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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(22)
〈前回のあらすじ〉
竹さんは山の中腹にある養護学校で育ち、今もそこで暮らしていた。竹さんが人嫌いになってしまった背景がそこにありそうだった。その竹さんが、飼育棟に高木主任と佐藤かおりの姿を見つけると、いつもと違う険しい表情になった。諒はそうした竹さんの衝動的な反応に戸惑った。
22・僕は残された母親に対して、家族という絆を取り戻す作業を怠ってきたのだ
竹さんとともに淡々と作業をこなして、その日の終業を迎えた。
更衣室で私服に着替えて、タイムカードを押すために事務室に入ると、いつもと変わらない笑顔の佐藤かおりがいた。
「おつかれさま。飼育棟は床がコンクリートだから、底冷えするでしょ?」
「明日からは、作業服の下にタイツを穿くことにするよ」
飼育棟で見かけた佐藤かおりの後ろ姿を思い出しながら、僕は言った。
「そうするといいわ」
佐藤かおりは、やはり満面の笑顔を僕に投げかけた。
誰にも二つの顔がある。父親には家庭を大事にする大黒柱の顔と、会社の部下に心を許し、家族の知らない女と心中を図る顔があった。直にも、父親に従順で成績優秀な長男の顔と、人知れず自分が追い求めた学問を諦めきれなかった青年の顔があった。竹さんにも飼育員として健気に働く顔と、養護施設という限られた世界で育った不遇の者の顔があり、それと同じように、佐藤かおりにも、万人に優しく微笑む顔とは別の、掴みどころのない闇を孕んだ顔があるように思えた。
まだ六時も回っていないのに、水族館を出るとあたりはすっかり暗くなっていた。
海岸線を走る国道に沿った歩道にも外灯が灯り、沿道のレストランやガスステーションからは、漆黒の空に向かって青白い光が放たれていた。僕は、家の冷蔵庫の中に残っている食材を思い出し、マウンテンバイクのペダルを漕ぎながら今夜の夕食になりそうな献立を考えた。
水族館でアルバイトをするまでの怠惰な生活であれば、簡素なインスタントラーメンでも用をなしたが、肉体労働をするようになってから、身体が肉と野菜を欲するようになっていた。僕はその晩の献立を野菜炒めと決め、家路の途中にあるスーパーマーケットで豚肉の細切れともやしを買った。大きなキャベツが冷蔵庫にあるはずだったので、味噌汁の具もキャベツともやしでいいと思った。
スーパーマーケットを出ると、日が暮れたせいで一層外気が冷たくなったように感じた。まだ春は遠かったが、僕は決して寒い季節が嫌いではなかった。それはきっと、父親と直が、灼熱の季節に死んだせいかも知れない。凍える寒さの中では、狂気さえも影を潜めるに違いない。
父親が自家用車で心中を図ったことでそれを処分することになり、家の大きなガレージは僕と直の自転車置き場になっていた。しかし、家に戻ると、そこに直が遺したロードバイク以外に、随分と値が張りそうなミニバンが停められていたので、僕は肝を冷やした。
その車に全く見覚えがなかったし、僕の交友関係の中でこのような高級な車に乗っている者を、僕は知らなかった。まして、社会の中で孤立してしまった母親を訪ねてくるような人も、僕には思い当たらなかった。僕が肝を潰したのは、見知らぬ車が我が家のガレージに置いてあったからでもあったが、それ以上に、暗い湖底からマナティーのような緩慢な動きで浮上しようとしている僕と母親に、また悪い知らせが届いたのかと(例えば心中の相手が素性を露わにしたとか)、恐れを感じてしまったからだ。
ミニバンの脇を抜けて、僕はガレージの奥に置いてある直のロードバイクの隣にマウンテンバイクを停めた。そして、食材を収めたプラスチックバックを片手に下げて、ゆっくりと玄関に向かった。玄関には日頃灯っていない外灯が灯っていて、ますます僕の気を逸らせた。
