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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(29)

〈前回のあらすじ〉
 忘年会から帰るとき、僕は敬光学園に竹さんを残すことに後ろ髪を引かれた。ただ、竹さんを一人にしたくないという気持ちより、自分は竹さんを見捨てず、寄り添ったという自負がほしい気持ちのほうが上回っていた。それは、僕や母親を切り捨てた人たちへの当てつけであり、竹さんを利用したエゴでしかなかった。

29・宇宙の営みで見たら、一瞬だと気付かないほどの一瞬よ

 それから僕らは無言のままでいた。カーステレオからは、往路で聴いていたバンドの曲が繰り返し流れて・・・いた。敬光学園への往復の間に何度か聴いて、サビのフレーズを覚えてしまった。

[生まれる前からわかっていた。君と出会うことも、そして、別れることも]

 父親や直がほんの一瞬でもそんなふうに思うことができていたなら、傷ついているのは自分だけではないと理解し、自ら死すという選択をしなかったかもしれない。しかし一方で、やがて訪れる痛みを知っていたからこそ、彼らは死を選んだとも考えた。僕は澄んだ冬の夜気を貫いて飛び込んでくる対向車のヘッドライトの光に目を眩ませながら、そうした二つの仮想の狭間を行ったり来たりして揺れ動いていた。

 佐藤かおりが運転する車は、水族館に着こうとするわずか手前で進路を変えた。そこは、水族館が職員のために契約している月極駐車場に繋がる路地だった。

 僕はなぜ佐藤かおりがその道に入ったのかわからず、何も言わないでその行き先を見守っていた。もう敬光学園の忘年会は終わってしまったのだ。そうとなれば、佐藤かおりと別れても、僕には母親と自分のために夕食を作って食べて、心地よい疲労に身を任せて眠りに就く以外にやることはなかったのだから。

 佐藤かおりはやはり月極駐車場に車を乗り入れた。その日の当番職員の何人かはすでに終業していて、月極駐車場は閑散としていた。残された車の中には、宿直にあたっていた高木主任が所有する型遅れのドイツ車もあった。それを見て、僕は自分の胸の中に燻っていた疑問を思い起こし、ようやく佐藤かおりに問いかけた。

「前に、飼育棟で高木主任と佐藤さんがいるところを見かけたんだ。なんだか急いでいるように見えたから僕があとを追おうとしたら、竹さんが激しく怒鳴って、僕の手を強く掴んだんだ」

 佐藤かおりは、自分に振り充てられた駐車スペースに車を頭から入れようとしてハンドルを切り始めていたが、僕の言葉を聞いて、強くブレーキを踏んだ。助手席側にあるサイドミラーに、ブレーキランプに浮かび上がる高木主任のセダンが映った。

「竹さんが声を荒げることなんて考えもしなかったから、びっくりしたよ。オレ、何か竹さんの気に触ることをしたのかな?」

 再びゆっくりと車を進め、月極駐車場の一番奥にある駐車スペースにそれを収めると、佐藤かおりは壊れやすいガラス細工に触れるように、そっとヘッドライトのスイッチをオフにし、カーステレオのボリュームを絞った。

「どうしたの?」

 僕は佐藤かおりの不可解な行動について問い質した。

 「……」

 佐藤かおりは静かに身を起こすと、シートベルトを外して、僕に向き直った。そして、しばらく俯いてから何かを思い巡らせ、やがて顔を上げて僕を見た。

「ねぇ」
「ん?」

 もしかしたら、竹さんと佐藤かおりの間にしかない秘めごとに、僕は土足で踏み込んでしまったのではないかと恐れて、少し不安になった。だが、車内の暗がりで僕を見つめる佐藤かおりが次に発した思いがけない言葉で、僕の頭の中は真っ白になってしまった。

「触って」

 僕は言葉を失った。そして、息を呑み、みるみると鼓動を高めた。

 僕に対峙した佐藤かおりは、褒美を待つアシカのように、潤んだ黒い瞳で僕を見つめ、僕から発せられる指示を待っていた。それでも僕は、唐突な佐藤かおりの懇願に狼狽えて、助手席で身動きが取れないでいた。

