
そう呟いてから佐伯さんは瞳を泳がせ、手に持っていたボールペンの尻を強く噛んだ。
「自殺したんです」
僕がそう言うと、佐伯さんは大きく息を吸い込んで目の前に並ぶ何千もの蝋燭を一気に吹き消そうとするかのように、強く長くそれを吐いた。僕の頬に、彼女の吐息が少しだけ吹きかかった。それは雪女の吐息のようにとても冷たく、僕の身体を瞬く間に凍らせてしまいそうだった。
大きな深呼吸を済ませると、佐伯さんは心の澱をすっかりと剥がし落としたようにすっと背筋を伸ばして、再び僕に背を向けた。そして、それ以上何も言わず、再び仄暗い廊下を歩き始めた。
竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(59)につづく…。
〈あらすじ〉
父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。