竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(72)
〈前回のあらすじ〉
諒たちはかおりの家に向かったが、かおりの古い家はほとんど全壊していた。そして、そこにかおりの父親の姿はなかった。かおりはこのまま父親が見つからなければいいと思っている自分に嫌気が差し、歯を食いしばっていた。
72・ヒーロー
敬光学園は山の中腹にあることから津波の影響は受けていなかったが、地震で周辺の山肌がいくらか崩れたりしていた。それでも、建物には大きな損傷はなかった。
忘年会が開催されたときに竹さんが焼きそばの露店を切り盛りした講堂は、被災者の避難場所として開放されていた。
講堂の中は被災者の生活の場所となっていたので、露店も炊き出しのテントも講堂の外に置かれていたが、焼きそばや豚汁の優しい匂いは講堂の中にも流れ込んでいた。
その匂いに僕らは刹那心を和ませたのだが、床が見えなくなるほどに押し詰められた被災者たちを見渡すと、改めて僕らは、自分たちの故郷が窮地に追い込まれているのだと自覚せざるを得なかった。
程なくして、施設職員の白石さんが、僕らを見つけて駆け寄ってきた。
白石さんとかおりは強く抱き合い、互いの生存を喜び合っていた。
「無事でよかった」
「白石さんも」
白石さんはかおりの手をしっかりと握りながら、洟をすすったり、涙を拭ったり、忙しそうだった。
「ところで、竹さんは?」
かおりは、焼きそばの匂いを辿って行けば竹さんに会えるだろうと鼻をクンクンとさせながら、白石さんに尋ねた。だが、白石さんは瞳を潤ませたまま、黙って顔を横に振った。
「まさか、竹さん、いないの!?」
かおりが白石さんに詰め寄った。
「まだ、水族館にいるらしいの」「えっ!?」
かおりが目を見開いて、驚いた。そばにいた僕も、白石さんの言葉を聞いて息を飲んだ。
「放射能が流れてくるから避難するようにと町から警報が出て、水族館の職員も隣町まで避難したらしいんだけど、車から降りるなり竹さんは来た道を駆け出して水族館に戻ってしまったと、水族館の方が知らせに来てくれて……」
声を震わせながら白石さんはそこまで言ったが、その後は泣き崩れて言葉にならなかった。かおりも泣きながら、蹲った白石さんに寄り添った。
「ばっかやろう!」
唐突な黒尾の怒鳴り声に驚いて、僕は背後を振り返ったが、もうすでに黒尾は講堂の出口に向かって駆け出していた。僕は慌てて、黒尾のあとを追った。
黒尾は講堂の外に出ると、車寄せに止めてあったワンボックスカーのリアハッチを開け、そこに積んであった『金環水』の残りのすべてを下ろし始めた。
「何やってるんですか?」
「これは、ここに置いていく。お前が被災者に配れ」
「黒尾さんは、どこに行くつもりなんですか?」
僕は何か嫌な胸騒ぎを感じていた。そして、その胸騒ぎは十中八九的中している確信もあった。
今までどんな状況でも冷静沈着で飄々としていた黒尾が、これだけ取り乱しているのだ。これから黒尾が起こそうとしている行動は無謀な上に、何の算段もないように思えた。
「竹さんを、とっ捕まえてくる」
やっぱり、僕が思ったとおりだ。僕は自分自身の想定と確信を恨みつつ、竹さんを救いたい気持ちと黒尾を一人で行かせたくない気持ちの間で苦悶した。
僕やかおりにとって竹さんは家族のような存在だった。清水への旅の中で僕らが親近感を持って竹さんのことを語ったことで、まだ竹さんに一度も会っていない黒尾の中にも、竹さんへの親近感が芽生えていたようだった。見ず知らずの水族館の飼育員を、僕らと同じように「竹さん」と呼んだことが、その現れだった。
ただ、だからといって目に見えない放射能が流れ出ている場所に、黒尾を行かせるわけにもいかなかった。行くなと言ったところで僕の言うことをすんなり聞き入れる男ではないことを僕は知っていたから、僕は彼についていくことを決めた。
僕はワンボックスカーの荷室にあった段ボール箱をすべて下ろし、ハッチを閉めた。そして、すぐさま運転席に乗り込もうとしていた黒尾を追いかけた。
「僕も行きま……」
