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『シャマー・イスラエル』

2024年9月1日

 今日もルカによる福音書からお話しさせていただきたいと思いますが、正直言うとどこから話をしようか最後まで迷いっています。これを書きはじめている今でさえ、自分で何を書くのか解っていないのですが、神にゆだねて先週の続きからお話しさせていただきたいと思います。
このルカによる福音書のキリストとファリサイ派の人々の間のやり取りは独立した話ではなく、ひとつの流れのなかで記されておりキリストが12弟子を選ぶところもその流れのなかの一部になっているように思います。

■ルカ6:6~13
また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。

今回も安息日の話になりますが、ユダヤ人会堂(シナゴーグ)でキリストが教えられていた時にひとりの右手が麻痺して動かない人がそこにいました。この人は伝統的に職人だったとされていますが、本当にそうだったのかは聖書に書かれていないのでわかりません。ただ、恐らくこの人は会堂の中に普段は入れてもらえてなかったのではないかと思います。障害を持つ人たちは差別され罪人として扱われていましたので、会堂のなかにいるというのは不自然な話で、ファリサイ派、律法学者の人たちがキリストを非難するために会堂のなかに招き入れていて、キリストに癒してもらうよう言われていたのではないかと思います。
本当ならこの右手が萎えていた人は「癒してください」と言いださなければならなかったのですが、キリストがファリサイ派や律法学者の人たちが仕組んだ罠を見抜いて、先にこの人に声をかけたのではないでしょうか。彼らは安息日にキリストがこの人を癒す仕事をする現場を押さえるためそこにいました。
ところが、右手が萎えていた人は一方的に「手を伸ばしなさい」とキリストに言われて、手が癒されたのです。
キリストはそう言っただけですからはっきり癒しを行ったことにならなかったのだろうと思います。彼らの罠は空振りに終わり、激しく非難されたことで面目も潰される結果になったのです。
そして、この件でファリサイ派や律法学者はキリストを何とか殺そうと画策するようになったというのです。

新共同訳聖書ではこの話の後、「十二人を選ぶ」という小見出しで区切られているのですが、彼らがキリストを殺そうとしている時にキリストは山に登って祈り、夜を明かして弟子を選んでいます。
ルカはこのタイミングで弟子を選んだと記しているように思えるのですが、何か関連性があるのでしょうか。

皆さんはどう思われますか。


【まとめ】


イスラエル人にとって右手というのは長子の権利の際の祈りなどに代表されるように神の祝福の象徴でした。ですから、この右手が萎えていた人は神の祝福に遠かった人といえるかもしれません。彼はキリストに声をかけられた時に「身を起こして」とあるので、単に座っていたのではなく身を横たえていたのかもしれません。それは物乞いだった可能性があります。利き手が使えないために仕事をすることができなかったのではないかと思います。普段は入ることが許されない会堂のなかに連れて来られ、隅の方に置かれていたのかもしれません。場違いな状況に彼自身も戸惑っていたのではないでしょうか。
キリストはその彼を呼び、「立って、真ん中に出なさい」と言われました。シナゴーグの講壇の真ん中には何があったのでしょうか。そこには律法の巻物が置かれており、「שְׁמַע יִשְׂרָאֵל(シャマー・イスラエル)」と記されていました。「シャマー・イスラエル」は「イスラエルよ、聴け」という意味で、申命記6:4、民数記15:37~41に代表される言葉であり、ユダヤ人が祈りのなかで最も重要だと考えていた言葉なのです。
 
■申命記6:4~9
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。

その場所に右手が萎えていた人を立たせたキリストは「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」とファリサイ派、律法学者を糾弾したのです。会堂にいた人たちは皆、恐らく彼らがキリストを陥れようとしていたことを知っていたのではないかと思います。マルコによる福音書の同じ記事を読むとキリストが彼らのかたくなな心を悲しんだと記されています。(マルコ3:5)
「イスラエルよ、聴け」というのは神の祝福だった筈です。ところが、祝福から遠ざかっていた右手が萎えていた人が引き寄せられ、最も近くにいたはずのファリサイ派、律法学者は神の祝福から遠い状態に置かれたのは皮肉な話です。当初、彼らはキリストがメシアかどうかを確かめるためやってきていたのですが、彼らのかたくなな心が妨げとなり、敵対することが決定的になっていったのです。

以前、このバイブルクラス『律法が証明するキリスト』のなかでもお話しさせていただきましたが、申命記には神によるゲリジム山とエバル山での祝福と呪いが記されています。神の約束が成就したときに彼らは聴き従わず、呪いを選んでしまったのです。また、イザヤは彼らについて預言しています。

■イザヤ28:11~13
確かに、主はどもる唇と異国の言葉でこの民に語られる。主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。それゆえ、主の言葉は、彼らにとってこうなる。「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ(命令に命令、命令に命令)カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ(規則に規則、規則に規則)しばらくはここ、しばらくはあそこ。」彼らは歩むとき、つまずいて倒れ打ち砕かれ、罠にかかって、捕らえられる。

彼らがキリストを殺そうと相談していた時、キリストは山に登り夜通し祈っていました。それは弟子たちを選ぶためでした。このイスラエルの12部族の数と同じ12人というのは偶然ではなく、キリストを信じる者が祭司の民としてイスラエルに替わったことを示しているのだと思います。

ですから私たちは救いが成就し神の約束が成された今、祭司の民、霊的なイスラエルとして神に聴き従わなければなりません。祈るときに最も大切なことは自分の考えや計画を置いて、神が語られる言葉に耳を傾けることです。

シャマー・イスラエル(イスラエルよ、聴け)

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