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病気と「治りたくない」について

 「どんなに腕の良い名医でも治りたいと思わない患者を治すことはできない。」
 だいぶ前に聞いた言葉で、もう誰の言葉か忘れたけれど、そういう言葉を聞いたことがある。これは何年か前の当時の自分にもグサッと来たし、今改めて聞いてみても、まさにその通りだな、と思う。

 単純に肉体的な病気、例えば風邪とかインフルエンザとか、虫歯とかなら、検査が怖いという理由で病院に行くのを渋るのはあっても、「治りたくない」というのはそうそうないと思うけれど、精神の病になると話は変わってくる。この言葉を言った人はもしかしたら、精神科や心療内科の先生だったのかもしれない。精神の病の治療や治癒がなかなか進まないのは、精神科や心療内科に対して未だ根強く残っている偏見が、治療を必要とする人の足をそこから遠のかせている以外にも、もしかしたら、患者たちが持つこの「治したくない・治りたくない」という心理にもその一因があるのかもしれない。

 個人的な話をすると、自分はまず発達障害の「自閉症スペクトラム」があって、その二次障害として、軽度のうつ症状がある。発達障害は厳密に言うと、うつ病や統合失調症のような精神疾患とは違って、生まれつきの脳の特性のため、そもそも「治す」ことは不可能だけど、それでも、周りからのサポートや本人の訓練次第でその症状を比較的和らげることで、社会に適応したり、生活しやすくなったり、ということはできる。発達障害でいう「治療・治癒」は基本的にそこを目指すものなのだと思う(というか、個人的に勝手にそう思っている)。ただ、そこでもやっぱり「治したくない・治りたくない」の心理が働いてくる。人によってこの心理の強度は違うだろうが、僕に関して言うと、僕は徹底的に「治りたくない」側の人間だ。

 僕が初めて心療内科に行って、自閉症スペクトラムの診断を受けたときは十七歳のときで、それ以降今に至るまでずっとその心療内科に通い続けているが、治療に協力してくれている人たちには本当に申し訳ないけれど、僕は「治りたい」と心の底から感じたことは、思い出せる限り、一度もない。そもそも、「治す」という言い方に違和感を覚える。
 
 僕は、もちろん、僕という人格を持った人間で、そして、僕に与えられた一人の人間としての身体がある。この身体が僕が生きていくうえで一生涯付き合っていくものであり、僕の生の条件だ。誰も自分の身体から離れて生きていくことはできない。僕はその与えられた条件のなかで、僕なりに思考錯誤して、精一杯やってきた。それがたまたま、今の社会の価値観に合わないというだけで、病気であるといわれ、障害であるといわれ、治療の対象とされるということに、まず僕は強い嫌悪感を覚える。好きでこの身体に生まれついたわけでもないのに、なぜ人並み以上の労力と時間を払って、「治さなければ」ならないのかも、僕には全然理解できない。しかも、その労力と時間を払ったところで、マイナスをゼロにしただけで、そのときにはすでに「健常者」たちはその同じ労力と時間で、自分にとって有意義なものを次々を身に着け、もうはるか遠くに行ってしまっている。スタート地点の全然違う、最初から勝てないレースを強いられている。こんな八百長みたいなレースに誰が真面目に取り組みたいと思うだろうか。
 「同じ労力と時間」と書いたけれど、実のところこれも怪しいもので、健常な人が1の労力を払えばできることを、障害を持っている人や精神疾患を患っている人は10の労力をかけなければできないというのが素直な実感だ。彼らと足並みをそろえようとすれば、徹頭徹尾、こちら側は損することになる。ただそういう体質に生まれついたから、と言う理由で、一生涯、損をしつづけることになる。それでも、その特性を逆に生かして花を咲かせることのできる人はほんの一握りで、大抵はその不利なレースに大人しく汗水たらしながら、必死に食らいついていくことしかできない。納得しようがしまいが、社会は既存の制度以上の情けはかけない。病気は「治す」ものであり、いくらこちら側が意見を述べたところでそれは社会にとっては屁理屈でしかなく、治療できる環境があるのに治療しないなら、そのぶん苦しんでもらうだけで、自分可愛さに努力を怠るそんな人間は苦しんで当然という話なんだろう。

 無理くりそう締めくくってみたけれど、このテーマについてはまだまだ思うところがたくさんある。そのうち、また続きを書くかもしれない。

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