カナリアの子供(5)祭の後
新緑の季節を過ぎ、やさしい雨の季節を過ぎて、夏になった。
「夏は袖が短くて、通気性のよい服を着る」と銀色さんから聞いた翌日、カラスはさっそく洋服を買いに行った。
通気性というのがよくわからないと伝えてみたところ、「いろいろな生地の服を試着してみるとわかりやすいかもしれません」と教えてもらったからだ。
実際の店舗に足を運ぶのは面倒に思われることもあったけれど、手間をかけるだけのメリットもあるものだ、とカラスは学んだ。
「銀色さん、今日はお祭りです」
ポーン。「はい、今日ですね。何時頃から行きますか?」
「スズキさんが来るのが昼過ぎなので、終わったら、すぐに」
ポーン。「わかりました。そうしましょう」
夏服を買いに行ったその店では、夏祭り用の衣装が一緒に売られていた。カラスはもちろん祭着を見るのは初めてだし、祭りに行ったこともなかった。
興味深そうに凝視するカラスの様子に気づいた銀色さんが、お祭りに行ってみようと提案してくれたのだ。
「お祭りの終わりのころ、花火が見られると聞きました」
ポーン。「花火も見たいですか?」
「はい。いくつか動画を見ましたが、仕組みが全くわかりません。それに動画を見ても、空に火の花が咲くというのがどういうことなのか、想像がしきれません」
ポーン。「それでは、今夜見られるのが楽しみですね。そうだ、スズキさんも誘ってみますか?」
「……え、っと」
スズキさんは、人間の男である。
カラスたちの住居より何ブロックも行った先の地区に住居を構えていて、そこで便利屋の仕事をしている。彼の掲げる「便利屋」という業態も風変わりだったけれど、彼が変わり者であるのは、それ以前の問題だ。
スズキさんは人形を所持せず、自分自身が仕事をしている。非常に珍しいタイプの人間だ。
とても興味深いと感じてもいたけれど、カラスにとってスズキさんは、なかなか理解することのできない存在であり、どことなく苦手なタイプでもあった。
(悪い人では、ない)
ただただ、合わない。
合わないというより、おそらく自分は、スズキさんにあまりよく思われていない。カラスはそう感じている。
好かれていない気がする、とは言っても、何か危害を加えられたわけではない。ぞんざいに扱われたわけでもないし、嫌味を言われたり、嫌な顔をされたりもしていない。カラスのたどたどしい話し方にも愛想をつかさず付き合い、会話を成立させてくれるし、笑顔だって見せてくれる。
しかしスズキさんと相対していると、カラスはいつもビリビリとした嫌悪のようなものが向けられているのを感じてしまう。
うまく説明はできなくても、カラスは自分の感覚の精度を信じている。それ以外に信じるもののない生活を送ってきたから、そうすることが芯まで身についてしまっているのだ。
相手から向けられる感情の種類を正確に把握する能力は、カラスにとっては命綱のようなものだった。その感覚に従わず過ごすことは、カラスにはとても難しい。全て身体が覚えているのだ。
「……」
歯切れの悪いカラスに、銀色さんももちろん無理強いはしない。
ポーン。「聞くだけ聞いてみて、またその時に考えましょうか」
「はい……」
こうして自分の気持ちを読み、配慮してくれるのはありがたかった。しかしカラスは、銀色さんにそうさせてしまっていることが最近は不満だ。
気を使ってもらうだけ、一方的に何かをしてもらうだけではなく、もっと双方向的な関係でいたいと感じるようになってきたのだ。
それには、もっとしっかりしなければいけない。足りないのは自分で、そういう関係性になれない原因は自分にあるのだということは、カラス自身にもわかっていた。
もどかしさが苦しい。
これが、最近のカラスの悩みの種だった。
*
「はい、たしかに書類確認しましたよ、と」
頭髪の金色によく映える、青紫色のメガネをかけたスズキさんが言った。メガネをかけると、彼はなぜだか知的に見える。
