「冬」がテーマの1話完結・読み切り短編BL集『冬箱』収録作品です。
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30を目前にして実家を出た。
家業を継ぐのは兄である、と昔から決まっていて、僕は自由を許されていて、だから当然不満もなかった。
随分と長く居座ってしまっていたのは、あまり身体の強くない義姉と母とが、祖母の介護で消耗していくのが、見るに堪えない状況だったからだ。
とはいえ自分も仕事をしているから、できるサポートと言えば、休日やたまの夜間だけだったけれど。
その祖母の入れる施設が見つかって、僕の貯金も十分なものになっていて、まぁ、ちょうどよかったのかもしれない。
「恒星くん、ごめんね。普通だったらもう恒星くんだって結婚して、自分の家族を作っていても不思議じゃないのに……」
そう言って申し訳なさそうにする義姉には笑って答えた。
「気にしないで。僕なら大丈夫だから」
だって僕、ゲイだから。
結婚なんてするつもりもないし、できないし。
本心からの言葉だったけれど、そうは受け取ってもらえなかった。カミングアウトしていないのだから、それも当然なのかもしれないけれど。
義姉だけでなく、兄や母にまで「恒星には申し訳なかった」という気持ちが広がっているのがわかった。
それがなんとなく気まずくて、家を出てからの半年以上、ろくに連絡もとっていなかったのだ。
そんな中、実家から荷物が届いた。米と野菜と、5歳になった兄の子が書いてくれたらしい絵と、母の字で宛名の書かれた手紙。
それから、白い封筒がもう1つ。僕宛に送られてきた手紙を、そのまま入れたらしかった。
永瀬春太。長谷川純子。
差出人の名前を見てドキリとする。覚えがあるのは男性の名前の方だけだけれど。
これは、もしかして。
封を開けると、予想通り「結婚しました」の文字。
(あぁ、春太くん、そうか……)
ついに踏み出してしまったのか、と思った。
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春太くんは、文字通り僕の「初めての人」だ。
初めて告白した相手。初めてOKをもらった相手。初めてキスをした相手で、初めてキスの先までした相手でもある。
ただしOKをもらったといっても、いわゆる「付き合う」ことへの了承ではない。性的なことをする相手として認めてもらっただけ。
僕たちはただ「関係していた」だけだった。
春太くんに告白したのは、桜の葉の緑色が強くなる、梅雨の前の頃。もう暗くなった放課後、昇降口から自転車置き場につながる細い通り道でのことだ。
「付き合う気はないし、卒業したら一旦おれ地元離れるし、遠距離でまで続ける気はない」と最初に明言されて、それでもいいのなら「関係」してもいい、ということだった。
僕は「問題ないですよ」と了承した。
「女じゃどうしても抜けなかったし、勃たせることさえできなかったから、助かったよ」と春太くんは笑った。
随分と春太くんに都合のいい条件のようだったけれど、実際は、そこはお互い様だった。
春太くんは僕の憧れの人だった。外見も、声も、物腰も、運動神経がいいところも笑うと八重歯が覗くところも、ひとつひとつが「完璧」で。
こういう人と付き合ってみたいと、ずっと思っていたのだ。こういう人と付き合える自分になってみたい、と。
さらに言えば「実際に付き合えているのでなくても、その気分を味わってみることができるならそれでOK」と。
これは恋愛感情ではないな、と理解していて、その上での告白だったのだから、自己中心的だったのはむしろ僕の方だったろう。
今になってみればわかる。
あの条件はきっと、春太くんの精一杯の優しさだった。
高校生だなんて、まさにやりたい盛りなわけで、僕たちの「関係」は頻繁だった。
体育倉庫の裏で、音楽室のピアノの影で、示し合わせて一緒になった委員会でみんなが帰った後、2人きりで残った教室で。職員室から一番遠いトイレで。アリーナ上にある、普段は使われていない簡易の放送室で。
つかみ合って口付けて、手探りでボタンを外し、ベルトを外され、床に壁にと押し付け合うようにして抱き合った。
時間がない時は僕が咥えるだけですませたり、春太くんがしごいてくれるだけで終わったりする時もあったけれど。
あたりの事後処理のため、ウエットティッシュを大量に消費する日々だった。12個入りで買ったコンドームもすぐになくなったし、ローションなんて尚更だ。
噛み付くような口付けで始まる行為はいつも、触れるような口付けで幕を降ろす。
出し切って、水分を補給して一息ついて、それから「ごちそうさま」の挨拶のように習慣的に、唇の先だけで触れ合う。
呼吸なんて、ほんの少し前までは惜しみなく強く重なっていたのに、この挨拶の時だけは、鼻先がくすぐられるようでドキドキした。
田舎と言えるような地域ではなかったけれど、学校から駅までの帰り道は、一本裏側に入れば街灯もまばらで、よく暗闇が溜まっていた。人通りも少ないのをいいことに、僕たちはよく、手をつないで帰った。
