何故人は『所有』するのか?~所有に隠された深層心理とその罠~ #虎note
古今東西、人は色々なものを持ちたがる。
人は『何もない』ということに耐えられないのだ。
何故か?
人は何も所有していない時、自分自身の『ない』ということに直面する。
人にとっては『ない』ということは『悪い』ということである。
どんな人でも、悪いという感覚には出会いたくない。
人は所有することでその『悪い』という感覚から逃れられる。
だから、所有して目を背けようとするのだ。
本当に欲しいものなんてわかってない
現代、多くの人は所有をさせられている。
本人が所有したいと思っている物事の多くは、させられていることが多い。
させられている所有というのは非常に楽だ。
だが、能動的な所有には覚悟や責任が伴う。
どういうことだろう?
例えばみんなが好きと言っているものを所有するのは楽なのだ。
社会が正解と言っているものを所有するのは楽なのだ。
だが、誰も同意せず、好きと言わないものを所有するのはどうか?
それには、覚悟が必要だと思わないだろうか。
周囲が怪しんだり、いぶかしんだりする仕事に就く。
親や友達が良いと言う彼氏じゃない彼氏と結婚する。
どうだろう?
それは怖い、という人生を生きている人は沢山いないだろうか?
そうして自分の好きなものを好きと言わないうちに、人は誰かの後押しのあるものしか好きにならなくなる。
そうして自分の好きなものを見失い、流されて生きるようになる。
いつしか人はそのことすらも忘れて、日々を生きるようになる。
忘れてしまった人達の特徴
では、どういう人がそういう人なのかだけ端的に書いておく。
それは『仲間外れ』を作ろうとする人だ。
この価値観は正しいけど、あの価値観は間違っているという話をする人。
『あっちとこっち』を分けようとする人は、すべからく自分の好きなものを見失っている人だ。
もちろん、そうなるとこの文章そのものがそうではないか?という疑問が生まれ出てくる。
多分そうなのだ。
1つ覚えておいて欲しい。
価値や価値観によって人を分類するのは弱虫のやることだ。
だから、これを読んでいる貴方も、これを書いている私も本当には弱虫なのだ。
自分に、自分の意見に、自分の好きに自信がない。
だから、他人を否定することでしか地位を確立できない。
では、彼ら……いや、我々が何故そうなっていってしまうかも含めて、これからの文章を書いていきたい。
所有はその人の常識を表現している
常識とはなんだろうか?
一言で言うと、自分の身を守るためのものである。
人は常識を自分の身を守るために使う。
「常識がない人は排除される」
我々はそう信じてやまない。
よって、我々は常識を身に着けようとするのだ。
人は何も所有していない時に、守るものがなくなる。
守ってくれるものがなくなると、いてもたってもいられなくなる。
何故か?
それは、その常識の反対側の自分が、自分の内側にいるからだ。
誰も自分を攻撃しないとしても、自分がその自分がいることを知っている。
その自分をこれまで『所有』によって覆い隠してきたのに、所有物がなくなると、それがバレてしまうのだ。
そうなったら誰かを攻撃せざるを得ない。
いや、実際に「あっちとこっち」を分けることで、攻撃してきた、裁いてきた。
だから、そういう相手は自分ではないと思いたい。
弱い者いじめをするのは、相手が弱いからではなく、相手を見ていると自分の弱さに直面するようで、そしてその弱さに直面できないほど心が弱いから、弱い者いじめをするのだ。
つまり、弱い者とは自分であるのだ。
だから人は常識と所有によって身を守る。だが、それをやっていた根本的な理由が「実は自分がそうだったから」と分かったとき、これまで裁いてきたすべての言葉が自分に向かってきてしまう。
人はそれを見たくない。
だが、いくらそれを取り繕っても弱い者いじめとは究極の自分いじめであることがお判りになっただろう。
人は所有によってそれを隠すことができる。
そう思い込んでいる。
だが、それは一生、所有と誰かへの裁きをやり続ける限り、自分に付きまとうことになる。
常識を身に着けることによって、その攻撃から身を守ることができる気がする。
そうしている限り、今も『その自分』がいるのだ。
我々の人生とはある種『その自分』とのお付き合いの物語、と言っても差し支えないかも知れない。
だって、今これを読んでいる貴方も『この自分』とずっと付き合ってきただろう?
自分だけど違う自分。もう1人の自分。
抗いがたい、だけど否定したい自分。
この文章を読んでいる貴方の中には、そういう自分がもう1人……いや、下手をすればもう複数人いるのではないだろうか。
目を背けたいモノの正体とは
人は『悪い』感覚に耐えられない。
例えば、貧乏が嫌なのではない。貧乏でいることで、他人から何かを奪ってでも手にしたい自分に出会うのが嫌なのだ。
見下されるのが嫌なのではない。見下されることによって、やり返せない無力な自分に出会うのが嫌なのだ。
人はその状況を脱して「よりよくなる為に」努力する。
だが、努力してその状況を脱したときに、人は『そうだった自分』を隠すようになる。
貧乏の時に卑しかった自分。
見下されている時に無力だった自分。
卑しい人を見て嫌な気持ちになるのは。
無力な人間を見て嫌な気持ちになるのは。
『ソイツが自分の中から消えることがないから』である。
ソイツとは、先ほど書いた『もう1人の自分』である。
卑しいように見える人や無力に見える人が悪いのではない。
自分が、当時の状況や自分を「悪い!」とジャッジして、そのことをバネに頑張ったから、その人たちを憎んでしまうのだ。
つまり我々は
努力する限り、悪者を産み出してしまう
のである。
努力とは弱さの否定である。
だが、世の中にはどれだけの『弱者』がいるだろうか。
努力できる人からしたら、必ず世の中の多くの人が弱者に見えてくるだろう。
そうなってくると『悪い』が世の中に沢山存在することになる。
そうした結果、我々はどうなるだろうか?