 すると、業を煮やした佐藤かおりが僕の右手を取って、それを小さな両の手で強く握った。柔らかで少し汗ばんだ掌から佐藤かおりの体温が伝わり、僕の掌と手の甲の両側から浸透してきた。その熱は、すぐに僕の全身に伝達され、高まった鼓動を追い立てるように、僕の体温を上げた。

「ね、触って」

 佐藤かおりはもう一度そう言って、引き寄せた僕の手を、着ていたVネックのセーターの裾からその先へと導いた。僕が抵抗しようと腕に力を込める前に、僕の指先はブラジャーで押し上げられた佐藤かおりの豊かな丘陵に辿り着いていた。

 そこは仄かに火照っていて、静かに滲んだ汗で湿っていた。

 硬直した全身を何とか解そうともがいている僕は、不可解で突拍子もない行動を今すぐやめるように佐藤かおりに瞳で訴えたが、彼女はその訴えを認めながらも、すぐさまないものとした。

 佐藤かおりは狭い運転席で慌ただしく靴を脱ぎ、運転席の座席の上に膝で立った。そして可動式の肘掛けを左膝で器用に押し上げ、瞬く間に助手席にいる僕の上に馬乗りになった。

「ま、まっ……!」

 待て、待ってくれ。喉の奥で言葉が詰まり、声にならなかった。

 佐藤かおりは僕の上で僕に向き合ったまま、素早くセーターを脱ぎ、ブラジャーだけの姿になった。僕は暗闇に浮かぶ佐藤かおりの白い肌に目を釘付けにした。そして、彼女はためらいなくブラジャーを外し、白く豊満な乳房を露わにすると、再び僕の手をそこへ導いた。

 僕の右手から伝わる佐藤かおりの乳房の感触と熱が、みるみると僕の下腹部に蓄積されていった。僕の上に跨った佐藤かおりも、僕の下腹部の変化に気づいたに違いない。言葉を声にする術を失っていた僕をもう一度じっくりと見つめた佐藤かおりは、戸惑いの吐息しか漏らせなくなった僕の唇を、その小さな唇で塞いだ。

 エアコンの暖房も手伝って、車内は瞬く間に僕らの熱気に包まれた。フロントグラスもサイドウインドウもすっかり白く曇り、僕らは外界から遮断された。

 生憎、二十歳を迎えようとする今まで、僕には女性の身体に触れたり、女性から触れられたりした経験がなかった。だから、さっきまで竹さんが抱えた孤独や僕の心に潜むエゴについて論議していた佐藤かおりが、どのような衝動で僕を惑わしているのか、僕には理解できなかった。まさか、竹さんの焼いた焼きそばを食べていた和やかな時間の中で、このような行為をすでに企んでいたのではあるまい。更には、こうした衝動的な行為が、佐藤かおりという個性だけが持つ特質なのか、女性という生態そのものが備える本能なのかも、僕には判断できなかった。

「待ってよ。どうしたの、佐藤さん。おかしいよ」

 佐藤かおりに塞がれた唇の隙間から、ようやく喉に詰まっていた声が絞り出された。

「こういうこと、されるのイヤ?私のこと、キラい?」
「イヤとか、キラいとかじゃなくて、なんか唐突すぎるよ」
「イヤじゃなきゃ、イイってことじゃない」

 僕の腰の上に跨った佐藤かおりは、僕に覆いかぶさるように胸を押し付け、伸ばした右手で座面の脇にあるレバーを引いて、シートを倒した。そして、佐藤かおりはストンと僕の足元に落ち、素早く僕のジーンズのジッパーを下ろすと、僕の戸惑いとは裏腹に憤ったぺニスを取り出した。佐藤かおりはずっと前からそれが自分の所有物だったかのごとく、傲慢に強く握った。そして、やはり無垢な海獣の黒い瞳で刹那僕を見上げたあと、佐藤かおりはそれをそっと口に含んだ。

