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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(33)

〈前回のあらすじ〉
 水族館に柳瀬結子が現れた。しばらく墓前で鉢合わせないように月命日にこだわらず墓苑を訪れていたこともあり、柳瀬結子と会うことはなくなったが、まさか職場にまで押しかけてくるとは思わなかった。しかし、その日の柳瀬結子の面持ちは幾分沈んでいた。聴けば、スナックを畳んで、この地を離れるのだと言う。そして、そう決意するまでの経緯を聞いているうちに、諒は思いもよらない真実を知ることになる。

33・私は私で、やらなければならないことがあったから

 柳瀬結子は父親の心中の相手ではなかった。

 原発を辞した柳瀬結子は、それからの身の振りについて僕の父親に相談した。自分の部下であった時だけに限らず、父親は柳瀬結子に目をかけていた。だから、いよいよ職場を離れ、柳瀬結子が自分の目の届かぬところに行ってしまうことを父親は不安に思ったらしい。だが、柳瀬結子は実の娘でもなく、年齢も経験も十分社会に通用する領域に達していたので、それ以上父親が柳瀬結子の退職の意思に口を挟むことはなかった。柳瀬結子自身も自分が原発を辞めることを決意した以上、僕の父親の庇護のない世界で自立するつもりでいた。ただ、柳瀬結子には潔く福島の地と決別することができない訳が二つあった。

 その頃、父親は原発作業員が贔屓にしているスナックの女主人と親密になっていた。柳瀬結子から細かく話を聞いてみれば、僕の母親とは全くタイプが異なる、明るく世話好きな女性だったらしい。父親だけに限らず、そのスナックに出入りしている作業員の多くは女主人に熱を上げていたのだが、その中から何故か女主人は僕の父親を選び、懇意にしていたという。次の仕事が決まるまでスナックで働けばいいと、僕の父親は柳瀬結子を女主人に推薦したりもした。

 職場の忘年会や取引先との懇親会などでその店を利用した時、柳瀬結子は女主人と僕の父親が店主と客以上の関係であることを見抜いていた。女の勘というものがあるそうだが、僕の父親のことを自分の肉親のように慕っていた柳瀬結子であったから、余計に二人の関係が不潔なものに感じられたのかもしれない。

「男所帯の中で数少ない女性職員だったから、ママも私に優しくしてくれていました。私がママの店で働きたいと申し出たときも、快く受け入れてくれたの。もちろん進さんの後押しがあったからなんだろうけれど……」

 密かに狼狽えている僕の心中に気づいているのかいないのか、柳瀬結子は独り言のように、淡々と過去を語った。

「水商売なんて、今までやったことがなかったけれど、このまま進さんがどうなってしまうのか心配で、ママのそばにいれば二人の動向がわかると思って、お店に雇ってもらったの」

 本当は原発を辞めたら、他の土地に行って新しい生活をするつもりでいた柳瀬結子ではあったが、父親のように慕っていた上司が伴侶以外の女と親密になっていくのを放ったまま、この地を離れることができそうになかった。かといって、僕の父親が家庭を顧みなくなったとか、女店主に貢いだとか、生活を崩壊させ始めたわけでもなかったので、女主人との関わりに忠告もできなかった。そこで、柳瀬結子は女主人の傍らで父親の素行を見守ることを決意した、という訳だ。

 それがこの地を離れられなかった理由の一つ目。

「僕は、あなたに謝らなければならない」
「どうしたのですか?」

 自分一人で抱えてきた荷物を一つおろした安堵に浸っていた柳瀬結子は、辛辣な面持ちをしている僕を見て驚いていた。

「てっきり、僕は、あなたが父親と……」

 父親の失踪と心中。墓苑での柳瀬結子との出会い。国道沿いのレストランでの反目。一連の物事にスナックの女主人を当てはめていくと、僕は自分が狭い範疇で物事を見て、そこに関わる柳瀬結子を歪んだ目で見てきたのだと後悔せずにいられなかった。

 その心中を察したのかどうかわからないが、柳瀬結子はテーブルに置いた僕の手にそっと自分の手を重ね、こう言った。

「心中を図って生き残ってしまったのは、ママよ。でもね、なんとか二人をそうさせないようにとそばにいたにもかかわらず、結局何もできなかった私にも、いくらかの責任があると思ってる」

 柳瀬結子の言葉は僕の胸に刺さり、果たして僕は死にゆく父親に対して、あるいはその後を追うようにして死んでいった直に何をしてやれただろうかと、自問自答した。

 それから僕は、柳瀬結子が見守ってきた、亡くなるまでの父親の様子を半ば放心しながら聴いた。

 父親は僕が思っていてほど、厳格で浮世知らずな男ではなかった。

 家ではほとんど酒など飲まなかったのに、柳瀬結子が働いていたスナックでは、楽しそうに際限なく酒を飲んだそうだ。日本酒や焼酎より、ウイスキーやブランデーを好んで飲んだ。部下や取引先からの信頼は厚かったが、それは仕事の手落ちがないだけではなく、職場を離れた酒の席で冗談を交えて談笑できる社交性も大きく働いていた。もちろん僕や直や母親に向けて、くだらないダジャレなど一度だって言ったことはなかったのに。

