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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(42)
〈前回のあらすじ〉
直が住んでいた静岡県に旅立つ三月の朝、玄関でスニーカーの紐を結んでいると、思いがけず背後の居間の障子が開いた。振り返るとそこには、退院して自宅に戻って以来、久しぶりに見る母親の顔があった。母親は力なく、しかし確かに「大丈夫」と言い、「直を連れて帰って」と懇願した。
42・竹さんが、取り乱したから
世間の出勤時間を過ぎてすっかり交通量を減らした国道からは、暗く重い太平洋が見えた。この海岸線が遠く離れた静岡県の清水までつながっていると思うと、なんだか身体がゾクゾクとした。
僕は少し窓を開けて、まだ冷たい早春の風を感じた。額を撫でるその風は、まもなく訪れる直との邂逅を後押ししてくれているように思えた。
「なあ」
ハンドルを握っている黒尾が、不意にそう僕に呼びかけて、白いワンボックスカーの速度を落とした。
「なんですか?」
僕は、サイドウインドウを流れていく景色を眺めながら答えた。
「あの子は、運転免許持ってるかな?」
そう言った黒尾を振り返ると、彼はフロントグラスの少し向こうを見つめていた。
その景色は、いつも水族館へ向かう見慣れた景色で、竹さんが高校生たちに金をせびられていたコンビニエンスストアもあれば、かおりと夜更けに語らった深夜営業のレストランもあった。それらを順に追っていくうちに、僕は歩道の上で大きく手を振る小さな女の子に目を留めた。そして、僕はその女の子を認識すると、みるみると鼓動を高鳴らせた。
黒尾は減速しながらその女の子を通り過ぎ、その先のバス停にワンボックスカーを寄せて止めた。
「なんで……」
無意識のうちに、僕はそう呟いていた。
ほどなくすると、女の子はバス停に止めた黒尾のワンボックスカーに駆け寄り、僕が座っている助手席のウインドウを毛糸の手袋をはめた小さな拳でノックした。僕がサイドウインドウを下げるためのレバーを探すのにもたもたしていると、黒尾が運転席側のレバーを操作して、サイドウインドウを下げてくれた。
「色気のない御一行様なのね。さしずめ弥次さん喜多さんってとこかしら」
赤いチェックのマフラーを巻いた女の子が、僕を見上げながら、そう言った。視線を感じて振り返ると、「ほらね」と小さく言って、黒尾が自慢げに、鼻先を天に向けた。
「どうしてここに……?」
僕は戸惑いながら、眼下の女の子を見下ろした。
僕が戸惑ってしまうのも、無理はなかった。何しろ、その女の子が他でもないかおりだったのだから。
僕がかおりの不意な待ち伏せに狼狽えている間に、運転席の黒尾がリモートコントロールで後部のスライドドアを開けた。
「諒も隅に置けないね」
「どういうことですか?」
「こんなとこで待ち合わせちゃってさ。恋人なんだろ?」
「待ち合わせの約束なんかしてなくて、僕も状況がつかめてないんです。それに、彼女はまだ僕の恋人ではなくて……」
僕らは大水槽の前で、互いの想いを確かめ合ってはいたが、まだきちんと恋人になった確約はなかった。それでも、恋人ではないと否定もできなかった。
そんな風に僕が答えに窮しているうちに、黒尾は上体を捻って、開いたスライドドアの向こう側にいるかおりに乗車を促していた。
「旅は道連れ、世は情け。一人より二人、二人より三人の方が楽しいってもんさ」
かおりが乗車するのを確認すると、黒尾は再びリモートコントロールでスライドドアを閉じた。
「ところでアケミちゃん、運転免許もってる?」
軽率にかおりを同乗させたと思ったら、黒尾は特にそれ以上かおりと僕の間柄を詮索することなく、やはり軽率に思いついた当てずっぽうの名をかおりに投げかけた。
「アケミではありません。かおりですっ!」
かおりが笑いながら口を尖らせた。
「そえそう、かおりちゃんね」
「免許、持ってますよ」
「ときどき、運転代わってね。何しろ、こいつが免許も持ってないダサ坊なもんだから」
「まかせてください!」
かおりの軽快な返答に黒尾が満足そうに頷くと、ワンボックスカーは再び国道の車の流れに溶け込んでいった。
内心では、思いがけないかおりの不意打ちが嬉しかったのだが、黒尾の手前、手放しで浮かれるわけにもいかなかった。
「ちょっと厚かましくないか?」