「いやぁ、でも本当にいいんすかカラスさん。これ出しちまったら、あんた本当にカラスさんになっちまいますよ」
口を開けばもちろん、いつも通りのスズキさんなのだけれど。
「はい、大丈夫です。お願いします」
「カラスさんがいいってんならまぁ、いいんですけどねぇ」
何枚もの書類をトントンと揃え、折れ曲りの防止できるファイルに挟みながら言うスズキさんの声には、明らかに「呆れた」という色が混じっていた。
悪いことは、別にしていない。けれどなんとなく申し訳ない気持ちになってしまって、肩身がせまいような心地になる。
「あの、……僕はいまの名前に馴染むことが、どうしてもできなくて……。ずっとカラスと呼ばれていたので、僕にとってはそっちの方が慣れて、親しい感じがしているんです」
「……そういう気持ちは、まぁ、わからねぇでもないですがね」
元いた家から”保護”された後、カラスには正式な身分と名前とが与えられた。保護と同時に付与されたそれらのタグは、生涯にわたってカラスをカラスとして証明するためのものになるはずだった。
しかし、記名が必要なタイミングが来るたび、カラスはいつも違和感を感じていた。「この名前は自分ではないのに」と、どうしても感じられてしまうのだ。それがどうにも気持ち悪かった。
だからカラスは、付与されたその名前を捨て、”カラス”の方をこそ本名として登録しなおすことにしたのだ。
名前の変更は、法的に不可能なことではない。しかし一般的に行われることでもない。
簡単に変更できるものでもないので、その変更のためには多量の、かつ専門的な書類の用意が必要だった。そうした書類の作成を担うサービスをしている事業者は多くあったが、「この人に頼んではどうでしょう」と銀色さんにオススメされたのが、スズキさんだった。
スズキさんは人間でありながら仕事をしている人だったので、仕事先で一緒になることもあり、銀色さんとは以前から知り合いだったのだそうだ。
街中で何度か顔を合わせ挨拶を交わしたこともあったので、この仕事の依頼をする前から、カラス自身もスズキさんのことは知ってはいた。
まさか、こんなに専門的なことまでできる人だとは思っていなかったけれど。
ポーン。「そういえばスズキさん、根元の髪色が目立ってきてしまっていますよ」
「あぁこれ。そうそう、気づいちゃあいたんですけどね、なかなか抜きにいく時間がとれなくて」
抜く?
抜くとはなんのことだろう。髪の毛を抜いてしまうということだろうか。
カラスの顔に疑問が浮かんだのを見て取って、銀色さんが言う。
ポーン。「スズキさんは、髪の毛の色を抜いて金色にしているのですよ。根元の方の髪色が違うのはわかりますか?」
「はい。根元の方は、僕と同じような黒色をしています」
ポーン。「あれがスズキさんの本来の髪の色です。髪色は、抜いたり染めたりして変えることができます。今は地毛のままの人が多いですが、髪色を変えるのが一般的なオシャレだった時代もありました」
「髪色を変えるのは、今はオシャレでも流行でもないのですね」
ポーン。「そういうことに、なりますね」
スズキさんの髪の黒色。カラスのそれよりも深く見えて、とても綺麗な色だと思った。銀色さんの目の色と似ている。
色を抜いてしまっている部分は、なんだか密度が軽く見える。光にあたるとチカチカとして綺麗にも見えるけど、傷んでいて痛そうにも見えた。だから尋ねた。
「スズキさんは、なぜオシャレでもなく流行してもいないのに、わざわざ髪色を変えているのですか?」
カラスの問いにスズキさんは片側の広角をあげ、銀色さんは困ったような顔をして、それぞれ笑った。
「カラスのぼっちゃん。そういうの、余計なお世話っていうんですよ」
笑顔のままだけれど、凄みのある言い方だ。「まずいことを言った」とわかったけれど、何がまずかったのかはカラスにはわからない。ただ事実を言っただけのはずなのに。
