竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(36)
〈前回のあらすじ〉
水族館にラッコの赤ちゃんが生まれ、その名前を公募したことで、僕は飼育棟での仕事の他に、応募してきた名前の集計を手伝うようになった。そのせいで、家に帰るのが遅くなり始めた一方で、昨年末から他人行儀だったかおりとの距離を再び縮め、諒とかおりは互いを求め合うようになった。しかし、そうした人生の分岐点で、諒は母親への配慮をおろそかにし始めていた。
36・僕は血肉を分けた家族を静かに殺してきたのだった。
下腹部にまだ熱を燻ぶらせたまま、僕は水族館から家まで、冷たい風の中をマウンテンバイクで走った。このまま、ラッコの赤ちゃんの名前など決めないで、ずっと公募だけ続けていれば、こうしたかおりとの蜜月も続くのではないかと短絡的に考え、僕はほくそ笑んだ。
だが、そうした浮かれた妄想は、深夜の新興住宅地に孤立した僕の家に辿り着くと、みるみると霧散していった。
自宅の前に異様な人だかりがあった。その群衆の向こうでは赤色灯が眩しく瞬いていた。慌ててマウンテンバイクを生け垣に立てかけて、人の壁を割っていくと、そこには救急車が止められていて、僕は面食らった。僕は刹那その救急車がまさか我が家に訪れていたとは思いもよらず、大勢の人垣に混ざって物騒な事態を伺おうとした軽率さの返り討ちをに合った。
異様な現状に混乱していると、後部ハッチを開いた救急車の中から、何故か黒尾圭一郎が降りてきたので、僕は更に困惑した。
「あっ」
無意識のうちに声を漏らした僕に気づいた黒尾は、鬼の形相で僕に駆け寄り、すぐさま襟首を掴んで、救急車に僕を引きずり込んだ。
僕は次に黒尾に会ったときには、無闇に柳瀬結子に僕の勤務先を教えたことを抗議するつもりでいたが(結果的に柳瀬結子に会えて、僕は多くの事実を知ることができたのだが)、僕がそのことを思い出す前に、黒尾は救急車の中で、僕の頬を平手で三発張った。
「お母さんを殺す気だったのか!」
僕が黒尾の横暴に面食らっていると、黒尾は周囲にいる救急隊の存在など構わず、血走った目でそう怒鳴った。そして、傍らに横たわる人を見下ろした。
黒尾の目線を追った先には、酸素マスクを口元にあてがわれ、硬くて重そうなブランケットをかけられた僕の母親が横たわっていた。母親は眠っているようにも見えたが、その顔にまったく血色が伺えなかった。助手席の背後にある小さなモニターに心拍数が示されていた。それを見ただけで母親の生死を確認することはできなかったが、ブランケットをかけた胸が上下していたのを目視できたので、僕はひとまず安堵した。そして、その安堵と引き換えるように、この異常な状況がどのようにして起こったのか、恐る恐る目の前にいる黒尾に尋ねなければならなかった。
やがて、後部ハッチを閉められ、黒尾と僕と意識のない母親を乗せた救急車は、人垣を割って、住宅街を抜け出た。そして大きな通りに出るとサイレンを鳴らし、いくつもの赤信号を慎重に通過していった。
荒々しく路面のギャップを拾う後部席で黒尾が事の顛末を教えてくれた。
「お母さんは、餓死寸前だった」
僕は黒尾の言葉を聞いて、絶句した。しばらく呼吸をすることも、瞬きをすることも忘れて、僕は石のように身を強張らせていた。
「お前、ここのところ食材を買って帰らなかったようだな」
黒尾にそう言われて、僕は言い逃れができなかった。
「でも、インスタントラーメンやレトルトカレーはいくらかあったと思うけど……」
「それを確認したのはいつのことだ?」
僕の正面に座った黒尾は、僕をまっすぐに見ていた。
中学生の頃に、繁華街で見知らぬ高校生に金を巻き上げられたことがあったが、僕の心の動揺は、その時の比ではなかった。ヘビに睨まれたカエルの気持ちが、これほど痛く身に沁みたことはなかった。
「一昨日、かな……」
「正直に言え!」
黒尾は僕の虚言を即座に見抜いて、戒めた、
「たぶん、先週から……」
「補充していないんだな?」
「はい……」
僕がそう白状すると、黒尾はしばらく押し黙り、ふと視線を上げたかと思ったら、素早く僕の胸ぐらを掴み、また何発か僕の頬を張った。救急車の後部に同乗していた救急隊員も、黒尾の横暴に恐れをなして、モニターを見つめたまま、微動だにしなかった。
公募の集約で残業をするようになると、僕は睡眠時間を確保するために朝食を抜くようになった。夜は残業をしながらコンビニエンスストアの弁当などを食べていたので、僕自身の暮らしに支障はなかった。だが、残業に加えて、連日かおりと逢瀬を重ねると、母親のことは念頭の奥底に追いやられてしまった。
食材がなければ困りはするだろうが、高値のミネラルウォーターを買い始めて、黒尾とのコミュニケーションも取れるようになったのだから、自分が食べるだけの食材は自分で買いに出かけるだろうと甘く考えていた。だが母親は、僕が楽観視していたような行動には出なかった。
何も食べなかったのだ。
母親はあくまでも頑なに外界を閉ざし、家から一歩も出ようとしなかった。やがて家に食材がなくなり、頼みの綱の黒尾の水だけになっても、母親はそれを飲み続けることで空腹をしのいでいた。黒尾の水は定期的に納品されるように契約されていたが、空腹を満たすために母親の水の摂取量が増え、やがてその水も尽きるようになってしまった。
