『もうひとつの眼 / もうひとつの身体』儀礼空間でみつけた眼
池袋駅の西口から左に進んで大通りを渡ると、繁華街の喧騒は一気に遠ざかり、静かな住宅街へと入って行く。よく晴れた日曜日の午後、向かい側から結婚式の帰りと思われる人々とすれ違ったほかに、ほとんど歩いている人はいなかった。
地図を片手に向かっているのは「自由学園 明日館」。重要文化財に指定されている建築物で、建物見学や結婚式、音楽会や公開講座などで利用されている場所のようだ。小さな建物で住宅街の中に溶け込んでいるけれど、歴史を感じる外観にスッと背が伸びる。芝生の整えられた庭では、結婚式の主役たちが写真を撮っていた。さて私の行く場所は、と思っていると、少し先に人の列ができていた。「明日館」の向かいにある講堂が、今日のイベント会場だ。
先日、舞踏家・最上和子さんの映像作品を見に行ったときに「今度は撮影現場に立ち会ってもらう、というイベントを企画しています」とのお話があり、申込開始を待ち構えて手にした現地参加チケットを握りしめ、当日を迎えたのだ。
講堂に入ると中央にクレーンカメラが設置されていて、レンズの先にある敷物がステージになっているようだ。クレーンカメラとステージを細長い半円で囲むように座布団が置かれ、客席となっている。最上さんを知ったときからずっと、いつか生の踊りを見たいと思っていた。ようやくその時がきた、と近くで見れる場所に席を取り、開演までの時間を待っていた。
板張りの床、高い天井、そして大きな窓がとても印象的な場所だ。撮影というから夜とか暗い場所をイメージしていたけれど、開演は15時、太陽の光がたっぷりと差し込んでくる時間だ。こんなコントロールの効かない環境でやるんだなあと、撮影者である飯田将茂監督の度胸に感嘆する一方で、ここで踊るのはどれほど気持ちいいだろうと妄想を膨らませていた。
開演時間になると、飯田監督が静かに登場し、カメラの位置へ進む。開演ブザーも暗転もない。監督の動きと観客の集中が、その場の空気を本番のものへと変えていく。
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カメラは後方から客席の頭上を通り、レンズをセンターに構えると、ぐっと首を持ち上げた。カメラの眼と観客の眼が上を向くと、そこに人形を抱えた最上さんがいる。舞踏は音に合わせて踊るわけでも、照明がカチカチと切り替わるわけでもない。二階に佇む二体の姿をただ見つめるほかに、できることは何もなかった。
立つ、歩く、階段を降りる、歩く。踊り手の足というのはとても雄弁で、その人の踊りを、身体を一番よく表すように思う。最上さんの足は小柄な身体にくらべてアンバランスに感じるくらい力強く、大地をがっしりと掴みながらゆっくりと、ときに小刻みに動いてステージに向かう。窓から差し込む太陽の光が、青い衣装をキラキラと輝かせる。
僅かな動きとダイナミックな光の反射、その一方に広がる影。一歩進むごとに海のうねりが巻き起こるようだ。ステージに座したところで、踊り手は抱きかかえた人形と対峙し、何者であるかを探るように触れながら、動かしては整えることを繰り返す。大きな手だなぁ、と映像作品を見たときも思ったけれど、人形のみならず最上さんの手も大きく見えた。踊り手は言葉を発さない分、視線と手の仕草が多くを物語る。大きな手は宝物だ。人形の眼は、後頭部にぽっかり空いた空間からさまざまな光を通して黄色く青く変わっていく。当然のことだけれど、自然光だけではなく照明機材もステージを照らしている。しかし眼の色を通してようやく思い出すくらいの存在感だった。
人形と対峙する踊り手と、それを追うカメラ、それらを見つめる観客。人形の関節を動かすガリガリという効果音のほかはシンと静まっている。どれほど時間が経った頃か、踊り手の表情が突如柔らかくなった。私はステージの真横の位置にいて、向かい合う二体の横顔を見つめていた。人形をゆっくりと持ち上げるように動きながら、微笑むような祈るような、恍惚とした表情に釘付けになり、そのあとのことはあまり覚えていない。
いつしか終わりの時が訪れていた。二体は仰向けに並び、照明が落ち、少し弱まった太陽の光が空間全体を柔らかく包み込む。終演の声がかかり、静かに日常の空気へと戻っていくけれど、魂はまだ取り残されていて、うまく空間と馴染まない。でもその曖昧な感覚がとても心地よかった。
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休憩の案内をうけて立ち上がる観客、クレーンカメラの片付けを始めるスタッフの動きでようやく日常を取り戻したけれど、トークショーのために再び登場した最上さんに照明が当たると、またほんの少し異空間になったように感じた。
最上さんは「舞台には興味がないけれど、儀礼はとてもわくわくする」と話されていた。演者は客を見て、客は演者を見るのが舞台、儀礼は演者も客も同じ何かを見ているものだという。いわれてみれば、私の眼は、はじめは一生懸命にそこにあるものを、そこで起こることを見ようとしていたけれど、いつの間にか見るという意識は消えて、眼を失ったような、もしくは全身が眼になったような感じがしていた。毛穴で見つめていた、というような感覚だ。
対峙するということは、そこに裁きが生まれる。目の前のものは何者か、と探るのは危機回避の本能でもあり、審判する快楽もあるのだろう。しかしお互いに見て触れて、距離を縮めていく中に、一体になる瞬間が訪れる。裁く欲望も必要性もなくなると、対象を見るという意識は薄れて、対象と一体になっていく。
私の見ていた横顔は、二体が一体になった瞬間だったのかもしれない。それを見ていた私も、いつしか境界線を飛び越えて、そこに参入していたのだろう。「儀礼参入の権利」と名付けられていた現地参加チケットの深い意味を、ほんの少し味わえたように思えた。
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さて、そういえばカメラの存在をすっかり忘れていた。ステージの真横にいたので、カメラは視界の片隅に、時折り登場するような状況だったけれど、カメラとステージを共に捉える位置にいたら、一体どのような体験だったのだろう。これを書き上げるまではなるべく見ないようにしていた、ともに参入していた方々の感想をゆっくり読んで、想像を膨らませてみようと思う。
そして当日配信されたアーカイブ映像も、この後じっくり味わいたいと思う。
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