指揮棒(タクト)を買ってみた
中学まではイケてないグループに所属、36歳既婚。
中学時代は波風立たせず、いかに目立たずに過ごすかを考えながら学校生活を送っていた。
体育祭、文化祭など学校のイベントは特に嫌いで、運動が苦手な私は体育祭なんてものはこの世からなくなれば良いと思っていた。
そんな私が唯一嫌だと感じなかったイベントが、合唱コンクールだ。
陰キャが嫌いそうなイベントだが、私は密かに歌うのが好きだったのだ。
思春期の中学生は音楽の授業では歌わないが、合唱コンクールでは皆嫌でも声を出して歌う。
その中に紛れてなら大々的に人前で大きな声で歌うことができる。そんな理由で合唱コンクールは好きだった。
合唱コンクールとなれば、ピアノの伴奏と指揮者、この大役はクラスでも目立つタイプの人間が担うもんだと相場は決まっている。
私はピアノも弾けないし、指揮者なんてもっての他で、人望がある人間しか指揮棒を握ることなんぞ許されないと思っていた。
私はせいぜい皆に紛れて大声で歌い、密かにストレスを発散することで満足していた。
しかし先日、Amazonで買い物をしている時にふと、中学時代の合唱コンクールの事を思い出した。
「そういえば指揮者って皆を束ねてる感じでなんか格好よくて憧れたな~。」
と思い、何となくAmazonで『指揮棒』と検索してみた。
すると様々な指揮棒が表示された。
「ほぅほぅ」と呟きながら、指揮棒がずらりと並んだ画面をスクロールしているうちに、なんだか凄く指揮棒が欲しくなっている自分がいた。
値段はピンキリで、5000円以上するものもあれば数百円のものもあった。
「…いっちょいっとくか。」
私はとりあえず手頃な価格、990円の指揮棒をポチった。
さすがAmazon様。指揮棒は翌日にすぐ届いた。
夫が留守の隙に、届いた茶色い紙袋の中から指揮棒を取り出しその容姿をシゲシゲと眺めた。
真っ白いスレンダーボディーに木で出来た持ち手。
これが選ばれし者だけが人前で振り回すことが許される指揮棒か…。
私はおそるおそる指揮棒を振ってみた。
昔、音楽の授業で習った四拍子(のはず)を軽快に刻む。
なかなかいい感じだ。
しかし無音のなかでやっても味気ないと思い、音楽を流して振ってみることにした。
試しにAdoの『踊』をかけてみることにした。
曲に合わせて指揮棒を振る。
テンポが速くてなかなか激しい。これはもうダンスではないかと思うほど両手を使って一心不乱に振った。
1曲が終わって軽く息が弾んでいた。
こちらが指揮するというか完全にあちらに合わせにいっているが、なかなか楽しいではないか。
「…もう1曲ぐらいやってみっか。」
次の選曲は私のカラオケの十八番である、広瀬香美の『ロマンスの神様』にした。
聞き馴染みがありすぎるイントロからまた私は指揮棒を振った。
やっぱり私の世代には香美がしみる。楽しい。歌詞を口ずさみながら、またもや一心不乱に指揮棒を振った。
サビの「Boy meets Girl!」の所は2階席にマイクを向ける浜崎あゆみさながらに指揮棒を掲げた。
2曲目をフィニッシュし、ハァハァと息を切らしながら私はこう思った。
「しんどっ!」
真剣にやったらなかなか体力を消耗する。
エアータクトとかゆう競技があってもいいのでは?とさえ思った。
しかし、同時にとてつもない虚無感に襲われた。
何の予告もなしに、誰もいない部屋の中で一心不乱に指揮棒をふる妻を見たら夫はどう思うだろう。お腹の中の子は誤ったお母さん像を形成してしまうのではないだろうか。
…私は家族の為にもう指揮棒は振らないと決めた。
そしてリビングの棚の引き出しの中にそっと指揮棒をしまった。
その日からまだ一度も指揮棒を手にとっていない。