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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(37)
〈前回のあらすじ〉
かおりとの逢瀬に浮かれて家に戻ると、救急車が止まっていて住宅街は騒然となっていた。人垣を分けていくと、そこには黒尾の姿があり、諒は有無を言わさず救急車に引きずり込まれた。ラッコの命名の公募に関わってから、母親の食べるものを補充していなかったことで、母親は餓死寸前だった。しかも、最後には経本を食べるまで、意識朦朧としていたという。母親だけでなく、父親や直にもきちんと向き合わなかった自分は、静かに彼らを殺してきたのだと、諒は苦悩した。
37・諒が一緒にいなきゃだめだ。諒じゃなきゃだめだ
やがて救急車は僕の住む町の一番大きな総合病院の夜間救急口に着き、母親は的確に応急処置された。
漆黒だった夜空がやがて薄紫に変わり、朝日に照らされて白く輝いた頃、当直の医師が待合室で項垂れている僕と黒尾のもとにやってきた。そして、母親が一命をとりとめたことを告げた。黒尾は「よかったぁ〜」と天を仰ぎ、そのままベンチに仰向けに倒れた。僕は項垂れた姿勢のまま、ただ、めそめそと泣き続けていた。
それから、母親の様態が良くなるまで、僕は仕事を休んだ。
公募したラッコの赤ちゃんの名前を集約する雑務は幸いにも下火になっていたし、かおりが僕の分まで働くからと言って、高木に掛け合ってくれたようだ。高木はかおりが僕を庇っているいるのが気に入らないようだったが、それでも自分の采配(そう勘違いしている)で公募のイベントが円滑に進んでいることに気を良くしていたので、特に小言は言わなかった。
「諒が一緒にいなきゃだめだ。諒じゃなきゃだめだ」
僕が母親の看病のためにしばらく仕事を休むことを竹さんに伝えると、竹さんは手に持ったデッキブラシを鬼の棍棒のように立てて、仁王立ちでそう言った。
その時僕は、敬光学園の忘年会に出向くとき、かおりから聞かされた竹さんの生い立ちを思い返していた。
両親は既に他界し、兄弟とも疎遠となった竹さん。
孤立無縁、天涯孤独。
だけど、竹さんは人に与え、人からは施されないように生きてきた。もしかしたら、あらゆるものを奪われ、何も与えられずに生きてきた人こそ、人の心を埋める術を知っているのかもしれない。僕は、そんなふうに思った。
「県内外から届くラッコの赤ちゃん名前の応募は、信じられないくらい膨大なんだよ。決して有名な水族館ではないのに、水族館のファンは全国にたくさんいるんだと、初めて知ったよ」
母親を見舞ったものの、自分の醜態を恥じた母親は、ブランケットにくるまり、僕に背を向けたまま何も言わなかった。それでも僕は、随分と骨ばった母親の背中に向けて、語り続けた。
「次は応募された膨大な名前の中から名前を選び、その応募者に懸賞金を渡すんだけど、その作業を一任されていた高木っていう上司が、ほら、場の空気が読めない高木ってやつ、前にも話したでしょ?その高木が、すっかりやりっぱなしにしていて、全然選考が進まないって、かおりが電話でげんなりしてた。かおりって、覚えてる?職場の僕の先輩」
今まで同じ屋根の下にいながらずっと敬遠してきた母親に言葉をかけることは、思いの外難しい作業だったけれど、僕にできる償いといえば、こうして言葉をかけることしかなさそうだった。そうし続けることで、希薄だった絆とか信頼とかが取り戻せるのならそれに越したことはないが、まだ今はそこまで望んでいなかった。ひとまず、母親が生きていることだけで、僕は十分だった。
あれほど母親のことを心配してくれた黒尾は、母親が一命をとりとめたあの朝にふと姿を消したまま、母親が入院している間、一度も姿を見せなかった。はじめは不甲斐ない僕に三行半を突き付けたのかとも思ったが、こうして母親に語りかけていると、黒尾は僕にこのような時間と感情を取り戻させようとして、あえて見舞いを遠慮してくれたのだと察することができた。僕の心の中には、黒尾への感謝の気持ちと同時に、肉親を慕うような親愛が芽生え始めていた。
三日ほどの療養で母親は退院することができた。
母親の着替えを詰め込んだバッグを手に提げて病院の玄関に歩いていくと、病院のロビーには不似合いなスーツ姿の男が座っているのを見つけた。男は僕と母親の姿を見つけると、すっと立ち上がって人懐っこい笑顔で、母親の退院を祝ってくれた。
「どうして今日が退院日だってわかったんですか?」
僕は血の気の薄れた母親の顔色とは対象的に、まるで十代のような健康的な血色を浮かべている黒尾に向かって、そう言った。
「どうしてって」そう言いながら、黒尾は僕が両手に下げているバッグの一方を引き取った。「救急搬送された日、お前は茫然自失でいただろう。だから、オレが搬送の確認書に署名したり、入院の申込みをしたんだぜ。病院から退院日の連絡が来てもおかしくないだろ」
果たして家族でもない黒尾が母親の身元引受人として登録されるのかわからなかったが、口の達者な黒尾のことだから、病院の事務員に「義兄」だとか「従兄」たとか偽っても、決して疑われなかっただろう。母親の住所や電話番号も、『金環水』の顧客リストに登録されていたはずだから、よどみなく書類に記載できたに違いない。
黒尾はどこか人間離れした動物的感性を持っているように感じた。
ひと目もはばからず僕の頬を張ったかと思えば、母親を病院へ搬送するときは冷静沈着であった。黒尾はどんな状況下でも自分がすべきことをわきまえ、物事の一歩も二歩も先を見据えていた。それは深夜に母親から助けの電話を受けたときに、損得を度外視して迅速に駆けつけたことや、病院で医師から母親の容態を聞くまでその場を離れなかったことに顕れていた。
自宅に着くと、黒尾は白いワンボックスカーをガレージに入れずに家の前に止めて、エンジンを回したまま手際よく荷物を自宅に運び入れた。僕が慎重に母親を居室に導いている間にも、黒尾は母親が飲み尽くした『金環水』を十分に補充していった。
「何かあったら、いつでも連絡をよこせよ、諒。そのために名刺をやったんだからな」
人工的に白く加工した歯をこぼしながらそう言うと、黒尾は再び白いワンボックスカーを疾走させて、住宅街から風のように消えていった。
竹五郎さんとマナティー(38)につづく……
〈あらすじ〉
父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。