僕も行きます。そう訴えるつもりだったが、黒尾も黒尾で僕がそう言い出すのを予測していたようで、僕が決意を告げる前に、運転席の高いシートの上から容赦ない前蹴りを僕の肩に見舞った。僕は思いもよらない黒尾の足蹴を受けて、泥だらけの車寄せの上に尻もちをついた。
「何するんですかっ!」
「お前がいなくなったら、誰がかおりを守るんだ?」
「白石さんもいますし、ここにいれば、かおりは大丈夫です」
車寄せに尻もちをついたまま、僕は黒尾に食ってかかった。黒尾はそんなことに構わず、さっさとドアを閉めた。
「まったく、鈍感な男だ」
「どういうことですか?」
僕はゆっくりと立ち上がり、手についた泥を払いながらワンボックスカーのドア越しに黒尾に詰め寄った。
「何で、かおりが直に会いに行く旅についてきたと思う?」
「それは、竹さんが直の死を知って、取り乱したから……」
僕がそう言うと、黒尾は唇の端を曲げて、鼻で笑った。
「だから、お前は鈍感だっていうんだよ。バカがつくほどのな」
そう言い放ったあと、黒尾は正面を見据えて、ワンボックスカーのエンジンを始動した。
「待ってください。なんなんですか!?僕がホテルを飛び出したあと、かおりがなんか言ってたんですか?」
僕は今まさに走りだそうとしているワンボックスカーの運転席に縋って、開いたサイドウインドウの向こうで息を整えている黒尾を見上げた。その横顔を見て、僕は黒尾も一人で危険な場所に向かうことを恐れているのではないかと感じた。
「諒。ウルトラマン、知ってるか?」
自分自身の心の内で何かの覚悟を決めた黒尾が、柔和な笑みを浮かべながら、そう言った。
「はぁ?」
「ウルトラマンだよ。シュワッチ、ってやつ」
「知ってますけど、それがかおりと何か関係があるんですか?」
「大ありだよ」
黒尾はそう言って、嬉しそうに舌を出して、薄い唇を舐めた。しかし、その瞳には獲物を狙う狼のような獰猛さがあった。
「万事休すってときに現れて、三分間で怪獣をやっつけて、何も言わずに去っていく。そんなヒーローがオレの憧れなんだ」
「今更何言ってるんですか。もう、あなたは僕にとって十分にヒーローですよ」
禅問答のような脈略のない話に、僕は困惑し続けていた。
「それなら、お前はかおりのヒーローになれ」
そう言うやいなや、「じゃあな」と吐き捨てて、黒尾はワンボックスカーのアクセルを踏み込んだ。僕はあっけなく運転席のドアから振り落とされた。
ワンボックスカーはタイヤを軋ませながら車寄せを飛び出していった。清水からの過酷な復路を走破し、せっかくの純白のボディーを泥まみれにした黒尾のワンボックスカーは、敬光学園の門を出ると、瞬く間に見えなくなった。
講堂から僕と黒尾を追いかけてかおりが飛び出してきたが、そのときにはすでに黒尾は姿を消していて、積み重ねられたミネラルウォーターの段ボール箱の傍らで自分の不甲斐なさに打ちひしがれる僕が佇んでいるだけだった。そこに残った喪失感を察知したのか、かおりは何も語らなかった。
僕はかおりの瞳を見つめた。
黒尾は僕にかおりのヒーローになれと言った。万事休すというときに颯爽と現れて、三分間で困難を乗り切ってしまうヒーローになれと。つまり、かおりはまだ僕に打ち明けていない難題を抱えているということなのか。そう勘繰ったところで、かおりの黒い瞳の中に、その答えはなかった。
ただ、今となっては直に匹敵する頼りがいのある兄のような存在になっていた黒尾だったから、彼の言いつけは守るべきだと、僕の心が言っていた。
「行ってしまったのね」
「あぁ、まったく無茶な人だよ」
唐突に僕と母親の前に現れて、僕の数々の危機や苦難に寄り添ってくれた。そして、風のように僕の前から消えていった黒尾は、本当にウルトラマンのような人だった。
「あの人のことだから、きっと大丈夫よ」
かおりはそう言って、僕の手をそっと握ってくれた。僕はかおりの小さな手から伝わる温もりを感じながら強くそれを握り返し、この人を守るヒーローになる決意を固めた。
竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(73)につづく…。
〈あらすじ〉
父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。