「ワガママ」「偉そう」という差別
最近は、「産後のお見舞いや面会は私のタイミングでOK出させてくれ」と産婦が言うと、「妊婦様」など揶揄をされる時代のようです。
(もう妊婦じゃなくて産婦ですね、とかの話はおいておいても)
そういえば、
「妊婦は席を譲ってもらって当たり前だと思ってる」
とか
「ベビーカーだからってエレベーター優先で当たり前とか思ってる」
とか
そういうことにも「妊婦さま」「子連れ様」とか言われたりしますね。
「偉そうにすんな」って。
賢しらな人は
「もちろん(譲る、妊産婦の体調を慮るなど)は大事だけど、それをされて当たり前って態度の人はどうかと思うよね。頭下げるとか、もう少しすまなそうにしてればいいのに」
「お互いに譲り合うことが大切」
とかいう言い方をしますね。
そういうの
非常に腹がたつし、くそ食って寝ろって思うし。
こういった言動をとることって差別ですよね。という話です。
1、優先されるのが「当たり前」という認識
妊婦が席を譲られるのも、ベビーカーユーザーがエレベーター利用優先なのも、産後の面会のタイミングが産婦都合で決まるのも、
全部「当たり前」です。
妊婦は体が不自由な人です。揺れて転倒したらお腹の赤ちゃんには明確な危険があります。
お腹の赤ちゃんが危険になるときって、母体も危険な状態になったりします。
転倒しないように席を譲られるのなんて、至極まっとう、ただの当たり前のことです。
妊婦さんだけじゃなくて、
小さい子どもを連れている人、小さな子ども自身もそうですね。
転倒や、状況によっては圧死のリスクが明確に高いわけなので。
エレベーターも、ベビーカーが優先なのは当たり前です。
ベビーカーでは階段が利用できません。(絶対に不可能じゃないけど、危ないからやめたほうがいい。っていうことくらいわかるよね?)
エスカレーターも利用してはいけません。
じゃあ、エレベーター使うしかないじゃん。
エレベーター以外の手段を使える人と、エレベーターしか使えない人がいたら、後者を優先するに決まってますね。
産後の母体は、死にかけだと思ってください。
難産の場合はもちろん
いわゆる「自然分娩」で安産でも、帝王切開でも、無痛分娩で余裕がありそうに見えても
産後はひとしく、死にかけです。
みんな「少なくとも3週間は、トイレ以外の時間はひたすら寝ていろ、体を起こすな、すぐに寝られるように布団はたたむな」と言われているほどです。ひとしく産婦みんな。みんなだよ。
産後の面会やお見舞いが、その産婦の都合で決められること。
あまりにも当たり前です。
「赤ちゃんは夫の子でもあるんだから」とか、関係ないです。
夫の子であろうとなかろうと、産婦の都合のみを優先すること。
赤ちゃんが別室にいて、面会いやだなって言ってる母体の人のことは休ませてあげられるっていうなら、赤ちゃんだけに会うとかはありでしょうけど。
どれもどれも、当たり前のことです。
まずは「当たり前」ということを認識してください。
2、なぜ「当たり前」に恐縮しなくてはいけないの?
賢しらな人は「それをされて当たり前って態度の人はどうかと思うよね。頭下げるとか、もう少しすまなそうにしてればいいのに」みたいなことを言う、と書きました。
そうすれば、譲る方も快く譲るのに。という意味なのでしょう。
私たちは呼吸をすることに対して、恐縮する必要はありますか? 誰かが不快にならないよう、気を使う必要はありますか?
ありません。
ただ呼吸することに対して申し訳ないと感じたり、「すみません」と言ったり。
そんなこと感じさせられ、言わされたら、不当でしょ。
「当たり前」のことに恐縮させるって、そういうことですよ。
極論だと思ったでしょう。はい、極論です。
でも「妊婦様」とか揶揄してる人たち、これくらいの極論を真に受けるくらいじゃないとバランスとれないくらい自分がやばいこと言ってる・感じちゃってるって、自覚した方がいいと思うんですよ。
だから、これは優しさです。優しさから出た極論ですよ。
「席を譲る」「エレベーターを優先して使えるようにする」ことを、
しないのが当たり前の余分な行為として、わざわざ「してやってる」って思うから、ありがたがれって思うのでしょうか。
譲り・優先することは、別に「わざわざしてやること」ではなくて
普通のことです。
相手が肩身を狭くしていないと、席のひとつも譲れないですか?
相手に謝られないと、エレベーターの順番を譲ることもできない?
