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『起きて歩け』

2024年8月11日

 昨日は取手の花火大会があって本当に何十年ぶりに見に行ってきました。今日の話とは関係ないのですが、目の前で打ち上げられて、頭上に広がる花火はいいものですね。

利根川の河川敷から取手の花火を眺める

さて、今日はルカによる福音書から中風の人が癒される話をさせていただきます。この話、マタイやマルコの福音書にも記されていますが、ルカにしか記されていない部分があります。

■ルカ5:17~26
ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

ファリサイ派や律法学者たちがキリストの噂を聞きつけて、なんと遠いエルサレムやユダヤ全土からもカファルナウムへやってきていたというのです。ちなみにエルサレムからカファルナウムまでは190kmくらいあります。それだけ、キリストの噂が早く衝撃的に当時のユダヤ人社会を駆け巡ったことになります。そして、ファリサイ派や律法学者たちが家に入り込み、そのまわりを群衆が幾重にも囲んでいたのではないかと思われます。
中風を患っている人をキリストに会わせようとしていた4人の男たちは困ったあげく、屋根にのぼって屋根伝いにキリストがいる家まで行き、屋根をはがしてキリストの前に降ろしたのです。

中風と訳されているこの症状、ギリシャ語ではπαραλύω(パラリュオー)で「麻痺させる」という意味になります。つまり、脳卒中などの後遺症によって寝たきりの状態になっていた人だと思われます。
この中風の人を挟んでキリストはファリサイ派や律法学者たちと対峙して「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言するのですが彼らの心の思いに対して「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と言われました。

わかるようでありながら…
んっ⁈ 結局、どっちが易しいの??? と、悩んでしまうところだと思います。私も何となく読み流していたこの箇所なのですが、どういう意味でキリストが言ったのか考えてみました。
 
皆さんはこの箇所、どう考えるでしょうか。


【まとめ】


このバイブルクラスで何度も言ってきましたが、この「まとめ」は答えではありません。私なりに考えてみた結果ですので、少し皆さんの疑問の参考になればというところです。
 
ファリサイ派や律法学者たちがやってきていたというのはルカにしか記されていないといいましたが、彼らは座っていたとありますから、本当に助けを必要としている群衆を押しのけてそこにいたのではないかと推測します。それは噂に聞いていたキリストを値踏みするためでした。
もう少し、彼らのことに触れるとエルサレムからやってきたファリサイ派や律法学者たちはガリラヤの地域にいたファリサイ派の人たちよりも人間的な表現で言えば格上だったのではないかと想像します。ですから、そういう人たちがキリストの前に座っていて他のファリサイ派の人たちもキリストの値踏みに注目していたのではないかと思います。病人を癒すキリストの力を目にしながら、彼らは群衆の反応と自分たちの律法の解釈のなかで簡単な判断ができない状態にあったのです。
ですから、心の内で「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と考え口にはできなかったのです。彼らも身動きがとれない麻痺状態にあったといえるかもしれません。また、救いを求める人たちを妨げているという感覚においても麻痺していました。
そこに救いの道を邪魔されながらも恥を捨てて大胆にキリストの前にやってきたのがこの中風の人でした。

さて、この「どちらが易しいか」という疑問ですが、実はどちらを選んでも正解と言えるのかもしれません。
ファリサイ派や律法学者たちの立場で考えると、「罪は赦された」と言う方が断然、簡単です。中風の人に見た目の変化は起こらないので、ただ嘘をつけばいいだけだからです。彼らはその言葉を非難しましたが、皮肉なことにそれは口先だけのファリサイ派や律法学者たちそのものです。
しかし、キリストにとっては「起きて歩け」と言って奇跡を起こす方がはるかに簡単なのです。先週、重い皮膚病(ツァラアト)に冒された人の話をしましたが、ツァラアトを癒された人は恐らく罪を悔い改めず、彼の罪は赦されませんでした。
ですから、ファリサイ派や律法学者たちにとって困難な「起きて歩け」と宣言して中風の人を癒したのです。キリストはこの中風の人に対して困難な「罪は赦された」と「起きて歩け」どちらもやってみせたのです。
一方、霊的に麻痺状態に陥っていたファリサイ派や律法学者たちはどちらの恵みにも預かることができなかったのは面白いところだなと思ってしまいます。ギリシャ語のπαραλύω(パラリュオー)には「麻痺させる」という意味のほかに「ぐらぐらにゆれる」という意味もあるそうです。

■ルカ7:24
あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。

「風にそよぐ葦」というのは考えが定まらない人の例えです。キリストが神の力と権威をもって現れた今、群衆の反応と律法の解釈との間でファリサイ派や律法学者たちは揺さぶられる葦のようでした。夜間にキリストの元を訪ねたファリサイ派のニコデモ(ヨハネ3:1~8)は当時、彼らが置かれた立場をよく示していると言えます。

■詩編62:6~7
わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。

もし今、揺さぶりのうちにあるとしたらファリサイ派のようになってはいけません。癒された中風の人のように霊的な麻痺の状態から起きてキリストとともに歩きだしてください。

起きて歩け。


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