帰り道ではしゃべらなかった。時々隣を通り過ぎる車だとか、遠くに聞こえる電車の音だとかを聞きながら、駅までの10分間を、ただ歩いた。
先輩・後輩という関係だったけれど、友情に似た親しみは持っていた。けれど、それだけだ。
僕たちの間にあったのは基本的には性的なつながりだけで、恋愛感情はなく、強すぎる思い入れもなかった。
だから喧嘩もしなかったし、波風も立たなかったし、トラブルというトラブルも起きず、平穏無事な毎日だった。
体だけのつながりだったのだ。
あの夜以外は。
冬の日だった。
部活の片付け当番ですっかり遅くなってしまった僕を、寒々しい教室で1人、図書館で借りたらしい本を読みながら、春太くんが待っていてくれた日。
「こんなに遅くまでわざわざ待っているってことは、今日もセックスするのかな」と、淡い期待を抱いていた僕の想いとは裏腹に、春太くんは、僕が教室に顔を覗かせるとただ「帰ろうぜ」と笑ったのだ。
コンドームもローションももちろん鞄の中に常備していた僕は少し拍子抜けしてしまったのだけれど、たまにはこういうこともあるかと、のんきに「帰りに肉まん買ってきましょうよ」なんて提案したのだった。
「先輩が奢ってやる」って、春太くんは言った。
今から思えば、春太くんに何か奢ってもらうなんて、それが最初で最後だった。
ぺっかりと明るいコンビニの前は落ち着かなくて、買ったものを手に、僕たちは馴染みの公園に向かった。
もちろんもう誰もいない、隅まで照らすことなんて考えられてもいない粗末な電灯が1本立つだけのそこで、僕たちはブランコに腰掛けた。
肉まんと、春太くんはホットコーヒー、僕はホットレモンを持って。揺らすつもりのないブランコは、少し動くだけでもキィキィと音を立てる。
何を喋ったのかは覚えていない。たぶん何でもない、とりたてて記憶するほどでもないような、瑣末なことばかりだった。
グダグダと時間を過ごして、肉まんはもうとっくに無くなっていて、手元の飲み物もすっかり冷めてしまった頃だ。
「そういや、おれ明日は学校休むから」春太くんは唐突に言った。
「え、何か用事ですか? 仮病?」
体調が悪いようには見えない。
「親戚がさぁ、なんか勢揃いするみたいで。おれ、もうすぐ18だからさ。未成年だけど、なんか、ちょっと区切りみたいなとこあるじゃん」
「お誕生日パーティーでもするんですか? さすが老舗旅館の跡取りは違いますね」
軽口のつもりだった。
「だよなぁ。おれなんかそんな器じゃねぇと思うんだけど」
春太くんもいつも通り、ただ笑って答えただけだった。
けれどどうしても、その言葉にひっかかってしまった。
自分を卑下するような、自信がないことを窺わせるような言葉を、彼はそれまで、一度も吐いたことがなかったから。
思い返せばわかる。わかりにくいSOS。あの日春太くんは、僕なんかに頼ろうとしてくれていたのだ。僕の他にそうできる人が、きっと本当にいなかったのだろう。
「……そうでもないですよ。春太くんはけっこうやる人なんじゃないかって、僕は思ってます」
けれど僕はつい、フォローのようなことを口走ってしまったのだ。
それはそれでおかしいような気がしたので「まぁ、一応は」なんて言い足して、濁す努力までして。
きっと余計なひとことだった。春太くんは結局、その僕の努力を汲んでくれてしまったのだから。
「まぁな! だよな!」と言って笑って、あとはいつもの通りに戻ってしまった。
僕はなんとなく気まずくなって、わずかだった飲み物の残りを、一息に飲み干した。
腕とボトルとで電灯が隠されて、見上げた先に星空が広がった。
「春太くん、ほら、あれ。なんだっけあの星。冬のやつ。へんな四角みたいに並んでる……」
「あぁ、オリオンな」
答えて教えてくれてから、春太くんも僕のようにして夜空を見上げた。ブランコがまたキィキィと音を立てる。
「あー、もうすぐ春かー」
「春太くんそれは気が早すぎるでしょ。冬の本番はこれからだよ」
「でももうすぐに冬至だろ? したら後は日が長くなる一方じゃんか」
「まぁそうだけど……」
納得はし難い。
「春になったら、お別れだからな。寂しいか?」
「さすがにその聞き方はずるいよ。……うん、寂しい」
「今みたいなの、続ける気はねぇけど、たまには遊びに来てもいいよ」
「東京だっけ?」
「いや埼玉」
「距離はそんな遠くないのに、行こうと思うと時間かかるよね」
考えとく、と僕は答えた。
心の中では「行こう」と決めていたのだけれど、そう答えてしまうのは癪だった。
ふいに立ち上がった春太くんは、少しむくれたようになっている僕の前に立ち、「ちょっと失礼しますね」と言って屈んで。
行為の後のような、触れるだけのキスをした。
「……何ですかこれ」
「何だろうな」
「聞いてんのは僕ですよ。春太くん、もしかして僕にホレました?」
「ホレてはないけど、情はわいてる。それもかなりな」
なんだそれ、と思ったら耳が熱くなった。
これはもしや、僕の顔、赤くなっている?