孤独になる。
経営者は孤独、リーダーは孤独などというが、それはこれを表すのだろう。
だが、この観点から言えることは1つ。
孤独になろうとしたのは、自分が原因だろう?
と。
悪を産み出しているのが自分だという自覚
悪い、つまり「自分ではない」と思っていたものが自分であるということを伝えた。
そして、それが極まっていくと人は孤独になるということも伝えた。
では我々は、どうしていけばいいのだろう?
まず、書いたように悪を産み出しているのは自分だと自覚することだ。
自分が『特定の状況の中の見たくない自分を否定するために』所有するようになった。
その所有は所有のためではなく、自己否定のためであった。
単純に言うと、要は「自分はよくない奴で、それを解決できないから所有によって気を紛らわせよう!」という話なのだ。
それは何故、成金が夜の仕事をしている人がブランドを持つのかを考えれば明らかである。何故、不細工なおじさんが美女をお金で買おうとするのかを見れば明らかである。
ブランド品を持てば自分も何か上品で、高貴な存在になれるのではないか?
美女を抱いて身も心も1つになれば、自分も同じように扱われるのではないか?
だが、それは勘違いで、自己否定の補いの為に所有すれば、より否定したい自己が浮き上がるばかりである。
そんな大きな勘違いが、欲求として繰り返される消費に出てくるのである。
繰り返す。
そんなのはただの勘違いだ。
お前はお前のままである。
そのことから目を背けるな。
本心に気付く
では、その所有、つまり補いから解放されるためにどうしたらいいか?
まずは前述のとおり、目を背けている自分に気付くこと。
そして、何から目を背けているかに気付くこと。
どんな過去があって、どんな自分が嫌で、そんな自分に出会ったから、今自分は必死に生きてきたのか、自分の人生を改めて観察すること。
そして、弱い自分を隠すためだけに生きているということを自覚すること。
そうしていく内に、過去の辛かった自分や、それを否定して今も頑張っている自分を見つけられるのではないだろうか?
これは当たり前のことではない、血の滲む努力によってなされたものなのだ。
そして自分はそのくらい、過去に辛い想いをしていたのだ。
そのことがあまりに辛く、悪いになっていて、今もそのことを否定しているのだ。
と。
そして、そのように自分を認めたり、受け容れられたりするようになってくる内に、もっと深いことに気付く。
なんでこの人達はもっと頑張らないんだろう?
俺はあんなに頑張ったのに。
なんでこういう状態のままでいられるんだろう?
そう、ある側面では『そのままの状態で居られることへの嫉妬』なのである。弱いまま生きられる、それが許される、それを悪いとも思わないその心に嫉妬しているのである。
その嫉妬に気付くと、更に気付けることがある。
この人達にもっとよくなって欲しい。
自分と同じようになって欲しい。
そうしたらきっと幸せなのに。
この人達が、自分と同じような状況なのに、自分と同じように努力しようとしないことが寂しい。
ということに。
努力した人が、そうでない人を見下すのは寂しいからである。
だが、その寂しさを認めると『負けた』ように感じる。
だから、頑張った人はこれからも頑張ることでしか、自己表現できない。
だが、その人は頑張ったのに孤独で、ただ寂しいだけなのである。
何故無欲になるのか
人は成熟していくと、様々な物を手放すようになる。
それは何故か?
前述したように、自分が所有しているのは自分が補っているからで、その奥には隠したい自分がいて、その裏には様々な感情があるからである。
努力を認められなくて寂しかったとか、
何かを達成できなくて悔しかったとか、
親に褒められなくて寂しかったとか、
モテなくて悲しかったとか、
バカにされて悔しかったとか……
そういう、感情が全ての発露なのである。
その感情を押し殺したとき、我々は自分を隠し、何かを敵対視し、何かを所有し、自分を守ろうとする。
それがいつしか肥大して、自分でもわからなくなった時には、人はすさまじいまでの何かを身に着けている。ブランド物とか、不似合いに高い車とか、使わないくらい広い家とか。
人はそういうものに羨望するから、誰も補いの自分に目を向けない。
だが、気付いた人は勝手に質素になっていく。
所有するほど、身動きが取れなくなっていくことに気付くから。
自分の欲深さを見る時には、過去に置き去りにした感情がないか、振り返ってみてはどうか?
読んでくださり、ありがとうございました。
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