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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(75)

〈前回のあらすじ〉
 正常な放送を取り戻しつつあるテレビやラジオから、千葉県の港で水族館のトラックが発見される事件が報道された。まこととかおりはそれが黒尾の仕業だと確信した。黒尾は恐らく竹さんと共にマナティーを含む海獣たちを救ったのではなかろうか。黒尾はウルトラマンになったのだ。

75・掛け算の九九≒竹さんの靴

 ひと月が経ち、ふた月が経ち、冷たい風はゆっくりと春の麗らかさを運んできた。その頃には、ところどころに仮設住宅も建ち始めた。誰の心にも不安や悔恨は残ったままだったが、小さな希望は一つずつ着実に形になっていった。

 そんなとき、敬光学園に見知らぬフランスの小型車が来訪した。高木が乗り換えたにしては洒落た車だったので、別の来客だとすぐにわかった。驚いたのは、その客が避難所でゴミの片付けをしていた僕を訪ねてきたことだった。

 その人は長い艶かな髪を簡素に束ね、バンスクリップで留めていた。ジャケットは腰のあたりで絞られ、広がった裾が尻の膨らみに同化しており、同色のスカートはギリシャ人が残した大理石の彫像のように尻や腿の曲線を強調していた。女性の割には長身の上にパンプスを履いていたので、目線はほとんど僕と変わらなかった。

 敬光学園に身を寄せている人の誰もが着の身着のままで、何日もろくに風呂に入れていないというのに、その人の身なりは清潔感に溢れ、ありとあらゆるゴミが山積みとなっていたその場所に全く馴染まなかった。

「有限会社BSPカンパニーの本田と申します」

 そう言って、その女性はジャケットの内側に細い手を差し込み、取り出したアルミ製の名刺入れから一枚の名刺を引き抜いて、僕に差し出した。見覚えのある名刺だと思って記憶を辿ると、黒尾が代表取締役を務める会社であることを思い出した。

「このたび、弊社の代表取締役の辞任により、今後は取締役のわたくしが会社を引き継ぐことになりました」
「じ、辞任!?」
「はい」

 僕は寝耳に水の知らせに驚いた。

「黒尾さんの身に何かあったんですか?」

 僕が尋ねると、本田と名乗った女性は聖母のような優しい笑みを浮かべて、小さく首を横に振った。

「これは、設立当初からの黒尾の意向であり、音信不通が二ヶ月を超えたら、その時点で辞任の表明とし、以降は私に一任すると約束をされていました」
「本田さんから黒尾さんに連絡をとったりできないんですか?」
「そのようなことを黒尾が望まないのは、あなたにもわかると思いますが?」

 そう言って、本田さんはまた優しく微笑んだ。

 何事にも簡潔な黒尾が会社の設立のときにそう決めたのなら、確かに今更まどろっこしい確認や交渉は不要と思われた。そのことを本田さんが「あなたにもわかる」と言ったということは、以前から黒尾が本田さんにも僕のことを話していたのだと僕はなんだかくすぐったい気持ちになった。

「お母様との『金環水』の契約も、基本的にはこのままお手続きなしで継続できますが、ご希望であれば、ご解約も可能ですのでお申し出ください」

 そう言うと本田さんはフランス車の助手席のドアを開き、シートの上に置いてあった小さな手提げの紙袋を取り上げた。

 両膝を曲げてわずかに屈んだときに張り出した魅惑的な尻の膨らみが僕の目に飛び込んできて、僕は不覚にも顔を赤らめてしまった。

 助手席のドアを閉めて振り返った本田さんが、「これを、あなたに」と言って、手提げ袋を僕に差し出した。

「昨日、黒尾から送られてきました。すみません、適当な包みがなくて」

 それは有名なフランスの高級ブランドの名が入ったオレンジ色の紙袋で、取締役就任の挨拶の品にしては豪勢だと当惑していたところ、僕の戸惑いを察した本田さんが恐縮して侘びた。恐らく自分が買い物をしたときに持ち帰った紙袋を代用としたのだろう。

