見出し画像

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(9)

〈前回のあらすじ〉
 
ある日、誰も得をしないようないたずらのように、諒の家の郵便受けに茶封筒が届いた。宛名は「逸見進様の次男様」とされ、高校を卒業して以来、ほとんど外界との交流を断ってきた諒に宛てられていた。ジンベイザメの写真を装丁した水族館の本を手に取り、諒は柳瀬結子のことを思い浮かべていた。

 9・冬のはじめの水族館へ

 水族館に関する本が届いた翌日、本の差出人が柳瀬結子であると断定できないまま、僕は直が遺していった自転車で、この街の水族館にやってきた。一晩思案してもわからなかったことが、水族館に来ればいくらか解明されるのではないかと思ったからだ。

 この街には、僕が生まれるずっと前から水族館があった。この街に育った子どもたちは、必ず一度はこの水族館に訪れていた。どの小学校でも、社会科見学や写生会などで水族館を目的地としていたからだ。中学生や高校生になると、何故か水族館から足が遠のいた。思春期の要らぬ虚栄から、水族館は子どもが行くところだと頭ごなしに決めつけたこともあったからだろう。時折、男女のグループで水族館に行った同級生の話を聞いたこともあったが、僕は鼻白んで彼らを冷やかしたものだった。でも、それは自分が異性と水族館へ遊びに行く度胸がないことを隠すために意地を張っていたに過ぎなかった。だから、受験シーズンも近づいている時期に、高校生とも大学生とも区別のつかない若者が一人で水族館を訪れるのは、随分と思い切った決意が必要だった。だが、直の机に置かれた青い本をそのままにできない思いが、僕の背中を押してくれた。

 入場券売り場で入場料を払おうとしたら、僕の容姿を見た発券係が「高校生ですか?」と尋ねてきた。僕は「いいえ」と答えた。発券係は高校生でなければ、専門学生や大学生ではないか、そうであれば学生証を提示すれば割引ができると教示してくれた。だが、僕は働きもしなければ、進学もしていなかった。発券係の詮索を鬱陶しいと感じた僕は、さっさと大人料金を窓口に差し出した。

 父の失踪や心中、兄の自殺や母親の引きこもりを経験して、少しは大人びたつもりでいたが、やはり大人たちから見れば、まだまだ僕は無邪気で無責任な学生以外には見えなかったのだ。なんだか寂しいような情けないような複雑な心境だった。

 水族館の中は、僕が小学生の頃に訪れた時となんら大きな変化はなかった。ただ、僕の背が伸びたせいで、小学生の頃に見られなかった視点のものを見られるようになったことは、小さな喜びだった。

 たくさんの水槽には、魚だけじゃなくタコやカニ、クラゲやイソギンチャクなども展示されていた。水族館の中心には巨大な円柱状の水槽があり、その中をさながら海の縮図を描いたように、群れをなす銀鱗の小魚や回遊魚が優雅に泳いでいた。僕は久しぶりに見る大きな水槽の光景に思いがけず圧倒され、時折姿を見せるエイやサメやウミガメなどを見つけては、まるで小学生に戻ったかののように目を丸くした。

「どの魚がお好きですか?」

 僕の左側から、そっと囁くような女の子の声が聞こえて、僕は我に返った。

 慌てて振り向いてみたものの、僕はすぐにその声の主を見つけることができなかった。なぜなら、その声の主は僕の肩ほどの身長しかない小柄な女の子で、僕は一度首を左に捻ってから、その視線を下に落とさなければから彼女を見つけられなかったからだ。

「鑑賞の邪魔をしちゃったら、ごめんなさい。でも、あまりにも興味津々に水槽を観ていたから……」

 僕に寄り添うように隣に立った女の子は、紺色の事務服を着ていた。その制服は、入場券売り場の発券係と同じものだったので、彼女も水族館の職員であることがわかった。

「いや、別に、邪魔なんかじゃ……」

 不覚にも、僕は見知らぬ、恐らく僕と同年代だろう女性職員の問いかけに返す言葉が、上ずってしまった。

 父親のスキャンダルが広まってから、高校に通っても、もう僕に関心を示す女子生徒などいなかった。スキャンダルの当事者が僕ではないとわかっていても、早熟な高校生にとっては、僕の存在が胡散臭く感じられたからだろう。まして、他の生徒たちは熱心に進路に照り組んでいるのだ。その傍らでのらりくらりと風任せに卒業を待っているだけの僕を、まともに相手にする生徒がいるはずもなかった。だから、不意に年頃の近い女の子に話しかけられて、僕は狼狽えずにいられなかったのだ。

「魚、好きなんですか?」
「好きとか、そういうのではなくて……、あの……」僕は我が家に届いた差出人不明の青い水族館の本を脳裏に浮かべながら、言葉を探した。「要は、暇つぶしです」

 水族館で働く人に、暇つぶしで来たなどと言ったら気分を害すだろうと気付いたのは、そう口にした後のことだった。

 隣の小さな女の子の機嫌を伺うようにその表情を盗み見たが、彼女は不愉快な様相を見せるどころか、満面の笑顔で僕を見上げていた。

「暇つぶしでも、全然構いません。折角来たんですから、ゆっくり鑑賞していってください」

 そう言って、彼女は僕から一歩退き、深々と一礼してから踵を返して、順路を遡っていった。

 その時、この水族館の目玉の一つでもある巨大水槽の前には、僕だけしかいなかった。そこでウミガメやサメの行方を目で追っていれば、海洋生物に興味があるのだと思われても仕方がなかっただろう。そう思うと、僕はなんだか急に恥ずかしくなってきた。

 巨大水槽を離れ、その後、駆け足でペンギンやアザラシなどを観て、僕は水族館を出た。大きなプールでのイルカのショーは、寒いシーズンであることとその日が平日であったことから開催は予定されていなかった。仮にショーが開催していたとしても、僕はそれを観ずに水族館を出ていたはずだ。巨大水槽の前に一人で佇んでいたところで声をかけられたのだ。観客のいないプールサイドに座り、一人でイルカの曲芸に目を見張っていたら、また誰かに声をかけられたかわかったものではなかったからだ。

 水族館から屋外に出ると、再び入場券売り場の前を通った。さっき僕に身分確認をしてきた発券係が僕を見つけて、透明なアクリル板の向こう側で、小さな会釈をした。僕も、それにつられておざなりな会釈を返した。

 その時、ふと入場料を示す掲示板の隣に貼ってあるチラシに目が止まった。

(アルバイト募集)

 パソコンの文書ソフトで印字されたなんてことのないチラシだった。その大きな七文字の隣には、勤務形態や時給、連絡先なども記載されてあったのだが、僕が立っている場所からは読み取ることができなかった。しかし、無機質なその黒い文字が、何故だが僕の心に強く焼き付き、家に戻ってからも消えることはなかった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(10)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?