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音のないひととき
自宅から歩いて5分ほど、車の行き交う大通りから脇道に入ると、すっと静かになる。人通りは少なく、周りは家と畑ばかり。スニーカーの足音すら響きそうだ。風が吹くとふわっとコーヒーの香りが漂ってくる。
香りのもとを辿ると、自家焙煎の小さなコーヒー屋さんがある。明るすぎず渋すぎず、カフェとか喫茶店というよりも、「コーヒー屋さん」というのが合うような、私のお気に入りの場所だ。
午前中から昼過ぎが焙煎タイムのようで、店内に響く焙煎機の音が心地よい。そういえば、この店にはBGMがない。
カフェ、レストランなど多くの店はBGMを流している。音楽はその店の雰囲気づくりに大きく影響し、会話や生活音などのノイズをかき消す役目もある。
たとえば、多くの人で賑わうカフェは、隣の人と会話できるくらいの音量で軽快な音楽を流し、周囲の声や雑音をかき消している。昔ながらの喫茶店では、静かにジャズピアノが流れ、会話は自然と控えめなものになる。BGMのあるのが当たり前かと思っていたけれど、無音にこだわった私語厳禁のカフェ、期間限定で無音の日を作るカフェ、などあえて無音にする店もあるようだ。
街中ではあらゆる場所で音楽が流れていて、気づかないうちにその雰囲気に呑まれて自分のペースを失ってしまうことが、よくある。そんなとき、リラックスさせてくれる音楽に浸るのも良いけれど、音楽をなくしてみるのも一つの選択肢だ。近くに無音の店がなくても、音楽のない空間はある。
近くに川や林があったら、イアホンを外して歩いてみる。すると、水の流れる音、葉っぱの擦れる音、鳥の鳴き声や虫の羽音が耳いっぱいに飛び込んでくる。自分の足音や呼吸の音を重ね合わせていくと、自分だけに聞こえる合奏が始まる。
または家の中で、テレビやラジオ、音楽を消してみる。車が走る音、自転車をこぐ音、窓にぶつかる風の音、水道を流れる水の音、火の点く音、お湯の沸く音、食器のぶつかる音。今日のおやつにときめく鼓動の音…はさすがに聞こえてこないけれど、飛び跳ねるようなリズムはたしかに生まれている。
自然の音、生活の音、そういったなんの意図もない音に囲まれることで、急かしたり揺さぶったりしてくる外側のものを払い落とし、自分の内側にあったリズムを取り戻すことができる。
☕️
私はライフワークとしてダンスをしているが、踊りでも同じようなことが起こる。
踊りには音楽が欠かせない。音に合わせて体を動かし、リズムとピシッとあったとき、メロディーと一体になっているときは、踊る側も見る側もとても気持ちがいい。それが醍醐味ともいえるけれど、音楽に振り回されてしまうことも度々ある。そういう時は、一度無音で踊ってみる。
ちなみに表現として無音で踊るものはあり、舞踏というジャンルでは一作品を無音でやり切ることも多い。私は長時間の無音は好まないけれど、必要なシーンで少し長めの無音が入るのは好きだ。
音楽で踊る時は、その曲のリズムとメロディーが踊りの方向性をある程度決めてくれる。でも無音で踊るとなると、すべてまっさらからつくり出さないといけない。速さも雰囲気も、自分の体の動きだけでつくり出す。
このとき頼りになるのは自分の呼吸の音だ。ゆったりしたいのか、飛び跳ねたいのか、立ち止まりたいのか。自分の呼吸を聞き、体に問いかけ、そこから想像を膨らませていく。広い海を眺める自分、山を駆けるうさぎ、樹齢一千年の大木。イメージから自分の中に音が生まれていく。風とともに押し寄せる波の音、木々の間を走り抜ける足音、根っこからぐいぐいと水を吸い上げる音…。体内で生まれた音が体を動かしていく。
シーンA:海
床は砂浜のように暖かく柔らかく、全身の力は抜けて、視界は何百kmも先の水平線を見つめる。力が抜けると体は重く感じる。風を受けながらゆっくりと歩いて海の中へ潜り込んでいく。浮力で(実際は床に寝転んで)体が軽くなる。魚のように背骨を動かして水の中を進んでいく。ゆったりしたリズムが全身を緩ませる。
シーンB:山うさぎ
床は落ち葉でふわふわの山道。四つ足になると骨盤にグッと力が入り、両脚の筋肉が全身を支える。重力に逆らい、木々を避けながら前脚と後ろ脚を交互に出してぴょんぴょんと前に進む。軽やかなリズムが生まれていく。
シーンC:大木
足は地中深く広く根を張って、腰から下にずしりと重みを感じる。たっぷりと水を吸い上げ、指の先まで送り込む。全身の血流がよくなる気分だ。風が吹くと上半身が揺れ、ハラハラと葉が舞い落ちる。足はどっしりとしたまま動かない。上半身と下半身はしっかりとつながりながら、別々の表現をする。
一度動き始めたら、イメージの湧くままに様々なシーンを渡り歩いていく。火山や氷の上も面白い。バクテリアや恐竜にもなれる。そのたびに動きが変化し、新たなリズムが生まれ、それがそのまま踊りとなっていく。イメージが止まったら、また呼吸の音を聞くところから始める。少しの時間でもこんな動きをしてみると、自分のリズムを取り戻すことができる。
この感覚をつかんでから改めて音楽で踊ってみると、まったく違う動きが生まれる。音楽に振り回されず、かといって無視するのではなく、自分のリズムを保ったまま音楽にのる。音は空気を伝わるのだから、体の動きがずれるのは自然なことで、ピシッと合わせることに気を取られて自分のリズムが崩れるより、わずかに外れても自分のリズムが保てているほうが、踊るのはもちろん、見ていても気持ちが良い。
☕️
ペースが乱されていると感じたときは、音楽をかけずに呼吸の音を聞いてみる。よかったら試してみてほしい。家の中でも、川辺でも、BGMのないお店でも。そして体を動かしたくなったら、無理のない体勢で動いてみてほしい。両手をあげるだけでも、視線を遠くに向けるだけでもいい。自然の音、生活の音、体内の音に耳を傾けるだけで、何気ない動作も、自分にしかできない動きとなっている。
さて今日は、コーヒーを飲んだら川沿いを歩こう。どんな音が聞こえてくるんだろう、どんな合奏が始まるんだろう。心がぴょこんと飛び跳ねている。