「まぁ、いいですけどね。抜いてる理由は”目立つから”ですかねぇ。人間のくせに仕事なんかして、しかも変わった髪色してるっていうと、それで興味を持ってくれる人も出て来るわけですよ。そういう好奇心旺盛で暇な人たちだとね、興味半分で仕事を頼んでくれたりすることがあるわけです。つまりこの髪色は、簡単に言えば商売のためにやってるもんですね」
ポーン。「スズキさんの髪色は一般的に、軽薄そう、知性に強みがなさそうと誤解されることの多いものです。もちろん、髪色と実際との間には、何ら相関関係はありません。しかし、敢えてそういった偏見を抱かれることの多い髪色にするというのは、何か理由があるのでしょうか」
銀色さんの言葉には、スズキさんは少し気をよくする。
「さすが、目の付け所がいい。これはつまり、ギャップってやつです。頭の悪そうな男が、意外としっかり仕事をする。じゃあ今度はもうちょっと難しい仕事をさせてみよう。おやこれまた予想外の仕事っぷりだ。じゃあこの仕事ではどうだ。なんてことだこの仕事までできちまうのか。……ってな具合にね。スタートラインを低くしとくと、ただの興味本位でガキ相手のお使いみたいなつまんねぇ仕事しか頼んでこなかった客が、だんだん実入りのいい仕事振ってくれる客に育ってくれたりするわけです」
なるほどよく考えられているのだなと、カラスは感心した気持ちになる。
「まぁ自分からしたら、抜いてるだけの髪色なんかより”カラス”なんてのを本名にしようって考えるやつのほうが、よっぽど変わってるなって思っちゃいますけどねぇ。カラスのぼっちゃん、せっかく立派な名前持ってんのに」
これは皮肉だと、カラスにもわかった。なぜ皮肉を言われるのか、何に対しての皮肉なのかはわからなかったけれど。
烏という鳥は、一般的にはあまりよくない印象の鳥なのだそうだ。不吉、ゴミを漁る、田畑を荒らす、時には人をからかい襲って来ることもある、頭ばかりよい害鳥。
しかしカラスにとっての烏は、銀色さんが言った印象が全てだ。
夜色の鳥。
賢い鳥。
カラスは烏に、とてもよい印象を持っている。
(特に、色がいい)
銀色さんは「夜色」と言った。
それはつまり、銀色さんの瞳と同じ色だ。
全体的に白っぽい色の銀色さんだが、なぜだか瞳だけは深い黒色をしている。夜の、一番深い時と同じ色。
カラスはそれを、とても綺麗だと思っている。
自分がカラスと呼ばれていたのはきっと、元の家の人たちの思いつきか気まぐれかそんな程度のもので、どうせよい理由などではないのだろう。それくらいのことは、カラス自身もわかっていた。
でも、それでもいいと思った。
過去の呼ばれた発端がどうであろうと、そんなことよりも今、銀色さんがどのような感触で呼んでくれているのかが大事だった。それを自分がどう感じているのかの方こそ、大事にしたいと思った。
だから、いいのだ。
「僕にとっては、”カラス”の方が素晴らしくて、大事な名前です。だから、あの、お手数おかけしますが、よろしくお願いします」
「えぇ、えぇ。金もらってやってる仕事ですからね。もちろん、きっちりしっかりやらせていただきますよ」
そう言ってスズキさんは椅子から立ち上がった。
今日は少し言い争いのようになってしまったと、カラスは内心で反省する。自分の会話の不得手さに落ち込んでもいた。相手を不快になんてさせたくないのに……。
「じゃあこれ、今日中に法務局に提出しときますからねー」と去っていこうとするスズキさんの背中に、銀色さんが声をかけた。
ポーン。「そうだスズキさん。今日の夕方はおひまですか?」
カラスは少しだけ驚いた。銀色さんが、スズキさんに声をかけたことに対してだ。
「スズキさんに予定を確認してみよう」という話は、たしかにしていた。しかしそれはスズキさんが来る前のことで、つまり今のように、お互いに不快な心地をさせてしまうよりも前のことだ。