 父親の酒の嗜みや人柄は、大学時代に培われたようだ。父親が高校時代から大学にかけてボート部に所属していたことは聞いていたが、その部活動は決してスポーツ一辺倒の汗臭いものではなく、他校を交えた男女交友の場でもあったらしい。母親と出会う前は父親の異性交友もそれなりに盛んで、僕の知らない恋愛話は両手に余るが片手では足りないほどあった。その中に登場する女性は、どれも僕の母親のようなタイプと違っていた。僕が柳瀬結子を父親の浮気相手だと想像したときに感じた違和感は、恐らく僕の母親との共通点にも乏しいことが原因の一つだったのだろう。

 柳瀬結子から生前の父親の話を聴けば聴くほど、僕は父親との距離が縮まっていくような気がした。


「ママは一命を取り留めましたけど、ことがことだけに店にも戻れず、店の全てのことを私に一任して、故郷へ帰ってしまいました。しばらくは、私が店を引き継いで経営していたのですが、やはり小さな街の不謹慎な出来事が知れ渡るのは早く、客足は次第に遠のいていきました。私は私で、やらなければならないこと・・・・・・・・・・・・があったから、この街には残りたかったんだけど、さすがに借金をしてまで店を続けることはできなくて……」

 今までの柳瀬結子の口ぶりから、僕は短絡的に身を固めるものだと勝手に思い込んでいたのだが、「やらなければならないこと・・・・・・・・・・・・があったから」と柳瀬結子が何気なくこぼした言葉が気にかかった。

「あらためて、唐突にお訪ねしてしまったことをお詫びします。その上、私のことばかり話してしまって」
「いいえ、僕の知らなかったお父さんの話が聴けてよかったです」

 僕は素直に柳瀬結子にそう言った。柳瀬結子の人となりを知るごとに、あるいは彼女と父親の絆のようなものを感じるたびに、僕の中で彼女に対する疑念や嫌悪感が消え去り、それを埋めるように親密な好感が生まれていった。

「それにしても、僕がここで働いていることを僕はあなたに伝えていなかったはずなのに、どうして僕が水族館にいるとわかったんですか?」
「直さんのお友達に教えていただきました」

 柳瀬結子は慎ましくそう言い、小さなバックの口を開いて、その中に収めてい財布から一枚の名刺を取り出した。

 僕にはその名刺に見覚えがあった。何しろ、僕自身も直の友人だと自称する男から、同じものをもらっていたのだから。

「どうして、この人があなたとつながるのですか?」
「この地を離れるにあたって、どうしてもあなたに会っておきたかったのです。ただ、進さんのお墓の前で待っていてもなかなかあなたに巡り会えず、つい自宅まで訪ねてしまったのです。すると、この方がお仕事であなたのお宅を訪ねていて、私の話を聞いてくれた上に、水族館まで白い大きな車で送ってくれたのです」

 僕は柳瀬結子の弁明を聞きながら、その情景を微細に空想していた。

 当然、直の友人とは黒尾圭一郎以外の何者でもない。

 その黒尾が我が家にミネラルウォーターを納品に来ていたときに、偶然に柳瀬結子が現れた。僕は黒尾にも水族館で働いていることを話してはいなかったが、恐らく我が家の細かな事情は、顧客でもある母親から聞き上手な黒尾に筒抜けだったに違いない。その黒尾が納品を終え、柳瀬結子に僕の居場所を教え、丁寧に水族館まで連れてきて、別れ際に名刺を渡して去った。それが柳瀬結子がここまでに至る顛末であった。

 僕は黒尾の軽薄さの裏側に隠された計算高い思慮を想像してみた。

 黒尾は、柳瀬結子が醸し出す一筋縄では括れない不安定な情緒を読み取り、その先に潜む挫折や苦悩を覗き見てやろうという好奇心を芽生えさせたのではないだろうか。黒尾の存在は唐突でありながら、楔のように強く深く僕の暮らしに遠慮なく突き刺さっていた。そこに我が家の家長に関わる女性が現れたとなれば、彼がその人を蔑ろにするとは考えがたかった。だから、黒尾があっさりと柳瀬結子の懐に入り込み、僕と結びつけようとしたことは、川が山から海に向かって流れるように、どうにも仕方のないことのように思えた。

 僕はなんだか、ありとあらゆることが黒尾によって操られているのではないかと、自らを嘲笑し、脱力してしまった。

 死んでしまった父親のことを知る数少ない人間である柳瀬結子という女性が僕のもとから離れていくのも、ある冬の夜、唐突にセックス依存症のかおりの虜になってしまったことも、かおりの性のはけ口として棲み分けを申し出てきた高木の下劣さも、なんだかすべて笑い話のように思えてきた。そして、そして、そんな小さな生き物である僕らのささやかな営みを、黒尾は快く歓迎し、蟻の巣に水を注ぎ込んで、その慌てぶりをせせら笑うように、僕らの迷走や堕落を高みから見物しているように思えてならなかった。

