プロフィール
今まで見る専で登録してたnote。ここ数年間、発信していきたいことが自分のなかで固まってきた。というわけで、発信者本人のプロフィール、人となりを知ってもらうための自己紹介をする。
日本生まれ日本育ちの中国台湾ミックス
時折「あなたは何人ですか?」と聞いてくる人がいる。
外見は至って日本人(っぽい)と思って生きてきたから、なおさらドキッとする。
しかし、優れた観察眼を持つ人にはやはり見抜かれるのだ。
私は上海人の父と台湾人の母のもとに生まれた。世間的にハーフなのかどうかの議論は避けるが、いずれにせよ中華系がルーツだ。ふたりとも日本に留学し、出会い、結婚、そのまま日本に定住した。
結婚して間もなく私が生まれたのだが、5歳までは姓が「呂」だった。聞いたところ私が小学校に進学するタイミングで両親は帰化(外国籍の人が日本国籍を取得すること)して、今の苗字に変えたそう。
今でも上海や台湾に里帰りすることはあるが、人生の大半を日本で過ごした。
なので「あなたは何人ですか?」と聞かれたら、堂々と「日本人です」と答える。
ただ、私をひと目見て感じ取った違和感はあながち間違っていないため、このような質問をされたときは相手方の観察力に敬服するばかりだ。
同級生の何気ないひと言に救われた高校時代
小学1年生から2年生に進級する半年間、引っ越しの兼ね合いもあり私と妹は台湾の叔母の家に預けられた。幼い頃は言語脳が発達し、語学の習得が速いと言われている。若いうちから中国語を話せるようにと、両親の教育方針だった。
始業式前に私だけひとり先に帰国し、新しい学校に通うことになるのだが、どうやら帰国当初は日本語を忘れてしまっていたらしい。今でも鮮明に覚えているのは、自分の部屋のテレビをつけたときアニメ『スラムダンク(集英社)』が放送されていたのだが、ひと言も聞き取れなかった。母との会話も中国語(台湾行く前は日本語)だったと記憶している。半年でこんなにも変わってしまうのかと驚くとともに、明日から始まる新学期に馴染めるのだろうかと不安でたまらなかった。
新しい環境に慣れるために、自分の身を守るために周りと同化することに毎日が必死だった。
当時、中国での反日デモをはじめ日中関係が良くなかったことを皆は覚えているだろうか。
子どもながら社会ムードをなんとなく感じ取ることができたのだろう。中華系の血を引いてることを知られたらいじめ、差別の対象になることを恐れ、いつしか自分のルーツを隠しながら学校生活をやり過ごすようになった。それは高校まで続く。
進路希望調査を渡された帰りのバスで大学受験と将来の就職について同級生と話していた。
母親の影響もあり、将来は日本と台湾の懸け橋となる仕事に携わりたいとなんとなく思い描いていた。だから外国語大学に進学し中国語を学び直そうと考えていた。
それまで決して自分のバックグラウンドを人に話さなかったのだが、なぜかその日は心がゆるんでしまい口を滑らしてしまった。話し終えたときにハッと我に返り、後悔の念が押し寄せ、緊張で身体がこわばった。
同級生の反応はというと、
「中国語、話せるのすごいじゃん!いい家庭で育ったな、お前。」
肩透かしを喰らったかのように、ポカーンとしていたと思う。
こんなにあっさり受け入れられるとは。。
今まで思い悩み、隠してきたことが馬鹿らしく思い笑うしかなかった。
人生で初めて身内でもない赤の他人に承認された気がして嬉しかった。心が救われた。
台湾留学で自分のルーツを知る
大学時代、交換留学で台湾の大学に1年ほど通っていた。
想像に容易いような留学生ライフを送っていたある日、母親から藪から棒に「この人に会いに行ってみたら?」と連絡があった。
台北の忠孝敦化駅近くの上島珈琲店で初対面したその人は母方の祖母の弟、つまり大叔父だった。
彼は曽祖父母や一族の話をしてくれ、そのときに台湾原住民族にルーツがあることを知る。
