「清貧」の無い米国
普段は米国のポッドキャストや、テレビでの会見をずっと訳していますが、久しぶりに自分の思いを書こうと思います。
ミネアポリス市での警察官のジョージフロイド氏の殺害を受けて、国中に広がった人種差別反対のデモ運動。殺害から10日たった今でも毎日全国で行われています。
参加者今でもニューヨーク州内だけで3万人程と言われる規模の動員にも関わらず、ほとんどは平和的に行われています。
ですがやはりこのような大規模で、しかも注目を集めるデモになると、煽動家やアナキスト、極左、極右など、色々なアジェンダを持った各運動団体が入り乱れ、もちろん一触即発の所まで怒り心頭している黒人の若者もそれで触発され、破壊活動や、商店の略奪(looting、と言います)、日本語で一言で「暴動」と言われるような事態も起こっています。
まず最初に、一般市民が現政権、現社会に大きな不満があった時、投票以外で声を上げる術であるプロテスト。日本語で「デモ」と言われますが、これは民主主義国家で国民に与えられた発言権であり、これと「暴動」は全く別物である、という事は強く主張したい。なぜか日本では「デモや暴動」と多く、ざっくり同じものに認識される事があるようで、非常に危険です。
そしてこの一連の動きを見ていて、私がとても歯がゆく、残念に思うのが「黒人への構造的差別」という意味が、あまり日本人に伝わっていないのではないか、と思われるような発言が色々な所から聞こえてくる事。私に取ってはこれが本当に悲しい。そしてそれがなぜ日本人に伝わらないのか、色々と考えていました。今日分かった。
この事態に対して多くの日本人が「なんで一人殺されたからって、暴動なんてするの?そんな事だから差別がなくならないんじゃない?」と思っているような気がしてなりません。略奪行為をする黒人の映像をあげて「民度が低い」と言ってみたり、荒らされた商店の写真を上げて「これじゃあ平和的プロテストが台無しだ」との意見を添えたり。
スケボーブランド、Hufは自社のLA店が略奪にあったことを報告、それと共に「確かにその事実は悲しい事だが、私達が失ったのは「モノ」であり、いつか取り替えることはできる。失われた命は戻らない。」とのコメントを添えています。
大きなチェーンを展開する高級ブランド店などは数店略奪されてもへのかっぱでしょうが、個人経営の店は確かにたまったものじゃありません。彼らの損失や痛みは相当なものと想像できます。しかし、です。私達は自分の店が被害にあった当事者でもない、第3者です。皆毎日忙しい。社会問題に関して頭を使う時間、情報を収集して、意見を述べる時間だって限られています。そこで
「暴動はイカン!」
と、「地球は青い!」や「うんちは臭い!」位誰でも知ってる事実を語る事に何か建設的な面はあるでしょうか?なぜ私達は「米国黒人差別」の事を語らないのでしょうか?「警察官が相手が黒人というだけで人殺しができる」事実よりも「だからといって暴動はイカン!」という所により大きな憤慨を覚えている人がこんなに多いのはなぜなんでしょうか。
「どうしてもどうしても100%平和的デモで無ければならない」という希望が何か私達の同情の軸を不当に曲げていないでしょうか?あれだけの人数集まればろくでもないのもいるだろうし、すぐ喧嘩に乗っちゃう子だっていると思う。「良い警官だっている!」「悪いプロテスターだっている!」と喧嘩両成敗で事なきを得ようとする私達日本人のこの癖は何なんでしょうか?100%「良」でないといけないのは警察の方であって、プロテスターではないはずです。
私の地元ではダウンタウンのナイキやアップルやルイビトンなどが略奪を受け、壊れた窓ガラスを超えて何箱もスニーカーを持って出てくる黒人の若者の映像も見ました。黒人を悪者に仕立てようとする白人至上主義者(そのような例が実際何件も報道されています)でもなく、ギャングなどの窃盗団に属しているような柄の悪い輩でもなく、ふつうの高校生くらいの黒人です。笑顔でした。
この映像見て私は「なんて酷い奴らだ!」とは思いませんでした。「嬉々として盗んでら。ま、そういう子だっているだろうな。」位のもの。自分の子供がこんな事やってたらぶっ叩きますよ、当然。でも、貧困層で親はいつも働き、学校でも不良ばっかりで、友達なんかほとんどが落第生で、道を歩けば差別を浴びるような生活をしている子供達に、道徳観が自然と備わるとは思えません。
日本人が「分からない」のは正にそこではないか?
「清貧」という言葉がありますね。時代劇に出てくるような「貧しくても毎日せっせと働き悪さをせず清く正しく生きる町人」。それはもちろん一定量性根が腐っていて、ダメ人間になるゴロツキもいます。しかし江戸時代の一般人とは少なくとも私のイメージでは大部分が清貧を体現する人達です。
それって、社会主義的セイフティーネットがそれなりにあって、「働いて暮らす」人はそれなりの暮らしができる地盤があったからじゃないですかね?そしてその体制は今の日本でも続いていて、貧困率は上がっていると言っても米国ほどでなく、そして貧困層への社会的扶助も減って来ている(由々しき速さと規模で。でもそれはまた別の話)ものの、米国のそれとは比べ物にならないほどしっかりしています。貧しいがために病院に行けない。貧しいがために鉛の入った水道水を飲まされ子供が発達障害になるのを止められない。貧しいがためにろくな教育が受けられない。貧しいがためにスタート地点にすら立てない。貧しいがために、人権を阻害される。
米国の、多数の、社会扶助の無い、貧困層の底なし感が想像できない人が多いのではないか、と気づきました。日本人のあなたが暴動のニュースを見て「民度低い。」と心の底で思う時、知って欲しいです。その嫌悪感は「黒人へ」でなく、貧困率の人種差を平坦化できない、そして、社会主義的補助が無い為に
貧困=悪
となる資本主義の暴走を止められない「米国へ」である事を。「清貧」の無い米国へ、である事を。
そして海の向こうの同胞にお願いがあります。奴隷制という日本人には到底理解できない規模(私もいまだに勉強すればするほどその深さを思い知らされます)の底なしの闇の歴史を内包したまま、苦しみもがきながら進むこの国を、優しく見守ってくれませんでしょうか。
そして、もし、自分が直感した嫌悪感の矛先が「もしかしたら違うんじゃないか」と思ったときに、考えを変える事をためらわないで下さい。考えを変えた人を責めないで下さい。「間違っていたら嫌だから」と黙らないで下さい。問題がある時「それではコレはどうなんだ」「あっちにだって問題がある」と言うのに惑わされがちです。米国に住む私達もそこで脱線しないように、「laser focus」、焦点を見失う事の無いように会話を続けています。
皆の照準が「構造的差別」「資本主義の暴走」にぴったりと合うように米国で、日本で、世界で、会話が飛び交い続ける事を願います。
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