なんだか微妙な雰囲気なのに、祭りになど誘ってもよかったのだろうかとカラスは戸惑う。
それに、なんだか気まずい心地を味わっている最中なのに、銀色さんがそれを”敢えて汲まずに”スズキさんを誘ったということが不思議だった。銀色さんらしくない、ように思われたのだ。
(スズキさんも、一緒に行くのかな……)
そうだったらどうしようと、カラスは少し俯いて気まずさを紛らわせる。
ラッキーなことに、スズキさんの返事は「すみませんが、今日はこの後まだ仕事が入ってましてね。また今度にさせていただきますわ」というものだった。
ポーン。「そうですか、それは残念です。ではいずれ折を見て、またお誘いさせていただきますね」
「はいはい。お誘いいただくだけなら、たしかにあんたたちの自由ですからね」
少しひっかかりを感じる会話だと思った。ただ、どこがどう不思議と感じて得た違和感なのかは、カラスにはまだわからない。ともかく危機は回避されたと、今は胸をなでおろすばかりだ。
去って行くスズキさんの背中に、2人で手を降る。……そうなると、カラスの胸の中に残るのは、この後の楽しみな予定のことだけになった。
(お祭り。一緒に行くんだ。銀色さんと一緒に)
チラリと隣に立つ銀色さんを覗き見ると、それに気づいて銀色さんも視線をよこしてくれた。「楽しみですね」と言って、優しい笑顔をくれる。
「はい。とても楽しみです」
だから、カラスも笑顔になれるのだ。
*
祭りは楽しかった。
まず何より、非常に新鮮だった。陽の落ちた後に長く外を出歩くことなど、そうそうする機会がない。しかもカラスだけでなく、他の人間たちもたくさん外に出ていて、楽しそうに過ごしているのだ。
祭りは、かつてはなにか宗教的意味合いのあるものだったらしい。しかし今はそのような意図はなく、ただ人々が楽しむためのイベントと化している。
広場中に色とりどりのテントが出て、食べ物や飲み物、変わった生き物やおもちゃが売られている。中央にはステージがあって、名前もわからない楽器を演奏する人たちがいた。歌う者、踊る者、それを周囲で眺める者たちがいて、歩いて笑って通り過ぎて行く。
人もいた。人形もいた。テントで販売の”仕事”をしているのは人形たちだけではなくて、むしろ人間の方が多かったようにカラスは記憶している。ただ広場中に色とりどりの明かりがついていたので、人間と人形との判別が常より難しかっただけかもしれない。
祭りの場では、一見して人間と人形との区別はつかなかった。それで特段の不便はないと思った。
「銀色さん、あの、とても楽しかったです」
祭りからの帰り。道にはまだ多くの人たちがいるので、2人は手を繋いで歩いていた。すでに知っている道だから迷うことはないし、はぐれることもないだろうが、通りには大騒ぎしている酔っ払いも少なくない。大きな笑い声や酒の匂いが苦手なカラスのための、銀色さんの配慮だ。
繋いだ手のおかげで、安心してカラスは祭りの様子を反芻できる。
わたあめというものを買った。お好み焼き、たこ焼き、かき氷も。キラキラと光って見えるよく跳ねるボールを水からすくい上げるゲームや、おもちゃの銃で景品を狙うゲームもやった。トウモロコシを焼いただけのはずの食べ物もとても美味しそうに見えたけれど、それはもうお腹がいっぱいだったので諦めた。
「花火も、すごかったです。音がすごくすごく大きくて、ドキドキしました……」
カラスの見たそれは、たしかに花火だった。真っ暗な夜空に、炎で彩られた花が咲いた。大きく咲くもの、細やかに何個も花をつけるもの、散ったと思えばもう一度花開くものなど、様々だ。
「とても、綺麗だと思いました」
ポーン。「はい、とても綺麗でしたね。私も花火をちゃんと見たのは初めてでした」
「そうなんですか?」
ポーン。「お祭りの日は人が多いので、外に出ないで過ごすことが多かったのです」