 僕が軍手を外してもなお汚れた手でそれを受け取ると、中身を改めるのも確かめず、本田さんは一礼して踵を返し、フランス車に乗って去っていった。

 物腰の違いはあれど、唐突に現れ、風のように去っていく様は、まるで黒尾そのものではないかと、僕は感心してしまった。恐らく、清水への旅に出かける前に黒尾が言っていた「第一バイオリン」とは、彼女のことを示していたのだろうと、僕は思い巡らせた。本田さんがコンサートマスターであれば、黒尾が僕の家の三和土でふざけてみせたようにいい加減な指揮をしても、そのまま指揮台から去ってしまっても、オーケストラは微塵も揺るがなかっただろう。

 本田さんのフランス車を見送ると、僕は忙しない避難生活の中で薄れさせていた黒尾の面影を浮かべながら、紙袋の中を覗いた。

 そこに入っていたのは、一冊の本だった。

 一度水浸しになって、天日干しで乾かしたように、その本は膨らんでヨレヨレになっていた。表紙を見るとタイトルに『長くつ下のピッピ』と書かれていた。僕は、「ピッピ」という文字を見て、鼓動を高鳴らせた。作者はアストリッド・リンドグレーンという人で、残念ながら僕はこの本を読んだことがなく、作者のことも知らなかった。

 パラパラとページをめくると、そこから一枚の紙片が落ちてきた。それは便箋でも、一筆箋でもなく、どこかの喫茶店かレストランの紙ナプキンで、それを便箋代わりにして黒尾からのメッセージが書かれていた。

ただしの本だ。清水で、あの人・・・から預かっていた。渡すのが遅くなって、すまん)

 文面にある「あの人」というのは、柳瀬結子のことを言っていた。

 乱暴に僕を足蹴にして「じゃあな」とだけ吐き捨てていなくなってしまったのだから、久しぶりに寄越したメッセージくらい、もう少し親身に書いてくれてもいいものをと黒尾を恨めしく思いつつ、これこそが黒尾らしくもあると懐かしく感じた。そして、メッセージを書くペンを借りるためにウェイトレスに声をかけ、それを返しながらウェイトレスをデートに誘っている黒尾を想像し、僕はひとり微笑んでいた。

「ねぇ、何をニヤニヤしてるのよ」

 その声に驚いて顔を上げると、そこにはエプロン姿のかおりが立っていた。かおりは日々炊き出しや水場の清掃、避難してきた子どもたちの遊び相手などに奔走していた。

「きれいな人が訪ねてきて、逆上のぼせてるんでしょ」
「そうじゃないよ。あの人は黒尾さんの代わりに新しく会社の取締役になった人で、黒尾さんから預かった本を届けてくれたんだよ」

 僕は本田さんの魅惑的な尻の曲線美に釘付けになって逆上せたことを見抜かれ、それを誤魔化すように、心なしか弁解するような口ぶりになっていた。そして、オレンジ色の紙袋を乱暴にかおりに差し出した。

「あ、『長くつ下のピッピ』だ。わたし、これ好きなの。うわっ、ヨレヨレじゃない」
「柳瀬結子が入水したときに道連れになった直の本だ。救出されたとき、黒尾さんが預かっていたらしい。黒尾さんが慌てて竹さんを助けに飛び出したから、僕に渡しそびれたんだよ」
「やっばり、ピッピの命名はこの作品から引用してたのね」
「どんな話なの?」
孤児みなしごの赤毛の女の子が、破天荒な冒険をする話よ。自由でいいなぁって憧れるし、元気ももらえる」

 かおりはかつて読んだその物語を回想するように、小さな本を抱いて目を閉じた。

「竹さんが好きなマナティーの名前を『ピッピ』と名付けた人は、きっと想像力が豊かで、温かい心を持っている人なんじゃないかって思ってた」
「僕にとっては、直がこんな可愛らしい本を読んでいたなんで、信じがたいよ」
「なんで?」
「ほとんど何も持たない人だったから」
「きっと、大事なものが何か、わかっていたのよ」

 かおりは一度も会ったことがないというのに、直のことをそんなふうに言った。僕は改めて一つ年上のこの女の子のことを愛おしいと思った。

 そして、かおりは膨らんだ本の間から飛び出している紙片を見つけて、引き抜いた。そして、そこに書かれた黒尾からのメッセージを黙読して顔を上げると、肩をすくめながら「あの人らしいね」と言って、嬉しそうに笑った。

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(epilogue)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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