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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(69)

〈前回のあらすじ〉
 群馬の道の駅で一晩を明かした諒たちは、自衛隊の車両や救援物資を運ぶトラックに紛れて福島に向かった。その途中、無線から想像を絶する情報を耳にする。福島の原発が爆発したのだ。諒たちは福島に残した人たちの安否を気にかけながら、再び福島に向かって走り出した。

69・奪ったまま何も還元しないことが、悪いことなんだ

 栃木県の裏道を走破して、諒たちはようやく福島に入った。

 黒尾は日が暮れかけた山間のガスステーションにワンボックスカーを乗り入れ、そこで自衛隊の車両や救援物資を運ぶトラックを見送った。

 車を降りて、僕らは各々背伸びをしたり腰をひねったりして長い移動で凝り固まった身体をほぐした。

 黒尾はコンクリートの上に落ちている給油ホースを取り上げ、そのノズルの引き金を引いてみた。しかし、そこからガソリンが吹き出すことはなかった。給油機の操作盤を見ても、そこにはなんの表示もなく、ガスステーションの電源がどこかで絶たれていることを示していた。

 ガスステーションの裏山から道路に向けて土や砂利が混じった水が流れ出ていた。地震の影響で地下水が湧き出したか、どこかの水道管が破裂していたのかもしれない。

 それから黒尾はガスステーションの店内を覗いたが、そこに人影はなく、編み入りガラスが力ずくで割られて、引き剥がされていた。地震の混乱に紛れて、飲食物や生活に必要なものなどが盗まれていたようだった。

「下も下で被害が酷いようだが、津波の影響がない代わりに、このあたりは無法地帯になっているようだな」

 綿入り半纏姿で苦虫を噛み潰したように顔をしかめ、黒尾はガラスの割れ目から店内に入った。そして、僕も彼に続いた。

「やっぱり、役に立ちそうなものは、大抵盗まれていったようだな」

 店内をぐるりと見回したあと、そう言って、黒尾はバールか何かで無理やりこじ開けられた清涼飲料水の自動販売機をピカピカの革靴で蹴飛ばした。それから黒尾はガラスの破片やウインドウウォッシャーのボトルが転がった床に四つん這いになり、自動販売機や陳列棚の下を覗き込んだ。

「なんか、人間って勝手ですね」

 僕は誰にともなく、そう零した。

「なにが?」

 棚の下を覗き込んだ姿勢のまま、黒尾が答えた。黒尾は床に落ちていたパッケージに入ったままの交換用ワイパーブレードを拾い、それを使って棚の下に見つけた何かを引き寄せようとしていた。

「地震や津波があったのなら、みんなで助け合うものじゃないですか?でも、実際はこうして自分だけが無事でいられればいいかのように、災害に乗じて盗みを働く」
「それは、オレのことを言ってんのか?今まさに、何か盗めるものはないかと、悪戦苦闘してるんだがな」
 
 背中を折り曲げて苦しそうにしながら、黒尾は諒をからかうように言った。

「そういうわけではなくて、そもそも、福島の原発は東京に住む人たちの電力を賄っているのに、その代償はこうして福島に住む人たちが背負うことになることが、理不尽に思うんです。きっと、東京に原発を作るという話になれば、原発は危ないと言って強い抗議が出たはず。東京が駄目で福島ならいいってことはないでしょ?」

 すると、黒尾が棚の下から何かを拾い上げて、立ち上がった。

「ほら、お前とかおりちゃんの分だ」

 黒尾はそう言って、一本の缶コーヒーと一本のペットボトル入りのミルクティーを差し出した。

「えっ?」
「ここまで、オレの車に積んであった水ばかりで飽きただろ」

 そう言うと、黒尾はスラックスの膝を手のひらで払い、再びめくれた編み入りガラスの裂け目から、颯爽と外に出た。

「黒尾さんは?」

 缶とボトルをM65のポケットに押し込んで黒尾の後を追いながら、僕は黒尾の背に向けて叫んだ。

「オレは、水で十分だ」

 そう言うと、黒尾はさっさとワンボックスカーの運転席に乗り込み、エンジンを始動した。僕は慌てて後部座席に駆け込んだ。すると、スライドドアが閉まるより先にワンボックスカーは走り出した。

 小さな峠を越えて僕らは山間の集落に下りた。そこには著しい地震の影響は見受けられなかったが、すでに多くの人の気配が失われていた。

 恐らく原発の水蒸気爆発の事故を受けて、放射能から逃れるために避難をしたのだろう。その避難の慌ただしさは、干しっぱなしの洗濯物や置き去りにされた家畜の鳴き声が象徴していた。

 僕は黒尾からもらった缶コーヒーを両手で握りしめながら、窓の外に広がる非現実的で温もりの欠けた景色を眺めていた。

 多くの荷物と家族を積み込んで村をあとにする一台の車とすれ違った。すれ違いざまに走りゆく車に乗った人たちが、この事態の中で被害が酷い海岸に向かおうとしている僕らを怪訝な顔で見ていた。

