竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(57)
〈前回のあらすじ〉
翌朝、目覚めると諒は食堂に降りて女主人が作ってくれた家庭的な朝食を食べた。気さくな女主人と二人になり、諒はこれから自分が死んだ兄の足跡を探しに行くことを打ち明けた。すると、女主人は兄の直は諒がここへ来ることを予測していたのではないかと言った。直のことも諒のこともよく知らない女主人だったが、よく知らないからこそ物語の本筋がよく見えるのかもしれなかった。
57・T大学海洋学部海洋生物学科
T大学は閑散としていた。年度が切り替わる時期だから、必要な単位を履修した学生は、もう春休みに入っていたのかもしれない。
僕は随分と時間を費やして事務室を探し当て、そこで勤務している事務員を見つけて胸を撫で下ろした。高卒の僕には大学の仕組みがさっぱりわからなかったので、春休みに大学のあらゆる機能が停止しているのではないかと心配していたからだ。
「新年度の入学の準備で、職員はむしろ忙しいんじゃないかしら」
何気なくぼやいた民宿の女主人の言葉が、僕の背を押してくれた。
僕は小さな窓から事務室にいる事務員を呼び、ここの卒業生である直の名を伝えた。
「海洋学部に通っていました」
「あなたは、その弟さんなのね?」
事務員にしては軽い髪の色をした三十代と思しき女性事務員は、本人確認のために僕が提示した健康保険証や水族館の職員証などをしげしげと点検したあと、それを静かに僕に押し返した。
どうやら女主人が言ったように、彼女は来年度にやってくる新入生を受け入れるための準備で、学生たちが春休みの間も出勤しているようだった。その仕事を一旦休み、彼女は自分の机の上にあるラップトップのキーボードを叩き、直のデータを集め始めた。
大学というところに初めて足を踏み入れたが、ここが駿河湾内の小さな半島にある大学だからか、僕が想像していたような浮足立った印象はなかった。学生たちが敷地や校舎にいればそれなりに活気があったのだろう。
校舎は海岸に面していて建っているせいで、全体的にくすみ、野暮ったい印象が拭いきれなかった。生まれ育った福島を離れて、父親の失望や母親の苦悩を背負ったままこの場所で孤独に過ごしていた直は、マナティーや竹さんが心の支えだったのかもしれないと、僕はつくづく思った。
ほどなくして、直の情報が浮き上がったようで、メモをした僕の健康保険証の住所と直の緊急連絡先の住所が合致していることを確認した女性事務員は「逸見直さんは海洋生物学科でしたね」とラップトップに向かったまま僕に言った。僕は女性事務員に向かって、黙って一つ頷いた。
「それで?」
「え?」
女性事務員はキーボードに指を構えたまま、僕を振り返った。
「お兄さんの卒業証明か何かをお出しすればいいのかしら?」
「いえ……」
僕はそう言ったきり、言葉に詰まってしまった。
兄は死にました。自殺です。その理由を、家族の誰も知らされていませんでした。そして、最近になって、その兄が大学在学中に福島の水族館に現れていたことがわかったのです。兄は特にマナティーを愛し、その個体に兄がピッピという名を授けました。飼育員の竹五郎さんも、直のことが好きで……。
言いたいことは山ほどあった。だけど、ただの事務員でしかない目の前の女性に、なぜ僕が遠路はるばる福島からこの地へやってきたのかを、どのような順序で話せばいいのか、僕はわからないでいた。
「ただ、兄がどのような学生だったかご存知の方がいれば……」
「いれば?」
「会って、お話を伺いたいんです。兄について」
僕の上司である高木は、歳の離れた従姉だと偽って僕に会いに来た柳瀬結子に対し、なんの身元確認もせずに面会を承諾してしまったが、やはり名の知れた大学の事務員である彼女は、僕と直の関係性を確認した上であっても、僕に対しての警戒は怠らなかった。
「お兄様のお友達に会われたほうが、適当のような気もしますが……」
「生憎、僕は兄の交友関係を知りません」
「一人も?」
「えぇ、一人も」
女性事務員に直の交友関係に触れられて、僕はすかさず黒尾の顔を思い浮かべたが、彼は直の高校時代の同級生だったので、この場では頼りにならなかった。
「それならば……」
そう言って、女性事務員は机の上に置いてあったボールペンを取り上げ、その尻を前歯で優しく噛んだ。それが何かを考えるときの彼女の癖のようだった。
「海洋生物学科の風間教授が在室していますので、接見できるかどうか確認してみます。お会いになりたいんですよね?お兄さんのことを知っている誰かに」
「はい」
女性事務員は改めて僕に念を押し、僕が頷いたのを確認すると、机の上にあった電話の受話器を取り、教授の研究室に内線電話をかけた。僕が立っているところまで彼女の声は届かなかったけれど、教授と会話している彼女の表情が次第に柔らかくなっていく様子を見て、直という男の弟の来訪が、何かしらの形で教授の関心を揺さぶったのではないかと、僕は希望的観測をした。
ほどなくして女性事務員が受話器を置き、速やかに僕のところにやってきた。
「教授がお会いするそうです」
「本当ですか!ありがとうございます」
「私に礼などいりません。言うならば、教授に会って、直々に伝えてください」
事務的な対応に徹した女性事務員は、口では四面四角な言い方をしていたが、鉄の仮面を脱いだその表情は、柔らかかった。遠路遥々やってきた道のりが無駄にならなくて済んだことを、僕の立場になって喜んでくれたのだろう。首から提げた職員証には「佐伯志乃」と印字されていた。
「ただ、午前の補習が始まるので、面会は午後になりますが」
「かまいません」
事務室の壁時計を見上げると、時刻はまもなく十時になるところだった。二日かけてここまで来たのだ。正午までの二時間など、待てないはずがない。僕は一度敷地を出て、また戻ってくると佐伯という女性事務員に言い残した。
少しだけ振り返ると、玄関まで出てきた佐伯さんが、腕組みをしたまま、その指に挟んでいたボールペンの尻を優しく噛んでいた。そして、その姿勢のまま、僕が門の外まで立ち去るのをずっと見ていた。
竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(58)につづく…。
〈あらすじ〉
父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。
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