「あっ」

 今までに経験したことのない快楽が、僕を襲っていた。僕はもはや目の前にいる小さな悪魔に抗う術を持たず、彼女の思うがままに操られていた。

 中学生の頃には、思春期に浮かれた仲間たちとどこからか手に入れてきた成人雑誌を回し読みしたこともあった。そして、男女の営みを知り、そこに辿り着くまで(つまり、今この時まで)は自慰行為に明け暮れた。

 ただ、僕の一番近くにいた成人男性であった兄の直にそうしたものへの関心が全く見受けられず、そのうち、なんだか一人で悶々としていることが馬鹿らしく思えてしまった。高校に上がって、色恋沙汰でも起きていればよかったが、父親が心中で死んだことが広まると、僕に恋や性の話を持ちかけてくる輩もいなくなった。だから、こうして佐藤かおりが僕の身体を弄んでいる状況は、僕の人生における初めての出来事で、どのように受け入れればいいのかわからなかった。

 できることなら、僕は真っ白な恋心というものを用意してから、性行為を体験したかった。きっと、それが正しい順序なのだと思いこんでいたから。しかし、それは僕が思春期に得た稚拙な知識であって、僕よりも何年も前から社会で揉まれている佐藤かおりにとっては、使い古された教科書のように役に立たないものだったのかもしれない。その証拠に、僕の意識は吹き溜まりでくるくると舞う枯れ葉のように浮遊していたというのに、僕の身体は佐藤かおりの導きに極めて従順であった。

 佐藤かおりは僕のペニスを口に含んだあと、丁寧に、しかし強欲にそれを弄んだ。僕は無力に佐藤かおりの口の中に放出したのだが、彼女はそれを欲していたと言わんばかりに、嬉しそうにゆっくりと僕が出したものを飲み込んだ。そして、僕が脱力している間に、片手で手際よく履いていたジーンズと下着を脱ぐと、ジッパーの割れ目からいきり立ったペニスを飛び出させたままでいる僕のジーンズも、すかさず引き下げた。

「え!?うそ。ここでするの?」
「じゃあ、ウチでスる?お父さん、いるけど」
「そういうことじゃなくて、今日はその……、口まで、とか……」
「あのね、私たちがのほほんと考えているほど、時間は悠長に流れてないの。むしろ、残酷なほどに激しく流れていく」そう語りながらも、佐藤かおりは動きを止めることなく、再び僕の上に跨った。「諒くんと私が一緒にいられる時間なんて、一生の中でほんの少し。宇宙の営みで見たら、一瞬だと気付かないほどの一瞬よ」

 そう言って、まだ萎える気配を見せない僕のペニスを暗闇の中で手探りし、掴むと、佐藤かおりは自分の中にそれを静かに埋めた。

 僕は再び佐藤かおりの虜となった。

 そういう行為が男女間で交わされることは成人雑誌や、映画やアダルトビデオで知っていた。だが、そこには体温がなかった。肌の触れ合いがなかった。全身に微量の電気が駆け巡りつづけるような快楽がなかった。

 いつの間にか、僕は佐藤かおりの貪欲さに呼応するように、彼女の豊かな乳房や柔らかな唇を貪っていた。一度、堰を切ってしまうと、もう迸る自身の性欲を止めることができなかった。

 その時、僕に抱きつくように密着した佐藤かおりの肩越しで、曇ったサイドウインドウを舐めるように横切った光を見た。そちらは道路側ではなかったので、同じ月極駐車場で誰かが車を始動させたとしか考えられなかった。僕らがいる軽自動車はすっかり窓ガラスが曇って中は見えないはずだったが、人気のない駐車場に停めてある車の窓ガラスが曇っていることそのものが不自然に見えたはずだ。

 もし誰かに見られていたら……。そんなふうに不安にもなったが、巧みに僕の身体を翻弄する佐藤かおりの導きに引き戻され、僕はまた快楽の海に身を浸した。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(30)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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