「結局は……」

 黒男が不意に口を開くと、助手席でちびちびとミルクティーを飲んでいたかおりが顔を上げた。

「オレたちも、まことが言うところの身勝手な人間の一人なんじゃないかな」

 黒尾は荒廃したガスステーションで食料を物色しながらも、僕の独り言を胸にとどめていた。

「生きるために他人から奪う。それは悪いことだと言い切れるか?」

 そう黒尾に問われ、僕は即座に答えを出すことができなかった。

 誰かが所有していたものを力ずくで奪い、我が物にした経験などなかったが、生きるために誰かを犠牲にして来なかったかと言われれば、自信を持って否定することなどできなかったからだ。

「花はただ虫や動物に蜜を奪われ、葉を蝕まれているだけじゃない。花粉や種を遠くへ運んでもらい子孫を残そうとしている。食べられた葉は糞となって土壌を豊かにする。奪うことが悪いことなのではない。奪ったまま何も還元しないことが、悪いことなんだ」

 黒尾にそう言われると、目からウロコが落ちる思いがした。

 初めて黒尾と会ったとき、高額なミネラルウォーターを引きこもりの母親に売りつける悪人だと決めつけたが、その後、黒尾は直のクラスメイトという関係性以上に母親の身辺の世話をし、話し相手になってくれた。母親が退院するときも柳瀬結子が街を離れようとするときにも、そして僕がただしの足跡を辿る旅に出るときも、時間を惜しまずワンボックスカーを走らせてくれた。海から助け出された柳瀬結子にも、躊躇わず高価なジャケットをかけてあげた。黒尾はただ自由に使える金や時間を持っているからではなく、困っている人に与える精神を常に持っていた。その証拠に、厚木の居酒屋で飲み食いしたときは、働いて収入を得ている僕とかおりからそれなりの代金を徴収した。そんな黒尾だから、もしかしたらこの緊急事態が収まったら、道の駅でパンを配った運転手や朽ちたガスステーションのオーナーに何かしらの還元をするのかもしれない(あとからかおりに聞いた話だが、連泊を想定して三保の旅館にカレーパンを差し入れしたことも、黒尾らしいと思った)。

「原発の悪いところは、金を配って住民を黙らせたことだよ。あれは『還元』じゃない『餌付えづけ』だよ」
「私たちもその餌の恩恵の中で、暮らしていたのね」

 かおりがバットエンドを予感させる童話の結末を読み聞かせるようにしみじみと嘆いた。

「僕も搾取する野獣の一人だったんですね」
「思い違いをするなよ。諒」
「え?」
「オレたち人間には理性がある。そして、知恵もある。それを失わない限り、野獣には成り下がらない。そんなものになってたまるかってんだ」

 黒尾は僕を戒めているようで、僕の中にいる直を叱責しているようにも見えた。

 海洋生物の豊富な知識と熱い探究心を持ちながら、マナティーを絶滅の道に追いやったり、家族を顧みず自死を選ぶような人間でいることを放棄した直に、黒尾はなぜその知恵を生きるために活かせなかったのかと責めているようだった。それと同時に、自分を破滅的な暮らしから救い出してくれた直に対して何も手を差し伸べてやれなかった自分のことを悔いているようにも見えた

 やがて日が落ち、集落は闇に包まれた。そのまま夜通しで走れば僕の家にもかおりの家にも辿り着けたが、地震の被害がどれほどのものかわからないの上に、市街地も人影がなくなり、ところによっては停電している可能性もあると判断した黒尾が、夜が明けてから市街地に入ることを決断した。

 僕らは村役場の駐車場に車を止めて、そこで眠ることにした。すると、役場の対策室に残っていた役人が黒尾のワンボックスカーを見つけ、役場から出てきて、助手席の窓を手の甲でノックした。

「身動きが取れなくなったんですか?」
「あ、えっと、すみません。海の方に向かってるんですけど、夜中の移動は危ないと思って……」

 無断で駐車場に立ち入ったことを咎められるものと思ったかおりが口籠った。

「海の方はだいぶ津波にやられました。通れなくなった道もありますよ」
「避難所に救援物資を届けるんです」

 運転席から身を乗り出して、黒尾がかおりに助け舟を出した。

「そうですか。寒くなったら、中に入ってきて構いませんからね。誰かしら、起きてますから。はい、これよかったら」

 そう言って、少し頭髪が薄くなり始めた作業服姿の役人が、弁当やおにぎりを差し出してくれた。

「あ、ありがとうございます!」

 叱られるかもしれない恐れから開放されたのと、思いがけない役場の職員の優しさに触れて、かおりが泣き出した。

「おい、諒」

 そう言って、黒尾がおもむろにワンボックスカーから下りた。僕はその一言で黒尾が何をしようとしているのかがわかった。

 黒尾はワンボックスカーの後方にまわり、ハッチを開けた。そして『金環水』の2リットルボトルが6本入ったダンボール箱を僕に一つ手渡し、自分も同じものを抱えて、役場に向かって歩き出した。 

「これで、ガスステーションでパクったコーヒーとミルクティーの分は、還元できますね」

 僕が黒尾の背中に向かってそう言うと、「そんなんじゃねぇよ」と照れ臭そうに黒尾が言った。

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(70)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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