「お母さんから、水を早めに収めてくれないかと電話があった。前回の納品から数えれば、その減り方が著しいのは一目瞭然だった。オレは泡を食ってお前の家に駆けつけた。その時、お母さんはもう虫の息だったよ」
「こんなことになるなんて……」
黒尾に頬を張られて、僕の目尻から涙が滲んでいた。
「思いもよらなかったとでも言いたいのか?」
黒尾にそう詰め寄られると、僕に返す言葉はなかった。
「救急車に運び入れるとき、お母さんは吐いたんだよ。その時、何が出てきたと思う?」
僕は、小麦粉の塊とかマヨネーズとか、まだ口にできそうに物を想像したが、黒尾の次の言葉を聞いて、愕然とした。
「経本だよ」
そう言った黒尾の言葉に、感情の起伏はなかった。
「ティッシュペーパーやトイレットペーパーなら、朦朧とした意識の中で腹の足しになるだろうと錯覚してもよかったが、食ったのは経本だ。お母さんはやがて食材を買って帰ってくるだろうお前を頼らないで、いるのかいないのかも定かじゃない仏様に縋ったんだよ」
国道を行き過ぎる救急車の音を聞いたことは何度もあったが、自分が救急車の中に乗ってサイレンを聴くのは初めてのことだった。
僕は黒尾の告白に打ちのめされ、自分の目の前に横たわる息も絶え絶えの母親を見下ろし、水中で地上の喧騒を聞いているようなぼんやりとした意識に墜落していった。
黒尾はものを言わなくなった僕にはもうかかわらなかった。すると、まるで救急隊の隊長さながら、運転手や同乗した救急隊に現状を報告させ、随所で的確な命令を下していた。
僕は父親や直の自殺の一端が、僕にも起因しているのではないかと思いつめたことがあった。
日々、いや一刻ごとに自分の歩む橋を杖で叩きながら用心深く渡ってきた父親と直にとって、未来を選ぶ重圧とは無縁の僕は、厄介な存在であり、同時に羨むべき存在であったのかもしれないと、僕は自覚していた。そうした彼らの羨望は、おそらく僕がこの世に生を受けたときから、始まっていたのかもしれない。
一人目の子と歳の離れた二人目の男児を、父親は奔放に育てようとした。そして直は心の隅に行き場のない理不尽を隠し持ったまま、良き兄であろうと尽くした。僕は父親が望むように奔放に育ち、直が苦悩した反動を受けて、日に日に自分の人生に対して無責任になっていった。まるで僕は、父親と直の心に潜む澱のような存在になっていた。
そんな僕だから、結局母親の寂しさにも寄り添うことができなかった。
もっと思いやりを持っていれば、僕は母親が食べるものをきちんと買って帰っただろう。食料を補充してからでも、かおりと逢うことはできた。
僕が素直に母親に歩み寄り、水族館での仕事に意義を見出していたと伝えていれば、母親は僕の独り立ちを理解し、自分も先に進まなければならないのだと自覚してくれたかもしれない。そうすれば、経本など食わずに、母親も自立を志したかもしれない。かつて父親を失ったあと、スーパーマーケットに働きに出たときのように。そうすれば、空腹を訴えてももっと早く僕や黒尾に連絡をしたかもしれないし、意を決して隣家のドアを叩いていたかもしれない。翻れば、父親と直にもっと向き合っていれば、父親は時代遅れの一酸化炭素中毒死など選ばずに、能天気にスナックのママと名もない南の島にでも逃避行していたかもしれないし、直にいたっては、顔のない彼女と早々に結ばれ、原発の社宅に新居を構え、やはり顔のない子を三人くらい設けていたかもしれない。そう思えば思うほど、僕は僕という人間がどうしようもないひとでなしのように思えて、いたたまれない気持ちになった。
でも、アルバイトを始めて自分で収入を得て、一人前になったつもりでいた僕が、一つ歳上の同僚にセックスの指南を受け、一端の男になったつもりでいた僕が、そう簡単に死の誘惑に囚われた父親や直を、瑞々しい生に溢れた世界に引き戻せたとも、思えない。
そんな風に、僕は父親と直を引き止められなかった後ろめたさを、ずっと背負い続けてきたのだった。
ラッコは自分の子がしっかりと泳げるようになるまで、腹の上に乗せて育てるという。それは、母親がこの生命力を信じ、子もまた母親から命を与えられた責務を果たそうとする互いの信頼がなせる作業だった。
だが、僕と家族との間には、そうした信頼関係が乏しかった。だから、互いの手を離すタイミングを、僕も彼らも見誤ってしまった。
自らの命を断ってこの世からいなくなってしまった父親と直を、独りよがりで身勝手な人間だと思っていたが、彼らはそうしなければ自分が自分でいられなくなる切迫感に苛まれて、やむを得ず現世との別れを決めた。彼らをそこまで追い詰めた人たちの中に、少なからず僕も含まれていた。このまま母親は死んでしまうかもしれないし、生きながらえるかもしれない。いずれにしても、僕はすでに母親を殺していた。その肉体ではなく、精神を。それは、すでにこの世を去った父親や直に対しても、言えただろう。
僕は、血肉を分けた家族を、静かに殺してきたのだった。
竹五郎さんとマナティー(37)につづく……
〈あらすじ〉
父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。