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私は何者なのか ep1

おはようございます。tidanomiyuki です。

早速ですが、続きを書いていきたいと思います。
▼前回の記事はこちら

前回は、幼少期の頃のことを書きました。
八重山の自然の中でのびのびと遊んで過ごしていました。

私の楽曲の中に、幼少期の頃の風景を描写した曲も何曲かあります。

ギターとの出会い

曲作りが止まらなくなったのは、中学3年生の頃から。
兄のギターを借りて、コードを教えてもらったのがきっかけでした。

「ピアノよりめっちゃ簡単!」

というのが最初の印象でした。
(いやいや、ギターもいろんなテクニックあって奥が深いし、
全然簡単じゃないんですけど。笑)

最初の曲は、わずか1、2時間で完成しました。
自分の部屋で閉じこもって、めちゃくちゃチムドンドン(沖縄方言:胸どきどき)して作ったのを覚えています。

曲が生まれたあとは、とても不思議な感覚でした。
大袈裟ですが、この世界に、なにか変革でも起こしたような
そんな気分でした。

達成感、満足感、幸福感、どれも溢れ出ていました。

高校生になると、毎日学校にギターを持っていっていました。

登校は、いつも父に送ってもらっていたので、
片道30分、車の中でギターの練習をしていました。

(今考えると、ほんと不思議で、どんな女子高生やねんってつっこみたくなります笑)

そして、高校1年生の時の誕生日に、姉がアコースティックギターをプレゼントしてくれました。

そのギターはかれこれ20年以上経ちますが、今でも大事に使っています。
上京した時も、渡英したときも、ちょっとした旅先へも
いつも持ち歩いていました。

ここだけの話、名付けている愛称は、「カルア」といいます。

音感

私は小さい頃から歌うことは好きでしたが、音感はあまりよいほうではありませんでした。

大学4年生の頃からオリジナル曲を人前で歌うようになりましたが、
当時つきあっていた彼から「聴いてて気持ち悪い、暗い」と言われることもありました。

歌の自信はなくしていく出来事のほうが多かったのですが、
それでも歌うことを続けていました。

ボイトレに通った時期もありましたが、私にはあまり合いませんでした。

うまくなりたいという気持ちはあったのですが、いろいろと試行錯誤をしながら歌っていくうちに、自分らしい歌声からは、どんどん遠ざかっていきました。

すっかりよく分からなくなった頃です。

お家の近くにあった八重山民謡の三線教室がきっかけで、
だんだんと自分にあった歌い方を身につけていくことができるようになっていきました。

八重山民謡の第一人者宮良康正先生が、
三線を通して、表現力も含めて、心に響く歌い方を教えてくださいました。

その頃から、ライブを見に来たお客さんからも褒めていただける機会が増えていったような気がします。

(つづく)

次のエピソードでは、「シンガーソングライター」について綴っていきたいと思います。

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