「かわいいな。もしかしてお前、おれにホレてる?」
「ホレてないです。でもホレそうです」
「んじゃ、おれたち、キスすんのはこれで最後にしようぜ」
「はぁ?!」
「おれは、あの最初の条件を変える気はないから。本気になっちゃったら微妙でしょう、お互いに」
「……」
本当になんだよそれ、と思ったけれど、頷いた。
頷かなければ、体だけの関係すらもきっと消えてしまう。そんな確信を持ってしまったからだ。
「最後にさ、もっかいしていい?」
「……いいけど、次はもっとしっかりしてください」
「うん。ありがとな」
春太くんはずるい。心からそう思った。
ホレかけなんてもんじゃなかった。
この日、この時、僕はたしかに、春太くんに恋をしていたのだ。
春太くんだってきっと。
ほんの一時だけだったけれど、僕たちはたしかに両想いで、まるで恋人のようだった。
行為前後のキスだけが消えて、春太くんとの関係はその後も続いた。
関係の終わりは、約束通り、春太くんの卒業と同時にやってきた。
卒業式独特の、あの寂しさと温かさとが不揃いに広がる中、僕たちはそこから逃れるように体育倉庫に隠れ、最後のセックスをした。
いつもダースで買っていたコンドームは3枚余った。「餞別です」と言って差し出したけれど、荷物になるからいらねぇよと断られた。
「時々、遊びに行ってあげてもいいですよ」
「おぅ、シャワーと着替えくらいは貸してやるよ」
「ご飯はしっかり食べてくださいね」
「おれは胃が強いのが自慢だよ」
そうだった。知っていた。
知っていたけれど。
他にかけられる言葉も、言える気持ちも、だって僕は持っていなかったんだ。
だから会話はすぐに終わった。
「春太くん、元気でね」
「恒星も」
遊びに来い、と言ってくれた。
遊びに行く、と僕は答えた。
けれど春太くんは、引越し先の住所を教えてくれることはなかった。
最初のころは時々メールのやり取りもしていたけれど、3ヶ月ほどぶりに送信してみたら、宛先不明で返って来てしまった。
高校を卒業して少しした頃、僕には彼氏ができた。
告白されたのは初めてで、隠すこともごまかすこともなく恋愛感情を抱えたままセックスをするのも初めてだった。
彼氏と日々を過ごすうちに、春太くんとの記憶は少しずつ遠のいていった。
久しぶりに春太くんの名前を聞いたのは、成人式で友人たちと集まった時だ。
隠していたつもりだったけれど、特に親しい友人には、なんと、僕と春太くんとの関係はすっかりバレてしまっていて。
気まずいなんてものではなかったけれど、まぁもう時効だからと酒で流した。
「お前、なかなかドラマチックな相手とやってんなぁと思ってたんだよ」とそいつは言った。
それで、知ったのだ。当時の春太くんがどんな環境に身を置いていたのか、ということを。
春太くんが小さい頃、お父さんと生き別れていること。
お母さんにも放棄されかけて、何度となく養護施設を出入りしていたこと。
見かねた母方のおばあさんが引き取って育ててくれていたのだということ。
おばあさんの切り盛りする旅館を継ぐことが、その条件であったこと。
「おれの姉貴んとこに、近所のおばさんから見合いの紹介が来てさ。写真みたらあの先輩だったから、ビビったよ」と友人は言った。
春太くんは、それらの込み入った事情を全て、お姉さんに開示したらしいのだ。「老舗旅館の跡取りの嫁」という荷の重さを察したお姉さんは、お見合いの話は断ったそうだ。
でもあの先輩ゲイじゃねぇんだな、と言う友人の興味深そうな言葉を、僕は頭の隅に追いやった。
ゲイじゃないわけがない。間違いない。だって僕は知っているんだ。
春太くんは公正であることを大切にする人だった。
だからこそ、はじめに交わしたあの条件が必要だったのだと知った。
条件の提示も、キスを禁止したのも、僕たちが恋愛関係になってしまうことを避けるためだった。