自分が呼吸してることについて「ありがとう」って言われなきゃぶちぎれるタイプですかね。
当たり前のことに感謝を求めるって、そういうことじゃないですか。
妊婦・産婦・子連れのためにわざわざしてやった。なんて、思わなくていいんです。
特別思いやりや優しさがあるからすることだって思わなくてもいいです。
妊婦がいた。産婦がいた。子連れがいた。
そうしたら、システマチックに、オートマチックに、ちょっと席を立ってみる。足を止めてみる。それだけです。
それだけの話です。
3、「ワガママ」「偉そう」から透けて見える、差別。
当たり前のことを当たり前に求めただけで、「ワガママ」と言われる。
妊婦様とか言われて「偉そう」扱いされる。
そういうのは全部、妊婦・産婦・子連れの人に、「お前に本来そんな権利はない」と思っているから出てくる言葉です。
当たり前のはずの権利を、「お前にはない」と態度に示すこと。
賢しらな人は「お互いに譲り合うことが大切」とかも言う、と書きました。
妊婦と、歩くのも走るのも自由にできる人。
産婦と、3週間もトイレ以外は寝ていろって言われたわけではない体調の人。
子連れの人と、すでにある程度以上の成長・発達をしていて、自分ひとりの安全だけを守ればいい人。
全然、違う状況です。
負っているもの、抱えているものが違う。
両者の身辺環境は、「=」で結べる状況ではありません。
「お互いに譲り合う」なんてものではないんです。
一方的に譲る・譲られる関係でいいし、それでやっとトントンです。
差別って基本的に、個人的な感情だけの話ではなく、社会的な構造を伴うものだと思うんですね。
日本社会は現在、
妊娠していない人、産婦ではない人、子連れではない人をベースとしてデザインされています。
そういう社会構造を伴った上で、妊婦・産婦・子連れの人に対して
当たり前に持っているはずの権利を、ないものとして振る舞えと迫ること。
差別ですよ。
優しさとか、思いやりとか、マナーとか、みんなが心地よく過ごすための配慮とか、そういうお気持ちの話の範疇を超えています。
自分勝手でもなんでもないものを「ワガママ」扱いすること、
普通のことを言っただけで「偉そう」扱いすること、
当たり前の権利の主張をうるさがること。
全部全部、差別主義者しぐさだってことに気づいてください。
当たり前のはずのこと、持っていて当然の権利について、わざわざ主張しなければいけないとき
そこにはすでに、圧倒的な不平等があるんだってことに気づいてください。
主張しなくていい、言う必要すらない、
それは現状、特権です。(あまねく、誰もがそうであれるシステムを組むことは、理想であるとは思います)
言っても「ワガママ」とか「偉そう」とか揶揄されない、
それが本来あるべき姿です。
4、席を譲り、産婦の声を聞き、エレベーターを譲る人たちへ
あなたたちがしていることは、ただの当たり前のことです。
でも、
その当たり前のことをしてくれたこと。
つらいときに、いたわってくれたこと。
喋るのも億劫なほどの不調のときに、ちゃんと声をきいてくれたこと。
足腰の丈夫そうな人たちに何人も横入りされて、ずっと並んでいるのにいつまでもエレベーターに乗れなくて、誰も助けてくれなくて悲しかった記憶も薄れない中で、「どうぞ」と言ってくれたこと。
たとえ当たり前のことでも
ずっと忘れないし、ずっと嬉しいと思うし、その日いちにち「今日も私は生きていけるな」って思えるくらい心強いです。
妊娠してからずっと
いろいろなものに気をつけないといけなくて、
体調はずっと復活しなくてずっとずっとしんどくて、
周囲のあらゆるものに抱えている大事な命を奪うだけの力と脅威があって、
不便がデフォルトで、
しばしば「そこにいるだけで迷惑をかけている身だと思い知れ」とアナウンスさえされる身の上で。
他の国なら感じなくてもよかったかもしれないらしい、
理不尽と不当から生まれる惨めさにジリジリと焦がされ首をしめられるようなことも多い日々の中で
「当たり前」に、自分がちゃんと扱われたということ。
覚えています。
ありがとうございます。
矛盾するかな。
してるんだろうけど、しないような気もしている。
わからない。
心からの感謝を、みなさまに。
腹が立ちすぎて、腹立ちのまま書いちゃった。
見えやすい・にくい問わず障害がある人のこととか、怪我や高齢の人のことは、今回あえて書いてません。比較することではないので。
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