僕は、まるで自分の家族の車にでも乗り込んだかのように平静でいる後部座席のかおりを振り返って、彼女を戒めた。
「ごめん。読みが当たって諒くんの顔が見えたから、つい浮かれちゃって」
「もし僕が、電車で出かけていたら、どうしたの?」
「目的地はわかってたから、追いかけるつもりでいた」
ピッピの命名で当選した直の住所は、水族館で把握していた。かおりはそれを頼りに静岡に向かうつもりだったのだ。
「諒くんが休暇を取ったとき、お兄さんのところへ行くんだなってのは、いやでもわかっちゃったし」
僕の目を見つめてそう言い返してきたかおりの顔を見て、僕は息を飲んだ。
「どうしたの?目のところ」
その言葉に反応し、運転席の黒尾もバックミラーを介して、後部座席の顔を覗き込んだ。
かおりは慌てて前髪でそれを隠そうとしたが、左目から頬にかけて赤黒く変色し、腫れたまぶたが小さな黒い瞳に覆いかぶさっていたのを、僕は目に焼き付けてしまった。
「まさか高木さんに?」
「高木さんじゃない。あの人は何も知らないし、知ったところですぐに逃げるから」
歯に衣着せず、高木をそんなふうに言うかおりを見たのは初めてだった。
「じゃあ、誰に……?」
自分が大切だと思っている人を傷つけた奴を、僕は許せなかった。だが、知ったところで、果たして僕に何ができたかわからない。ただ、どうにも知らないままにしておけなかった。ところが、かおりから思わぬ人の存在を伝えられると、僕は混乱や錯乱を通り越し、放心してしまった。
その人とは、他でもないかおりの父親だったからだ。
「今は、訳を話せない」
かおりはそう言うと、革張りのキャプテンシートの真ん中で小さく蹲ってしまった。
僕は、毬のように小さく丸まったかおりに、何一つとして気の利いた言葉をかけてやれなかった。
「まあ、いいじゃねぇか。話したくなったら話せばいい。旅が終わるまで、話したくないと思ったら、それはそれで、たぶん話したところで大して面白い話でもなかったってことなんだよ」
ハンドルを握って正面を見つめたまま、黒尾が軽率にそう言った。だが、僕もかおりも黒尾に返事すらできず、誰も話さなくなったワンボックスカーの中では、ただカーラジオから流れるディスクジョッキーの過度に明るい声が響くばかりだった。
僕は父親にも母親にも直にも殴られたことはなかった(肉親ではない黒尾には、つい最近したたかに殴られたばかりだが)。だから、肉親に殴られた者や肉親を殴った者に歩み寄る術を知らなかった。だが、二人暮しの生活を支えるために水族館で働き続けているかおりを殴ったのだから、よほど父親の心は錯乱していたのだろうと、漠然と察することはできた。
「でもね」
唐突に俯いていた顔を上げ、左側の前髪だけ少し直して、かおりが口を開いた。
「お父さんから逃げてきたわけじゃないの」そう言葉を切って、ひと呼吸置いてから、かおりは続けた。「わたしも、どうしても行かなきゃって、思ったから」
そう言ったかおりの言葉を、僕は背中で聴いていた。
「竹さんが、取り乱したから?」
ほどなく、ワンボックスカーは水族館の前を通り過ぎた。今でもそこにはたくさんの魚や甲殻類、イルカやアザラシ、マナティーやラッコが命を謳歌し、その命に竹さんが向き合っていた。
「うん」
かおりが小さく頷くと、僕らは再び沈黙してしまった。
押し黙った僕らを横目で観察していた黒尾は、相変わらずラジオから流れてくる陽気な曲をなぞるように、鼻歌を歌っていた。
「長い道のりだ。のんびり行こうぜ」
手際よくセンターコンソールボックスからティアドロップ型のサングラスを取り出した黒尾が、それを掛けながら景気よく声を上げると、僕とかおりは目を合わせて、少しだけ微笑んだ。
昼には県境を越えて、夕方には東名高速道路につながる首都高速道路に乗ることができるだろうと黒尾は言った。そして、そのまま夜通しで走れば、深夜か夜明けには静岡に着いてしまうが、十分な日程があったので、その手前のどこかの街で宿をとってもいいだろうと、付け加えた。
黒尾はハンドルを操りながら、時折バックミラー越しに後部座席のかおりに向けて冗談を飛ばした。かおりはその冗談にいちいち無邪気に笑った。僕はそんなふうに快活に笑うかおりを振り返りながら、ピッピの名付け親であった直について、竹さんに尋ねに行ったときのことを思い返していた。
竹五郎さんとマナティー(43)につづく……
〈あらすじ〉
父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。