玄関ドアのノブを握り、僕は大きな深呼吸をした。そして、親指でノブのロックを外し、僕はゆっくりとドアを開いた。
すると、僕の視界に、知らない若い男の姿が飛び込んできた。
男はワイシャツの袖を二の腕あたりまでまくり、派手なネクタイを緩めて、母親が購入したミネラルウォーターのウォーターサーバーを組み立てていた。
その身なりは全く配達員らしくなかったが、脱色した軽薄な髪の色も僕に一定の拒否反応を与えた。男のそばには、久しぶりに見る母親の姿もあった。母親は特に憔悴した様子でもなく、思いがけず男の語りかけに笑顔で答えていた。
だが、母親は玄関に現れた僕の姿を見つけた途端に、その表情を曇らせた。それとは対照的に、僕に振り返った男は溌剌としていた。
「おぅ、お帰り!」
男はまるで僕の旧知の友のように、快活な挨拶を投げかけてきた。
男は黒尾圭一郎と名乗った。ウォーターサーバーの組み立て作業の手を止めて、スーツパンツの尻のポケットから二つ折りの財布を取り出し、その中から少しよれた名刺を引き出して、僕に示した。
「お母さんには、いい買い物をしてもらったよ」
黒尾は、まるで自分自身がこれらのミネラルウォーターやウォーターサーバーを所有することができたかのように、嬉しそうに言った。どうやら、母親に大量のミネラルウォーターを販売したのは、この男らしかった。
名刺には『株式会社BSPカンパニー』と書かれており、黒尾の肩書は『代表取締役社長』となっていた。紙片の左隅には玄関に山積みされた段ボールに印刷されたものと同じ『金環水』というロゴが印刷されていた。会社名からはその実態は読み取れなかったが、ミネラルウォーターを販売する商社であることに、疑いはなさそうだった。
「これね、水のサーバー。タンクをサーバーの上に装着すると、この蛇口から水が出てくるのね。電源に接続すれば、保温も保冷もできる。青い方の蛇口からは冷たい水、赤い方からは温かい水が出てくるわけ。カップラーメンを作るほど熱くはないけど、お茶やインスタントコーヒーを淹れるには十分に熱いお湯が出るよ」
男は程なくして組み立てが完了しようとしているサーバーの上に片手をかけながら、初対面の僕に向かって、雄弁に語った。
「これは、母親が買ったものですか?」
「そうだよ」
黒尾の口ぶりは、日差しが強いから帽子を被るとか、錠剤を飲むときには水が必要だとかと同じように、母親の暮らしにこれらの膨大なミネラルウォーターを購入することが欠かせないのだと、公言しているようだった。
「それにしても、この量は多すぎはしませんか?」
「心配するなよ。密閉されたペットボトルに入ったミネラルウォーターは、少なくとも三年は保存ができる。市販されているミネラルウォーターのほとんどは、五年も賞味期間があるんだ。ただね、この水は特別な濾過が施されているから、お客様には二年以内に消費してほしいとお願いしている。それに飲料水としてだけじゃなく、料理にも推奨しているから、これくらいの量は、みなさん、普通に購入されているよ」
ミネラルウォーターの販売員として対峙してしているつもりだが、黒尾の口調には販売員のような丁重さがなかった。僕の知らないところで、引きこもった母親に販売活動をしていたことも怪訝に思ったが、黒尾の軽率さのほうが、より僕の神経を逆なでした。
「これで幾らなんですか?」
「二十一万六千円と消費税かな。新規購入でウォーターサーバーは無料レンタルできるけど、知り合いだから温水機能の付いたものにグレードを上げておいたよ」
「えっ?知り合い?」
僕は黒尾が提示した金額にも驚いたが、あまりに何気なく口にしたことで危うく聞き逃すところだった「知り合い」という黒尾の言葉に、面食らった。怪しい宗教に身を寄せて家に引きこもっていた母親が、その経緯はどうであれ、一見水商売風の身なりをした若い男と「知り合い」になっていたのだから、戸惑わずにいられるわけがなかった。
