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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(13)

〈前回のあらすじ〉
 
コンビニエンスストアの前で初老の男が三人の高校生に囲まれる状況は、僕にとって異質なものだった。男は高校生たちに現金を配っているのに、その面持ちに萎縮は見られず、悲哀も感じられなかったからだ。僕は錠が壊された自転車の前で蹲る男を尻目に、アルバイト面接のために水族館に向かった。

 13・平凡には平凡なりの悩みがある

 休館している水族館にたどり着くと、アルバイト採用担当者から言われた場所にインターフォンがあった。それで呼び出せば、面接のために出勤している職員が迎えに出ると、その女性は言っていた。僕はマウンテンバイクを誰もいない発券所の脇に停め、錠をかけてから、その指示に従ってインターフォンのボタンを押した。

「はい」

 スピーカーから聞こえてきたざらついた声は、若い女性のものだった。

「面接に伺った逸見と申します」
「あ、ヘンミさんね。いま、お迎えに行きます。ちょっとお待ちください」

 女性はやや浮かれた様子で早口にそう言い、通話を切った。「少々お待ちください」ではなく、「ちょっとお待ちください」とインターフォンの向こうの女性が言ったものだから、「申します」などと不慣れな丁寧語を用いた自分が、今更気恥ずかしく感じられた。

 水族館のエントランスには小高い芝の丘がいくつかあり、それらを縫うように駐車場からのアプローチが続いていた。

 芝は丁寧に手入れがされていて、小さな雑草すら見当たらなかった。それと対称的に、生け垣に巡らされたLEDの電球は、高さも幅もまちまちで、ただ無造作に掛けられていた。恐らく、暗くなってその灯りが灯ったとしても、決して美しくはないだろうと、僕には想像ができた。芝を手入れしている人と電飾を施した人は、全く違う性格の人なのではないかと、僕は思った。

 発券所から駐車場に向けて芝の丘を眺めながらアプローチを歩いていた僕の背後で、人の気配がした。振り向くと、事務服を着た若い女性が、発券所の端から姿を現したところだった。

「ヘンミさんですかー?」

 事務員は小さな両の掌を唇の両端に当てて、僕に向かって大きな声でそう叫んだ。僕はいくらか発券所から離れたところまで歩いてきていたが、休館の水族館のエントランスでは、普通の音量でも十分に声が通るはずだった。誰も見ていなかったが、僕は大声で叫んで呼ばれたことが気恥ずかしく、軽く手を挙げて応えて、少し足早に発券所まで戻った。

「お待たせしました。事務員の佐藤です」

 事務員は少し肩で息をしていた。もしかしたら、インターフォンを取った館内の事務室から走ってここまで来たのかもしれない。

「あれ?」

 彼女は僕に向かって一例をし、顔を上げた途端に目を見開いて、短く叫んだ。

「この前、大水槽の前にいましたよね?へぇ、君だったんだ」

 インターフォンのざらついた音声では分からなかったが、こうして彼女の地の声を聞くと、アルバイトに応募した時の電話で対応した女性の声を思い起こさせた。恐らく、彼女がその人であったに違いないと、僕は思った。その次には、数日前にウミガメやサメが泳ぐ大水槽の前で僕と肩を並べた事務員の面影が蘇ってきた。

