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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(25)

〈前回のあらすじ〉
 冬の朝、うたた寝から目覚めて出勤の支度をしていると、諒はダイニングテーブルの上に直の卒業アルバムを見つけた。それは母親がミネラルウォーターの納品書や申込書の控えとともに用意したもので、暗に黒尾との取引の正当さを訴えていた。そして、卒業アルバムでは、黒尾と直が同級生であることを証明していた。しかし、二人が本当に友人関係にあったのかまではわからない。

25・我が家の正月というものは、三百六十五日のうちの一日である以外の付加価値を備えなくなってしまった

 母親が注文したミネラルウォーターが順調に消費され、それを見越した黒尾が、然るべきタイミングで我が家に納品にやってきた。ほとんど僕が不在にしている昼に訪れるようだったが、たまに夜にやってきていて、アルバイトから戻った僕と顔を合わせることもあった。そのたびに、黒尾は快活に「おぅ、お帰り!」と言って、僕を出迎えた。黒尾はその愛嬌のある笑顔と巧みな話術ですっかり母親の心を掴み、僕や直なんかよりも柔らかい関係性を築いていた。

 そうした黒尾の存在を僕はきっと疎ましく思うのだろうと予想していたが、直の死後からまったく母親との繋がりを見失ってしまった僕だったから、黒尾が定期的にやってきて母親の心を和ませてくれることは、むしろありがたく感じていた。そう感じ始めると、初めは家族を失い不安定な精神状態になっていた母親につけ込んで高価で怪しいミネラルウォーターを押し売りにきたとばかり思っていた黒尾が、直の友人として本当に母親を案じて訪ねてきてくれているのではないかと思えてきた。そんな風に、僕の中にあった黒尾に対する警戒心は、皿の上に置き去りにされた氷が少しずつ姿を水に変えるように、溶解していった。

 子どもたちが冬休みに入っている時期の忙しさを肌で実感し、その忙しさに朦朧としたまま年の瀬に突入した。クリスマス時期を過ぎたら、いくらか客足は落ちたが、それでも水族館は連日盛況だった。

 その中で、水族館も年末年始の休館の準備に入った。そんなとき、僕は佐藤かおりから不意に休暇の予定を尋ねられた。

「年末は、どうしてるの?」

 水族館の年末年始休館は、二十九日から年明けの二日までだった。僕はアルバイトの身だったので、三日まで休暇をもらえた。

「特に、何をするという予定はないよ」

 父親や直がいた頃は、僕らの家でも年越しそばや雑煮を囲んで、年越しの団欒を持っていたが、母親と二人だけになってしまった今は、その習わしも叶わない。

「二十九日も、三十日も、大晦日も?」
「そう、年内だって、年明けだって、予定はない」

 そう答えると、佐藤かおりは「よかったぁ」と言って、小さな掌を顔の前で合わせて、笑みをほころばせた。

「それなら、三十日、空けておいて」
「あぁ、別にかまわないけど……」

 長らく外界との関係性を断っていたせいで、同世代の異性と言葉を交わす機会を失っていた。だが、図らずもアルバイトを始めた水族館に同世代の佐藤かおりが働いており、右も左もわからない僕の面倒を見てくれていた。

 初めのうちは彼女との会話に戸惑うことも多かったが、佐藤かおりの元来の快活さに助けられ、僕は彼女と躊躇なく会話できるようになっていた。

 佐藤かおりと会ってからすでに三ヶ月が経過しようとしていた。そんなときに、佐藤かおりから年末の休暇に誘いを受けた。僕は、そういうことは日常茶飯事に起こることだと言わんばかりに平静を装っていたが、内心は彼女の誘いの意図に好意が色づいているのか判断できず、激しく動揺していた。

 ただ、佐藤かおりの次の言葉を聞いて、それが彼女の恋心やそういう類の浮かれた感情を伴わないものだと分かり、僕は少なからず落胆した。

「竹さんの住んでいる敬光学園で、毎年忘年会のような催しがあるの。私は毎年参加しているんだけど、もし予定がないなら、諒くんもどうかなって思って」
「忘……、年会……」
「竹さんのいるところは基本的に学校だから、酒盛りをする忘年会じゃなくて、そこに住む生徒さんやその父兄、それに先生方が昼間に出し物を披露したり、歌を歌ったりするの。学園祭のようなものだと思ってくれればいいよ」

 僕は佐藤かおりの言葉を聞きながら、竹さんがマイクを持って、演歌のようなものを歌っている姿を想像してみたり、みんなでクラッカーを弾く光景を思い描いたりした。

 そして、僕は佐藤かおりはの誘いを、改めて快諾した。

 父親が死んでから親戚づきあいは疎遠になったし、母親も身内や友人に会おうとしなくなった。それからというもの、僕や直あての年賀状や新年のあいさつメールも届かなくなり、大晦日や正月だということを実感するのは、母親が引きこもった居間から漏れてくる年忘れや年明けを祝うテレビ番組をガラス戸越しに耳にしたり、食材がなくなって近所のコンビニエンスストアに出向き、店内のBGMで琴の音を聴いた時だけだった。そして、立て続けに直まで我が家から消えてしまうと、我が家の正月というものは、三百六十五日のうちの一日である以外の付加価値を備えなくなってしまった。

 ただ、どうやら今年の年越しは、僕のもとにいくらかの変化が訪れそうだった。いつまでも子犬のように柔和な瞳で僕を見上げる佐藤かおりを見つめ返しながら、僕はそんな予感に包まれていた。

 敬光学園の忘年会への招待状は、仕事納めの日に竹さんからも直々にもらった。

 一人の入園者に対して二人の親族を招くことできるようだった。佐藤かおりが言うには、竹さんは今まで、二枚の招待状をずっと持て余したままでいて、長い間誰も招くことなく忘年会を迎えていたようだった。

 竹さんの両親はすでに他界していて、竹さん自身も結婚していなかったから子もいなかった。数少ない親族である兄弟も遠方に住んでいただけでなく、知的な障害を持った竹さんを疎んじて遠ざけられていたから、わざわざ養護施設で自立できている竹さんを訪ねたりしなかった。

 佐藤かおりが水族館で働くようになり、いつも年の瀬に二枚の招待状を無為に捨てていた竹さんを見かねて、彼女が親類として参加するようになったのだそうだ。それ以来、竹さんにとって佐藤かおりは親や兄弟と変わらない、時にはそれ以上に信頼できる家族のような存在になったのだ。

 僕に招待状を渡すとき、心なしか竹さんは浮足立っていた気がした。

「オレは、焼きそば係」

 視線を泳がせながら、竹さんはそう言った。コンビニエンスストアの前で僕が話しかけたときと同じだ。多分、あの時は僕に対して警戒心を持って、目を合わせなかったのだろうが、一緒に働くようになった今では、その真意は違っただろう。きっと、竹さんは照れていたんだ。

「楽しみにしてるよ」

 僕はそう言って、竹さんの無骨な手から招待状を受け取った。

 竹さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(26)につづく…

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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