
人と人とがわかり合うとは-小説『アタラクシア』感想
「何を考えているかわからない」「思っていることは言葉にして」。そういわれるたびに、縮こまっていった。思っていることを言葉にするのは本当に難しい。なんて言ったらいいんだろう、と考えるとさらに言葉が出てこない。言葉にしなくてもわかってほしい、という思いと、どうせ言葉にしたってわからない、という思いでいっぱいになり、どんどん口を閉ざしていった。
『アタラクシア』を読んで、そんなかつての自分を思い出した。この小説は章ごとに一人称が変わり、冒頭に登場する由依を中心に6人の視点で話が進む。夢を追いかけて渡仏し、その夢を諦めて日本に帰国、その後結婚した由依は、自分の意思が人生を決定づけるという信念を嫌悪し、昨日と今日の連続性に懐疑的だ。それゆえに友人には理解されず、家族から敬遠され、夫からは主体性がなく輪郭でしか掴むことのできないドーナツの穴のようだといわれる。
由依は自分の言葉を話さない。決して寡黙なわけではないが、夫・桂に言わせると「ポリティカルコレクトネスに則っているかと思うような過剰に何かに肩入れして言及しないよう気をつけているような言葉」が多い。由依の周囲の人々は、理解しようと言葉をかけるが、話せば理解できるとは思っていない由依との会話は、どこか噛み合わない。この噛み合わなさに、由依に表される「西洋」的な思考と、彼女の周囲の人々に表される「東洋」的な思考とのすれ違いが描かれているように思えた(西洋人、東洋人ということではなく、あくまで思考の傾向としての西洋的、東洋的という意味)。
東洋での「話せばわかる」とは、言葉を交わしてわかり合うよりも、情を交わすことを求められるように感じる。一方西洋では、理解し合うために言葉を駆使し、課題を設定して徹底的に議論し、情の入る余地はない。前者は人と人とが理解し合えることを前提としているが、後者は理解し合えないことを前提としているのだろう。この差は大きい。
私は由依に共感したわけではないが、彼女の突き放すような語り口と会話の噛み合わなさが自分のことのように思えて、過去を振り返らずにはいられなくなった。
私の母親は若い頃、オーストラリアにホームステイをして、西洋的な価値観にとても感化されたらしい。50年近くも前のことだから、今では想像できないほど新鮮に感じたのだろう。その価値観を意識的に教え込むようになったのは、私が社会人になってからのことだったと思う。20年くらい前のことだ。
「自分のことは自分で責任を持ちなさい」
「要求があるなら根拠を提示して合意させなさい」
それまで情と馴れ合いの中でぬくぬくと生活し、これからもずっとそうだろう、と思っていた私にとっては衝撃だった。仕事ならわかるが、家族でもそういうものなのだろうか。寂しさや疑問を感じてはいたが、口にすることはできず、必死で吸収しようとした。家族といっても他人だ、言葉にしなければ何もわからない。そう考えることが自然になり、思ったことを口にするようになっていった。同時に、相手に対して「思っていることは言葉にして」と求めるようにもなった。
日本で生まれ、家族や共同体、積み重ねてきた繋がり、情と馴れ合いに重きをおく東洋的価値観で育ち、あるときから母親を通して個人主義、契約主義をベースとした西洋的価値観を吸収してきた。20年前に比べたら随分と西洋的な考え方が浸透してきたように感じるが、私の個人主義的な語り口は、周囲の人々と噛み合わないことも多く、「理解できない」「理解してもらえない」と思われがちだ。なぜだかずっとわからなかったのだが、そう思う人たちは、きっと理解ではなくて共感を求めていたのだろう。「共感できない」「共感してもらえない」という意味だったのだ。
共感を否定するわけではないが、共感欲求を前面に出されたとき、それを言葉で押し返してきた自覚がある。ちゃんと言葉で理解したい、その後に、共感できる部分はめいっぱい共感したい。本書を読んで、心の奥にあった欲望に気づかされた。
由依の言葉は、不倫相手の瑛人に向けられるときだけ、感情が込められて人間味がある。恋愛対象なのだから当然と思っていたが、二人の間には、本質的に人と人とはわかり合えない、という共感があるのではないか。
この小説は、著者の金原ひとみさんがパリに移住していたときに書かれたそうだ。多様な価値観が渦巻く移民社会で、どれほどのすれ違いを味わい、乗り越えてきたのだろう。その一端を垣間見たような思いがした。
今後、日本がどのような人々を受け入れて、どのような社会になっていくのかはわからない。人を理解することはとても難しく、文化が違う場合はなおさらだ。人と人とはどうしたらわかり合えるのか、わかり合うとはどういうことかを考えるきっかけとなった一冊だった。