「人が多いのは苦手ですか?」
ポーン。「そうですね。少し……疲れてしまいます。でもこんなに綺麗なものなら、もっと早くに見ておけばよかったと思いました。今夜、一緒に見られてよかったです」
「僕も、一緒に見られて嬉しかったです。……、」
来年も一緒に、と言いかけて、口を閉ざした。
忘れてはいけない。来年は、ないのだ。
だからかわりに言った。
「……夏のお祭り、別の街でもまたあるんですよね。また行きたいです」
ポーン。「いいですね。少し遠出になりますが、行ってみましょうか。その日のうちに帰るのが難しいようであれば、宿泊施設を探してもよいかもしれません」
来年はない。いまだけ。最初からその約束なのだし、期限があるのはどうやら物理的な問題のようだから、期間の延長もきっとできないのだろう。
あと、8ヶ月か9ヶ月かそこら。
(夏を過ぎたら、秋と冬があって、それで暖かくなってきたらもう、そこでおしまい)
息が苦しくなってきて、でもなんとなくそれは銀色さんに伝えてはいけないことのような気がするから、カラスは笑顔を作ってみた。
いつもより、つなぐ手の力をちょっとだけ強くしてみる。
「宿泊施設とは、どのようなものがあるのでしょうか。手配は難しくありませんか?」
ポーン。「手順は難しくありませんが、祭りの時期ですから、予約が埋まってしまっている場合もあるかもしれません。明日、一緒に探してみましょうか」
「はい、お願いします」
夏の夜でもひんやりしている。
ゆっくり、ゆっくりとあたたかくなっていく銀色さんの手。
ポーン。「花火がメインになっているお祭りもあるそうです。そのようなところはいかがですか?」
(離したくない)
「いいですね。動画で、滝のように流れる花火を見ました。あれも見てみたいです」
(離れたくない)
ポーン。「もっと遠くの方まで行くと、その地域の名産品が多く食べられるようになったりもします。何か興味のある食べ物などありましたら、それで行き先を探してみるのもよいかもしれません」
(僕は……)
「……僕は、とてもさみしいです」
ポーン。「……カラスくん?」
(……笑え!)
もう一度強く意識して、笑顔を作って言った。
「……お祭りのあとはさみしい気持ちになると、先日読んだ旅行記に書いてありました。本当ですね。僕はいまなんだか、とてもさみしい気持ちでいます」
銀色さんは少し何かを考え込むようにして、それから言った。
ポーン。「それは、今日のお祭りがとても楽しかったということですね」
「はい。楽しかったです」
ポーン。「楽しくて、嬉しくて、幸せだったから、その時間が終わってしまってさみしいのですね」
「はい。そうだと思います」
ポーン。「……それなら、私はとても嬉しいです。カラスくんが楽しくて、嬉しくて、さみしくなってしまうほど幸せに感じられたことを、とても嬉しく思います」
銀色さんが笑うので、カラスも笑った。
しかし、気持ちはもっともっとさみしくなってしまった。
ポーン。「楽しい、嬉しい、さみしい……と、いろいろなことを感じられるのは、とてもよいことなのだと思います。これから先、カラスくんはもっと日々を楽しくていけるのだと思います。嬉しいことを、きっとたくさんつくれますよ」
「はい」
よくわからない。でも、きっとそうなのだろう。銀色さんが言うのなら。
でも。
でも。
「そうできたらいいなと、思います」
その時きっと、銀色さんはもういないのだ。
「……僕は、どうしたらいいのでしょうか」
銀色さんを見送って。銀色さんのいなくなった世界で。
ひとりで。
ゆっくりと紡ぐカラスの言葉に、銀色さんはまた何かを考え込むようにした。そうしてから、銀色さんもまたゆっくりと答えた。
ポーン。「カラスくんは、そのときのカラスくんが思うとおりに、感じたとおりにしていられれば、きっと大丈夫です。あなたは素敵な人です。だからきっと、大丈夫です」