 窓の外に広がる灰色の海を眺めながら、僕はカモメに啄まれるイワシほどに自分が下等な生き物なのだと、自覚せずにいられなかった。イワシはなんのために生まれ、なんのためにカモメの餌食になっていくのかなんて考えない。むしろ、あれやこれや考えないだけ、イワシは人間よりも生きることに貪欲で、誠実だ。人間は思考や感情が他の生物よりも優れていると自負しているようだが、それは主観的な思い込みに過ぎず、思考や感情によって生きる本能を鈍らせている時点で、もはや下等生物に落ちぶれてしまったのだ。そのことは、生前の直も示唆していた。

「肉を喰らい、魚を喰らう。厄介なのは、野性と同等であるはずの精神が暴走し、我々が『欲』を身に着けてしまったことだ。必要以上の狩猟や生産を繰り返す。余れば廃棄して、足りなければ搾取する。そうなってしまえば、もはや我々は野獣以下の存在だ」

 その時の僕には、直の言っていることを理解できなかったが、その事実を認めたくないから、人は進化と称して文化や産業を生み出してきた。だが、一旦下等生物に落ちぶれてしまった人間は、結局いつまでも自分の裁量を超えたことばかりに手を出しては、失敗してきた。

 戦争、飢餓、公害、人種差別、宗教弾圧……。そして、父親や直、柳瀬結子らが働いていた原子力発電所など、自然界では存在しなかった恐ろしいものを、愚かにも人間は生み出し、あたかもそれを支配したつもりでいた。しかし、原子力発電所での事故は大小問わずあとを絶たない。その現実こそが、我々人間が下等生物である確証にほかならない。

 僕の父のわがままに翻弄された柳瀬結子が放つ倦怠感。死をゲームのように愉しむリサの狂気。従順で無垢だが望まぬ依存症に抗えないかおりの背徳感。そのかおりを弄び、妻子を裏切り続ける高木の傲慢。カモメにもイワシにも、ピッピにもベーブにもそんなくだらない感情はない。どれ一つとっても、なんの得にもならないし、腹の足しにもならないことを、彼らは動物の本能で弁えている。汚れを知らない竹さんがもしも僕らの迷走を傍観していたなら、きっと滑稽なあまり理解に苦しみ、首を傾げていたことだろう。

 僕はカフェテリアの壁時計を見上げた。間もなくピッピとベーブの餌やりの時間だった。

 僕がカッブに残ったコーヒーを素早く飲み干すと、それを見て面会終了の時間が来たのだと察した柳瀬結子も、手元のカッブを持ち上げて、コーヒーを飲み干した。僕は空になった二つのコーヒーカップを取り上げて、食器返却口へとそれを返した。振り返ると、柳瀬結子が僕が使った砂糖の包装紙やコーヒーフレッシュの殻をゴミ箱に片付けてくれていた。

 カフェテリアを出て、柳瀬結子が先に歩き、売店の前まで戻った。その間、僕らは言葉を交わさなかった。柳瀬結子の背中に、まるで王を失い、その果てに磔にされる后のような潔い覚悟を見た僕は、とても何かを語りかける気持ちになれなかった。

「ここを離れる前に、お話ができてよかったです」

 柳瀬結子は僕に振り返り、清々しくそう言った。

「こちらこそ」

 僕の方こそ、心の中で燻っていた父親への不信感を払拭する機会を与えてくれたことに、心から感謝していた。

 しかし、別れ際に柳瀬結子が投げかけた何気ない問いから、僕の心は再びゆっくりと揺れ動き始めた。

「ところで、直くんは、今、どちらに?」

 柳瀬結子は気づいていなかった。父親が眠っている墓石の側面に、直の名も並んで刻まれていたことに。

 今まで交わした僕らの会話の中に何度も直の名が出てきたというのに、彼がもうこの世にいないということについては語ることがなかった。僕は柳瀬結子が当然直の死も知っていると思いこんでいたし、柳瀬結子は直が原発で働き続けているか、あるいは別のどこかの土地で違う仕事をしているのだと思い込んでいたようだった。振り返れば、直がこの世と決別した時が、柳瀬結子が店を畳むために奔走し始めた時期と重なる。この時点から二人はすれ違っていたのだ。

(私は私で、やらなければならないことがあったから)

 僕は柳瀬結子が慕っていた相手が父親ではなかったことに安心したまま、その相手が直であったとまで考えが至らなかった。しかし、柳瀬結子が執拗に僕にまとわりついたのは、父親とのつながりを求めたのではなく、僕の兄であり、原発の同僚でもあった直とのつながりを求めていたからだった。柳瀬結子が福島の地と決別できなかったもう一つの理由は、直への未練だったのだ。。

 僕の目の前に立つ柳瀬結子は、自らの退路を断ち、自分自身の情念のために新たな道に進む決意に満ち溢れていた。そんな彼女に、僕はどんな言葉を伝えたらいいのか、まったくわからないでいた。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(34)につづく… 

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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