僕は黒尾の陰に身を隠していた母親を横目で見たが、母親は自分の夫や息子の死亡保険金で勝手に大量のミネラルウォーターを購入したことを問い詰められるものと恐れ、天敵を前にした蛙のように身を縮めてしまっていた。
「あれ?お母さんから聞いてなかった?」
体裁を悪くした母親を庇うようにあっけらかんとそう言って、黒尾が僕の意識を自分に向けた。
「オレ、直の同級生。高校で同じクラスだったんだよ。あいつがいなくなってから、残されたお母さんや『お前』のことが気がかりでね。様子を見に来たら、どうもお母さんが疲れているみたいでさ、それならと思って、うち水を紹介してみたんだ。そしたら、お母さんが気に入ってくれたってわけ」
「それにしても、二十万円以上するものを年老いた母親にいきなり売りつけるのは、困ります」
「売りつけるなんて、人聞きが悪い」
それまで柔和だった黒尾の形相が、僕の言葉に応じて一変した。
「言わせてもらうがな、それならお父さんと直を失い、唯一の身内となった『お前』は、今までお母さんに何をしてきた?」
黒尾の言葉を聞いて母親は俯き、やがて音もなくその場から姿を消した。きっと僕に直接言えない僕に対する思いを、家族でもない黒尾には打ち明けていたのかもしれない。これだけの商品を買う気にさせるのだから、母親の懐に入ることなどこの男には造作もないことだったのかもしれない。母親も、自分の目の前からいなくなってしまった直を知る人間に出会えて、思いがけず心を開いたのかもしれない。
黒尾は絶句した僕を睨みつけたまま、歯に衣着せぬ言葉を投げつけてきた。
「『お前』だって、つい最近まで抜け殻のようなニートだったんじゃないか。それを、急に思いついたようにアルバイトにでかけて、あたかもお母さんだけが社会からあぶれた非適合者のように扱いやがって。お父さんが亡くなったときには、まだ直がいたからよかったが、その直さえ失ってしまった今では、『お前』がお母さんの拠り所にならなきゃいけなかったんじゃないのか?」
その言葉から、黒尾が我が家に出入りしていたのは、どうやら昨日今日のことではないのだとわかった。僕が働き始めたことも、恐らく母親から聞き出したのだろう。ただ、直の同級生とはいえ、初対面の男に『お前』呼ばわりされるのは不愉快だった。そのことについて抗議しようかとも思ったが、黒尾が言うことのどれもが的を射ていて、僕には微塵の反論の余地もなかった。
「そりゃ、この水は安くないよ。市場に出回っているミネラルウォーターの価格の五倍はする。でも、それがお母さんの拠り所にならないとしても、少しは気を紛らわす手助けになるんじゃないかと思って勧めたんだ。もちろん、身体にだっていいものなんだ。『お前』が怠ってきたことを、オレが代行している。だが、オレは赤の他人だ。だから、それなりの見返りはもらう。どこか、間違っているところがあるか?」
「間違いとかそういうことではなくて……」
「そういうことではなく、なんだ?」
「道理というか、モラルというか……」
そう僕がいい淀むと、黒尾は呆れ顔で天を仰ぎ「話にならん」と断裁した。
「わかった。ミネラルウォーターは引き上げる。だが、違約金はきっちり払ってもらうぞ。そのことは、お母さんが判を捺した契約書にも記載されている」
「違約金って、いくらぐらい……?」
「代金の七割だ。ざっと十五万、耳を揃えて払ってもらう」
そう吐き捨てるように言うと、黒尾はこれみよがしにミネラルウォーターが梱包された段ボール箱を持ち上げ、さっさと玄関を出ていこうとした。
その刹那、今から身も凍るような母親の奇声が轟いた。
「お母さん……」