「……はい。ありがとうございます」
その夜カラスが眠りに入るとき、銀色さんはベッドわきで手をつないでいてくれた。
自分があまりに寂しそうにしていたので、心配してくれているのかもしれないとカラスは思った。
(僕は……)
カーテンから月明かりが溢れている。淡い銀色さんの光と混じって、とても綺麗だと思った。
カラスは銀色さんの手がすきだ。匂いがすきだ。淡く光る銀色が好きだ。それから、やさしい声が好きだ。
(僕は、銀色さんをなくしたくない)
「あのね、銀色さん」
ポーン。「はい」
少しだけ勇気を出して言ってみた。
「僕は、人に触れたり触れられたりすることは、好きではありませんでした」
ポーン。「実は、私もです」
「でも、今はいやではありません」
ポーン。「はい、私も今そう思っています」
「今日はこのまま、手を繋いでもらっていてもよいでしょうか。あの、すみません……」
銀色さんは笑って言う。
ポーン。「はい、大丈夫ですよ。カラスくんが眠るまで、このままでいます。お出かけのときも、お散歩のときも、お望みならいつでも。……カラスくんは迷子になるのが得意なので、ちょうどいいです」
手を繋いで、どこへでも。
「銀色さんはどこか、行きたい場所はありませんか?」
彼は少し考え込んでいるようだった。そうしてしばしの沈黙のあとに出て来たのは、「保管庫」という言葉だった。
「保管庫?」
ポーン。「はい。保管庫と呼ばれている場所があります。新しい人形を作る際は、古くなった人形の体が再利用されることがあります。動かなくなった人形の体は素材ごとにスクラップされ、その場所に一時保管されるそうなのです。どうせなら、私もそこに行ってみたかった」
「銀色さんは、そこには行けないのですか?」
ポーン。「はい、私はそこには行けません」
「どうして?」
ポーン。「私がじき動かなくなる導因は、他の人形のそれとは異なります。ですからおそらく、スクラップ……というか大まかに解体した後の私の体は、研究施設にまわされることになります」
スクラップ。解体。死んで壊されるということ。
離したくない。なくしたくない。
でも、手を繋いでいられる時間には期限があるのだ。
「いつか銀色さんが……眠るとき、僕は側にいたいです。それで、こうやって手をつないでいられたらいいなと、思っています」
死ぬ、壊れる、と言う言葉を使うのは嫌だった。
「いつか銀色さんが……眠るとき、僕は側にいたいです。それで、こうやって手をつないでいられたらいいなと、思っています」
ポーン。「はい。ぜひお願いしたいです。お願いします」
「でも銀色さんがいなくなったら、僕は寂しいです」
ポーン。「すみません。それは、我慢してください」
「我慢できるでしょうか。難しそうな気もします」
ポーン。「……あぁ、それでは、私のパーツのどこか好きなところ、どこでも切り離して、持っていらしてください。多少の手間と対価は必要かもしれませんが、それくらいなら叶えられることと思います」
さみしい。かなしい。
だから考える。
(ずっとそばにおいていられるなら……)
目がいいなと思う。夕方から夜になるときみたいな、もしくは朝になる直前みたいな、一番深い夜の黒色。
とても綺麗な。大好きな。
「……おやすみなさい、また明日」
ポーン。「はいカラス、また明日。おやすみなさい」
明日はきっと早起きをしよう。それできっとまた、手をつないで散歩をしよう。
夏の早い朝のお散歩は気持ちがいい。
銀色さんがおしえてくれたことだ。
まぶたが落ちていくのを感じながら、カラスは思う。
すごくさみしいけれど、すごく楽しみだ。と。
これが、2人の交わした最期の会話になった。
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シリーズです。続きます。
お読みいただき、ありがとうございました!