こどもの頃家が嫌いだった理由ーパチンコ依存症の母親
こちらは「家が嫌いだったこども時代の話」の続編。
私が子供のころ誰にも言えない秘密があった。
母親はパチンコ依存症だった。
私が小学生の頃、車で30分くらいかけてゲームセンターへ連れて行ってもらった。母親、妹、私の3人で。
そこはパチンコ屋も併設されていた。
私と2歳差の妹はゲームセンターでメダルゲームを楽しんだ。
1000円札を2、3枚ずつ受け取り、母親はパチンコ、私たちはゲーセンでという当初の私にとっては楽しい時間だった。
お金がなくなるとパチンコ店の母親の姿を探してもう1000円ずつもらったり。
一度行けば4~5時間は当たり前だった。
父親はもちろん知らない。休日出勤の日もあったからそのタイミングで遊びに行っていた。
その頃は母親はこれでも自制がきいていた。
ある休日には私と妹にいちご🍓を1パックずつ置いて自分はパチンコへ出かけることもあったりした。
まだ小学生だった私は、パチンコ依存症の存在など知る由もなかった。
それが、だんだんと平日家に帰ってもいるはずの母親がおらず、
夕飯の時間になったころに帰ってきて、父親には美容院で遅くなったと嘘をついたりするようになった。
もちろん私はその嘘がわかる。対して変わらない髪型とタバコの匂い。
両親は本当に会話もなく、父親が休日で家にいる時間ほどしんどいものはなかった。ストレスだった。
生活費は全て父親のお給料からだった。
この時、母親は週5日パートをしていたが、その全てをパチンコにつぎ込んでいったのだろう。
もちろん、父親もわかっていたはず。たまーに、少しは金を出せとけんかをしていた記憶がある。
自分のパート代をほとんどパチンコにつぎ込んでいたにも関わらず、サラ金から借金もたくさんあった。
娘の私や妹にもカードを作らせた。
母親のいいなり。
それを母親が管理して返済していたが、もちろん返済が間に合わなくなる。
高校時代バイトで稼いだお金も母親に貸した(もちろん戻ってこない)。
そんなこんなで高校を卒業し、アメリカへ。
アメリカで3年間生活したが、1年に1度、冬休みに帰国していた。
自宅から車で40分ほど離れた駅に迎えに来てもらうのだが、
そんな1年に1度の娘の帰国の日にも夜までパチンコに明け暮れていた母親だった。
二十歳そこそこの私はかなりのショックだった。
パチンコ店は夜10時まで営業している。
娘の帰国日だって夜10時頃帰宅。
終わってるな、私の母親は・・・本当にそう思った。
父親はもちろんパチンコばかり行っている母親をかなり怒っていた。
母親は友達の家に行ってきた、とか、近くの実家へ顔を出してきた、とかわかりきった嘘を何度も何度も繰り返してきた。
父親は母親の後をつけて、行先のパチンコ屋を突き止めたりした。その場では何も言わない。帰ってきても何も言わない。どれくらいの頻度で行っているか自分の目で確かめていた。
それを知る子どもの気持ちとしては、常に苦しかった。
やっぱり家は嫌いだった。
1年に一度帰国しても家にいたくなかった。
帰国した理由は日本食が恋しかったから。ただそれだけ。
ホームシックなんて一度もないわけだ。
両親の会話はなく・・・そう、家庭内別居ってやつだったんだな。
本当に苦しい苦しい日々だった。
パチンコ屋の存在を心から恨んだ。憎かった。この世から消えてほしかった。
続く
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