ふすま一枚を隔てた玄関先での僕らのやり取りに、母親は聞き耳を立てていたのだろう。黒尾が言ったように、母親は黒尾が持ち込んだミネラルウォーターに、いくらかの希望を見出していたのかもしれない。あるいは、直の同級生だと自称する黒尾との触れ合いに心をほぐしていたのかもしれない。そのミネラルウォーターが家から持ち出され、販売契約が反故になったことで黒尾とも会えなくなることを恐れた母尾は、僕に契約解除を思いとどまらせようと渾身の叫び声を上げたのだった。
その時になって、やっと僕は、僕の家庭がまだ歪んだ状態のままであることを再認識した。アルバイトに出ることによって僕だけが社会とのつながりを取り戻しつつあったが、母親は未だ我が家を襲った忌まわしい二つの死に囚われていて、どこにも行けず、どこにも帰れないでいた。黒尾が僕に叩きつけた言葉のとおり、僕は残された母親に対して、家族という絆を取り戻す作業を怠ってきたのだ。
僕は無意識のうちに、玄関を出ていこうとする黒尾の腕を掴んで、引き戻そうとしていた。
「これは、買います。ウォーターサーバーの設置も済ませてください」
喉から絞り出すように、僕はそう言った。
「だろ?そうした方が、お互いのためにいいに決まってるんだ」
さっきまでの辛辣で厳しい物言いとは打って変わって、黒尾は再び柔和な笑顔の快活な声色に戻った。まさか、さっきの脅迫的な言葉は、僕や母親をミネラルウォーターの購入に踏みとどませるための演技だったのではなかろうか。僕は目の前の優男の真意を見極めることができず、それからぼんやりと玄関に立ち尽くしたまま、黒尾がウォーターサーバーを設置する作業を見ていることしかできなかった。
「定期購入の契約だから、これから長い付き合いになると思う。よろしくな、諒」
作業確認書の控えを僕に手渡しながら屈託のない笑顔でそう言うと、黒尾はガレージに停めた白亜のミニバンに乗り込み、颯爽と去っていった。
『お前』という呼称に続いて、出会って間もないというのに、帰り際にはいよいよ呼び捨てで名を呼ばれてしまった。去りゆくミニバンの眩しいテールランプを見つめたまま、僕は感染力の強い流行病にかかっでしまったような気だるさを全身に感じていた。
強引で、横暴な男だったが、柔和な笑顔や巧みな話術は魅力的だと言わざるを得なかった。
よく考えてみれば、母親が判を捺した契約書の控えも見せてもらってないし、納品書や請求書の類も示されていなかった。名刺の会社の実態も疑い始めれば切りがなかった。それに、代表取締役社長である黒尾本人が直々にウォーターサーバーの設置に来るというのも、胡散臭かった。一度疑念を抱き始めると、そもそも本当に黒尾は直の同級生なのかということすら怪しく思えてきた。ただ、僕の家の玄関に相変わらずミネラルウォーターの山が築かれていたことと、耳の奥に残った母親の絶叫だけは、鮮明な現実感として、僕の心を揺さぶった。
その夜は、台所で野菜炒めと味噌汁を拵え、母親の分を皿に盛り、ラップをかけてダイニングテーブルの上に置いた。自分の分はお盆に載せ、二階の直の部屋まで運び、そこにある学習机で僕は一人、静かに晩御飯を食べた。灯油ストーブが直の部屋を十分に温める前に食事を終えて、僕はピーコートを着たまま、いつものように直のベッドに仰向けになった。すると、瞬く間に、僕は眠りに落ちた。
水族館では竹さんの生い立ちの片鱗を垣間見た。その竹さんに、佐藤かおりを追おうとした僕は厳しく静止された。それに加えて、母親と二人だけだった我が家の風景に、随分と久しぶりに家族以外の者が介入してきた。それらのことに気を揉んだことで、僕は思いの外神経をすり減らしていたのかもしれない。
そして、僕はその夜、直の夢を見た。
竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(23)につづく…。
〈あらすじ〉
父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。