「あ、えぇ、まぁ」

 嬉しそうに満面の笑みで僕を見つめる事務員と対峙して、僕はそんな不甲斐ない返答しかできなかった。

「なんだか、よかったです」
「よかったって、どういうことですか?」

 僕の当惑とは対称的に、事務員の面持ちは朗らかだった。

「だって、初対面ではないじゃないですか。お互い、気が楽になりましたよね?」

 そのように愛嬌のある異性から同意を求められると、否定しようにもその言葉が出てこない。もっとも、僕は否定するつもりなどなかったが。

「じゃあ、事務室に案内しますね」

 そう言って、佐藤と名乗った女性事務員は、僕を館内に導いた。

 高校を卒業して以来、長らく世間と隔絶していた僕が、水面からはその深さを計れない社会という澱みへ飛び込もうとしていたのだから、いくらかの緊張感や恐れはあった。しかし、元来の性分だったのだろうが、事務員の快活で柔らかい対応が、随分と僕の緊張をほぐしてくれた。もしかしたら、そうした僕の心情を、無意識的に彼女は読み取っていたのかもしれない。だが、彼女は「お互いに」と言った。きっと、アルバイトの受付を任された彼女も、僕ほどではないにしろ、いくらか緊張していたのだろうと、僕も少しだけ彼女の心情を慮った。

 人気のない館内は静かだった。先日訪れた平日の水族館も静かだったが、休日で誰も来客のない水族館は、本当の海の底のように、暗く音もない世界だった。そんな暗くて静かな水族館が、僕は決して嫌いではなかった。

「ヘンミさんって、珍しい名字ですね」

 僕の先を歩いていた事務員が、肩越しに首だけを僕の方にひねって、そう言った。ショートカットにした髪が撥ねて、その先が彼女の頬を打った。

「平行四辺形の『辺』を用いる『辺見』と間違えられるんですよ。仕方ないですよね。どちらも同じ読み方だし、どちらかと言えばそっちのほうがポピュラーなわけだし」
「え、平行四辺形の『辺』じゃない辺見という姓があるんですか?」
「イツミと書いて、ヘンミと読みます」

 中学校に新しい先生が赴任してきた時も、高校に進学して新鮮なクラスメイトと顔を合わせた時も、自分の姓については、このように文字と読み方の説明をすることが常であったので、そうしたやり取りを含めての自己紹介なのだと、僕は割り切っていた。

「面接のお申込みのお電話では、すっかり平行四辺形の方を想像していました。高木さん……、えっと、飼育棟の主任もすっかりそう思い込んでいて、二人で色々書類の準備をしてしまいました」
「僕の名前が、君のようにポピュラーな名前だったらよかったのに」

 決して嫌味などではなかったが、僕はそう口にしてから、軽率な発言だと気付いて、彼女の表情を密かに伺った。

「もう二十年も『佐藤』でいるのですが、その平凡さにはつくづく嫌になります。この名字を早く捨てたいから、私、今すぐにでも結婚したいんです。生憎、そんな軽率な理由で結婚してくれる相手などいませんけれど」

 そんな独り言のような言葉から、思いがけず佐藤という事務員の年齢がわかった。彼女は僕よりも一つ年上だった。

「平凡には平凡なりの悩みがあるんですね」
「ないものねだりなのです」

 そう言って、彼女は小さく舌を出して、肩をすくめて見せた。

「それで、イツミって、どのように書くの?」

 僕は彼女の横に並び、人差し指で空に『逸見』と書いた。それでもなかなか彼女に理解してもらえなかったので、結局、今までの習わしの通り、「免許証の免に、シンニョウ」と口頭で説明した。

 彼女はそれから自分の名が『かおり』であると教えてくれた。

 彼女が僕に名を尋ねたように、僕も『かおり』という名の漢字についていくらかの憶測を伝えたが、そのどれもが的外れだった。『かおり』は漢字ではなく平仮名だった。

「私が言うのもおこがましいんですが、名字はどうであれ、親が名前を平仮名にしてくれたことは、好感がもてるんです。今みたいに、平仮名の方が、相手も関心を持ってくれるでしょ?『佐藤』と違って」
「確かに、ずいぶんと想像を巡らせた」

 僕よりも二十センチは低いだろう小柄な佐藤かおりは、両手を後ろに回し、少しふくよかな尻のあたりでそれを結び、足早になって僕の前に出た。

 その後ろ姿を眺めながら歩いていた僕は、その名前だけでなく、彼女の慎ましさや率直さに、少なからず好感を持った。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(14)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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