『優しさ』についての、強欲な人間による考察 #虎note
「あの人は優しい人だよね。」
多くの人が言われたい言葉だろう。
だが、優しいとは何なのだろうか。
そもそも、優しくない人間など居るのか。
結論から申し上げる。
人間が他人を評価するときに使う『優しい』とは『自分にとっての都合の良さ』である。
そのことについての考察を書いていく。
見返りのある優しさ
こういうポストを書いた。
よく恋愛漫画で『真心が伝わって、相手も自分を好きになる』みたいなシーンがある。
非モテと呼ばれる人たちは恋愛に於いてそれを期待する傾向があるように思う。
だが、現実でそれが起こることは殆どない。
好意が伝わったところで、大前提として相手にとって自分に価値がなければ、その好意は独善的でキモいだけである。
つまり、優しくしたから優しくされるとか、自分の優しさが伝わったから優しくしてもらえる、ということはない。それどころかむしろ、伝わった方がキモがられることがある。
むしろ、優しい人であることを求められるということは、相手にとって都合のいい人間であることを求められるのだ。
自分が興味ない人が自分に近付いてきたとする。その人はキモいけど、その人がくれるものは欲しい。とすると、多くの人は「それをくれる時限定で話してもいいかな」となるだろう。
アイドルの握手会とかキャバクラってこういう構造でしょ。
そして、優しい人間であるということは、それでもいいということを受け入れるということだ。
あれやって、これやって、ということに対して「それを求められるなんて嬉しい!」と思う人間であるということだ。
都合のいい存在であるということが喜びであるという人間しか、相手にとって優しい人なんかではない。
相手からの要求を「なんでそんなことしなきゃならないんだよ!」と思うなら、その時点でもう優しい人間ではないということだ。
つまり、優しい人間と思われたいし、相手にも優しくされたいが、自分は相手に際限のない要求をされたとして、それをしたくないのであれば、優しい人間などではないということ。
優しい人間だと思われて良くされたいという意図があるのであれば、良くされたいという意図の方が本物で、それは単に強欲であるということだ。
「自分のこの優しさや真心をわかってもらえれば優しくしてもらえるはず」という気持ちは、自分が強欲であるということの欺瞞そのものである。
『優しい人』は見返りなど求めない。
優しくしたから優しくしろ。
真心を持ったから真心を持て。
ギブしたからお前もギブしろ。
相手からしたら、そんなものは関係ない。
相手には相手の都合がある。
相手が欲しいものを与えれば相手は喜ぶ。
つまり与えたところで喜ばれないのであれば、相手の欲しいものではない。
自分の優しさの押し売りをしておいて、見返りを求めるのはもはや優しさどころの話ではないということだ。
他人にとっての優しさとは
繰り返すが、相手にとって優しい人間であるということは、この反対側である。
常に相手の欲しいものが何か察する。
常に相手が欲しいものを提供する。
常に相手の気分や機嫌を理解する。
人間は、こういう人を優しいと評するのだ。
こういう存在になりたいだろうか?
これを際限なく求められる存在になりたいだろうか?
これは『お母さん』以外の何者であるというのか?
つまり、優しいとは都合がいい人間だということだ。
我々は選択する必要がある。
優しいという評価を貰いたいなら、都合のいい存在になること。
その人から何かを得たいなら、優しいという評価を捨てること。
相手にとって何か価値のある人間、つまり都合がいい人間になりたくないなら、優しいという評価を貰うことを捨てるしかないのだ。
優しく見られたい。
良い人に見られたい。
そして、人に良くして貰いたい。
それは、単に強欲な人間なのである。
強欲であれ、正直であれ
相手から見返りを欲する気持ちがあることが、悪いのではない。
その欲望を隠しながら、優しい人間のフリをして、下心を持って他人に近付くのがまったく効果的でないと言っているのだ。
相手から何かが欲しい、それは当然の話だ。
目上からは様々なことを学びたいだろう。
目下からは良い気持ちにさせて貰いたいだろう。
好みの異性とはアレコレしたいだろう。
お金持ちからはお金を貰いたいだろう。
面白そうな人とは一緒に楽しい時間を過ごしたいだろう。
包容力のある人には甘えたいだろう。
だが、相手の欲しいものを差し出さずして、それを手に入れようと思うと、騙しあいにしかならんぞ、ということである。
相手が欲しいものはなんだろうか。
それは『持っているもの以外』である。
それを見抜く力に足りているだろうか。
自分が欲しいものは相手の欲しいものではない。
自分がこうされたら嬉しいからと言って、相手もそうされて嬉しいとは限らない。
むしろ、冒頭のようにキモいだけかも知れない。
優しく見られようとすればするほど、我々はキモく見られるだけかもしれない。
何か相手から欲するものがある時に「優しく見られよう」というのはむしろ悪手かもしれない。
強欲で、それに正直で、楽しそうに生きている人の方が、魅力的だと思われるかもしれない。
自分もそういう風に生きてみたい、なってみたいと思う相手に人は惹き付けられる。
優しく見られたい、なんてものは既にみんな持っている。とすれば、そんな人は魅力的ではないのだ。
今まで貴方が惹き付けられた人はどんな人だろうか。
ただ優しいだけの人だっただろうか?
魅力はある意味、強欲さから来るのかも知れない。
優しく見られようとすることを捨てた時、私達は魅力的になるのかも知れない。
我々は、優しさと、優しく見られることに呪われた人生を捨ててもいいかも知れない。
素直に生きよう。
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