恋愛する気はないと最初にはっきりさせておくことが、春太くんの筋の通し方だったのだ。
将来は誰か女性と結婚して、後継としての役目を果たす。そういう風に人生を使うと、もう決めてしまっていたから。
絶対に未来がないと確信している不毛な恋愛を、誰かにさせてしまうことを、許せなかったから。
不器用な人だと思った。
せめて、自由でいられる間くらい、恋愛くらい、好きにしてみてもいいじゃないか。
絶対に別れると決めているのだっていいじゃないか。
期間限定だっていいじゃないか。
別れを告げられた方は辛いかもしれないけれど。
誰かに恋をする、ということを、諦めて。
春太くんはこれまでも、この先も、誰を好きになることもないのだろう。
気持ちが芽生えかけるたびに、蓋をして、空気を抜いて、殺すんだ。
無性に会いたくて、仕方がなくなった。
それでももう、自力で連絡をとる術はなく、友人のお姉さんに取り付いでもらう勇気もなかった。
それも仕方のないことだった。
僕と春太くんとの関係は、もう全て、終わってしまっていたのだから。
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結婚を知らせるそのハガキには、手書きのメッセージが付いていた。
「元気でやってるよ。恒星も元気?」
「彼女は料理がうまいんだ。食い過ぎてちょっと太ったくらい。おれもかなりうまいんだけどな」
「たまにはうちの旅館泊まりに来いよ。割引してやる」
その後も時々、思い出すことがあった。
冬の季節。刺すように空気が冷たくて、星が綺麗に見える夜。
2人で見たオリオン。
あの日、何か違う受け答えをしていたら、別の道があっただろうか。
もしかしたら春太くんとの関係は続いていて、普通に恋愛して、普通に喧嘩して、普通にお互いの部屋に通ったりもして。
そういう道も、あったのだろうか。
考えながら、僕はソファの上で寝こけてしまった恋人に視線を向ける。
わからない。
わからないけれど、もし、別の道に進んでいたとしても、自分はやっぱり今の彼と出会って、やっぱり今と同じ生活をしているような気もする。
考えても、もう仕方のないことだ。
全ては遠い過去の話で。
元気であればいい。
春太くんからのこのメッセージが強がりなんかじゃなく、心からのものであればいい。
律儀な春太くんだから、彼女には全て話していて、理解されていて、その上でパートナーシップを築けるような人ならいい。
恋愛じゃなくても、たぶんしあわせな結婚は、ある。
どうかしあわせで。
「欠席」の欄を丸で囲ってから、僕も数行のメッセージを添えた。
「僕も元気です。ありがとう。そのうち、彼氏を連れて遊びに行きます」
ボールペンで書いてしまってから、しまった奥さんに見られたらまずかったかも、と思い直した。
迷ったけれど、結局そのまま投函することにした。
僕が泊まりに行くことはきっとない。だからまぁ、なんとかなるだろう。
窓を開け、向かいのマンションの明かりを両手で隠して見上げても、そこにもうオリオンは見えなかった。生憎の曇り空。
仕方がないから目を閉じた。
かつては瞼の奥であんなにもハッキリ見えていたはずの並んだ星は、いつの間にか霞み、小さくなってしまっていた。
思い出せないどころか、耳にはソファからのいびきが聞こえてきてしまって、記憶を追うことすらままならない。
笑えてきてしまって、「やっぱりこれでよかったんだろうな」と思えて、少しだけ嬉しくなる。
部屋が冷えないうちにと、僕は窓を閉めた。
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いただいたリクエストテーマは「オリオン座、嘘、やさしいの」でした。ありがとうございました!
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