今まで日本生まれ日本育ちで、日本人としてのアイデンティで生きてきた自分の意識に、突然岩を放り込まれたようなショッキングでエキサイティングな話だった。
台湾原住民族のことをもっと知りたくなった。
私の好奇心を感じ取ったのか、大叔父から台湾アミ族が多く住む台湾東部にいっしょに行かないかと誘われ、ふたつ返事で行く日を決めた。
早朝、飛行機で向かった先は台東県成功鎮。
昔は「新港」と呼ばれたこの港町で祖母と大叔父は育った。
ゆかりのある場所を案内してもらったり、彼の旧友を訪ねたりと短い時間ではあったが、私の人生に大きな影響を与えたのは間違いない。
以降、台湾原住民族に対して特別な感情を抱くようになった。
彼らのことを調べるなかで、彼らの抱える社会課題を知る。ルーツがありながら何も知らなかったこと、何もできなかったことにやるせなさを感じた。
日本で生まれ育ったからこそ、違う角度から社会課題を解決の一助になれないか考えるようになり、第一歩として台湾原住民族の歴史や伝統文化を発信するメディア『ニハマガジン(night’ Magazine)』を立ち上げた。
経歴
新卒で日系のシステム開発(いわゆるSIer)に入社、営業として約5年間勤めた。副業でWeb制作を始めたのをきっかけにクリエイティブ、デザイン分野に興味を持ち、Web制作会社にディレクターとして転職。
働くなかで台湾との接点の少なさに悶々していた。
ならば自分で関わりを作ろうと一念発起し、会社を辞めて単身台湾へ。原住民族が住む村を訪れながら環島(台湾島一周の意味)をなんとか成し遂げる。帰国後、自身のメディアを立ち上げる。
一連の個人活動を発信していたところ注目してくれた会社から「台湾でいっしょにプロジェクトをやらないか?」と声をかけてくれた。
会話を重ねてくなかで意気投合し、プロデューサーとして採用の運びとなり、京都へ移住。
以前より台湾との接点は増えたものの、もう一歩地域に踏み込んだ活動をしたい思いが強くなり、半年で退職。
地域プロデュース、ローカルデザインを学ぶ必要性を感じ、日本各地の工芸祭やオープンファクトリーを駆け巡っていたところ、今お世話になっている神戸のデザイン事務所と出会った(前職で面識はあったけど)。伝統工芸や地場産業を支えるつくり手のマーケティング支援、台湾での販路開拓や工芸ツーリズムの造成など、幅広いジャンルのプロジェクトに携わっている。
どんなことを発信していくのか?
ここまで話してきたように、私は台湾原住民族に関わりたい気持ちが強い。
しかし、原住民原住民と歴史・伝統文化を知ったり、実地調査をしたところで支援できる範囲やインパクトは小さい。ひとりで出来ることなどたかがしれている。
もっと台湾社会全体を知り、手を取り合ってローカルを盛り上げていくための仲間が必要だ。
というわけで、台湾で地域プロデュースをしている仲間たちを探して彼らにインタビューしたり、現地で感じたことをnoteで発信していきたいと考えている。
加えて私個人のプロジェクトも動き始めたので、その過程もあわせて発信していきたい。
豆知識:苗字「宮田」の由来
帰化したタイミングで改名したわけだが、なぜ「宮田」なのかよく聞かれる。
日本人らしい苗字にするためにいくつか候補があったようだが、どうも父親が納得しなかったらしい。
父親の旧姓は「呂」。改名後もこの字を苗字に入れたいというリクエストが母親の頭を悩ませていた。
フジテレビ『脳内エステ IQサプリ』に出題されるIQ120にも匹敵するこの問題を母親はトンチをきかせて解いてみせた。
「呂」に「宀」をのせると「宮」になる。
母親の旧姓は「王」なのだが、「王」の両側に「|(縦棒)」を2つくっつけるとなんと「田」になる。
2文字を足すと「宮田」の完成だ。
この実話を話すとたいていウケがいいので、自己紹介では大変重宝している。
ちなみに読み方は”みやだ”、と濁点がつく。
理由は、父親が”みやた”ではなく”みやだ”と戸籍登録してしまったお茶目なミスによるもの。