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『神の言葉によって生きたものとなる』

2024年7月7日

 今日は7月7日、七夕です。七夕の話は奈良時代に中国から伝わったとされていて「牛飼いの星」といわれ農業に従事する彦星と庶民であった「機織り姫」といわれる織姫が年に1度だけ会うことを許される物語で、まじめに機織りのため自分の時間を犠牲にしていた織姫が神の憐れみによって彦星と出会うことにはじまります。
この物語を聞くと私は七週の祭(シャブオット)を思い起こします。関連性はないのですが七週の祭はボアズとモアブ人であったルツの結びつきを祝う祭りで、イスラエルにとって異邦人が無関ではないことを示します。ボアズとルツからダビデ王が生まれ、キリストに繋がり先週もお話しさせていただいたように、神殿の境内で初子の捧げものをした際にシメオンが幼子のキリストを抱き「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」と証しました。(ルカ2:25~28)キリストの犠牲はすべての人を贖ったのです。

さて、今日はルカによる福音書のなかから、キリストが悪魔から誘惑を受けた時の話をさせていただきます。ルカによる福音書にはキリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことが短く記されています。(ルカ3:21~22)その後、荒野を40日も霊によって引き回されます。

■ルカ4:1~12
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

キリストがヨルダン川で洗礼を受けた時、天から聖霊が鳩のように降ってきたとあるのに直後、荒野を彷徨うことになります。ここの「“霊”によって引き回され」というのは聖霊によるものなのか、悪魔によってということなのかはよくわかりません。マルコによる福音書ではそこに「天使たちが仕えていた」とありますが、少し遠巻きに見守っていたということなのかもしれません。
この荒野の誘惑なのですがキリストは神の子ですから悪魔の誘惑に負けてしまう筈はなく、言ってしまえば出来レースのような気がします。「悪魔よ。面倒くさいからあっち行け」と言えば済んでしまったのではないかと思いますが、何の意味があってキリストはこの誘惑を受けられたのでしょうか。

皆さんはどう考えられますか。


【まとめ】


以前、教会の受洗講座の中で「なぜキリストは洗礼を受けたのか」という質問がありました。
パウロはキリストを「初穂」と表現していて、それに続くものは私たちクリスチャンです。ですから、人として来られたキリストは私たちが模範とするべき型でもあります。キリストが洗礼を受けたのは出エジプトでイスラエルの民が海の中、またヨルダン川を通った際に自分の所属するところをはっきりと示すためでした。

■ヨシュア24:14~15
それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます。

出エジプトでイスラエルの民が神に仕えることを選んだ結果、荒野での40年の旅が意味あるものとなったのです。イスラエルの民が荒野で彷徨ったのはキリストが荒野で誘惑を受けたことと完全にリンクしています。
私たちがキリストを信じて洗礼を受けた時に悪魔の誘惑はやってきます。キリストが悪魔の誘惑を受けたのもその初穂の型のためです。

では、悪魔の誘惑を受けることに何の意味があるのでしょうか。
これは旧約聖書の時代に神がどうしてイスラエルの民を40年間も彷徨わせたのかということに関係していると思います。勿論、彼らは自分たちの罪のために彷徨うことになったのですが、それは神の想定内の計画でもありました。

■申命記8:2~5
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。

キリストは荒野で空腹になった時、石をパンに変えればいいじゃないかという悪魔の誘いに申命記を引用して答えています。続く言葉には「主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせる」とあります。

荒野でのできごとはクリスチャンにとっての今、現在なのです。
私たちはこの地上を生きるにあたって不自由ない生活を送れることに越したことはないですが、それだけでは「主の口から出るすべての言葉によって生きる」という言葉の本当の意味を知ることはできません。誘惑や試練を通されることは主の訓練であり、私たちが各々、この地上で神から与えられている歩む道の意味と目的を知るためです。

誘惑による揺さぶりや激しい試練にあうとき、「どうしてこんな目に」と思うかもしれませんが、神があなたの道を示されようとしていて、あなたを子として訓練されていることに心に留めてください。

石をパンに変えるかのように食べ物の心配がなく、地位と栄誉を得ることができて、さらに命の保証があればこの世界を豊かに生活することができるかもしれません。でも、それはただ生きているというだけです。
私たちがキリストを追い、神から託されたユニークな道を歩んで神の国に至ることに比較できるようなものではありません。

神の言葉によって生きるということの本当の意味は「神の言葉によって生きたものとなる」なのではないかと思います。

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