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『神が支配される』

2024年2月18日

今日は前回に続きヤコブの話を続けさせていただきます。
先にヤボクの渡しで神の人と格闘する話はしてしまいましたが、ヤコブがそこでの出来事を通してどのような経験をしたかということを考えていきたいと思います。
話は遡り、父であるイサクさえも騙して兄エサウから長子の権利を奪ったヤコブはエサウに命を狙われたため、母であるリベカによって叔父がいるハランへ逃がされます。その途中、野宿をしていた時、夢を見ます。天まで届く梯子あって天使たちがそれを昇り降りしていました。さらにその夢のなかで神は現れます。

■創世記28:13~15
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

ヤコブは驚きながら夢から覚めると、枕にしていた石に油を注いで聖別して、その場所をべテル(「神の家」の意)と名付けます。この時、ヤコブは「安らかに父の家に帰してくださるなら、あなたを私の神とします」と応答しています。
その後、ヤコブは叔父ラバンの元に寄留しますが、ラケルに出会い7年間無償で働くかわりにラケルを妻にしたいとラバンに申し入れします。ラバンはそれを受け入れ、7年経ってやっとラケルと結婚できるとヤコブは喜んだのですが、結婚したのは姉のレアでした。ラバンはしたたかな人で姉より先に妹が結婚するのは良くないからだと言い訳します。そしてさらに7年働けばラケルをも妻にしてあげようと言うのです。こうしてヤコブは14年間、ただ働きをすることになりました。ヤコブは兄のエサウを欺きましたが、今度は自分が甥のラバンに欺かれたのです。

ヤコブはラバンの元でさらに6年、羊を飼いながら、ラケルとレア、2人の側女との間に12人の子供を得ることになりましたがヤコブには財産がありませんでした。そこでヤコブは婿としてラバンに相談します。それは長年、家畜を世話してきた経験があったからなのかもしれませんが不思議な要求でした。ラバンの持つ多くの家畜のなかでぶちやまだらの家畜のみを自分のものとして与えて欲しいというものでした。これに対しては狡猾なラバンも快諾します。しかし、ラバンはぶちやまだらの家畜を隠してしまいます。
それにもめげずヤコブはぶちやまだらの家畜が殖えて丈夫にそだつような工夫を重ねて努力します。

■創世記30:37~43
ヤコブは、ポプラとアーモンドとプラタナスの木の若枝を取って来て、皮をはぎ、枝に白い木肌の縞を作り、家畜の群れがやって来たときに群れの目につくように、皮をはいだ枝を家畜の水飲み場の水槽の中に入れた。そして、家畜の群れが水を飲みにやって来たとき、さかりがつくようにしたので、家畜の群れは、その枝の前で交尾して縞やぶちやまだらのものを産んだ。また、ヤコブは羊を二手に分けて、一方の群れをラバンの群れの中の縞のものと全体が黒みがかったものとに向かわせた。彼は、自分の群れだけにはそうしたが、ラバンの群れにはそうしなかった。また、丈夫な羊が交尾する時期になると、ヤコブは皮をはいだ枝をいつも水ぶねの中に入れて群れの前に置き、枝のそばで交尾させたが、弱い羊のときには枝を置かなかった。そこで、弱いのはラバンのものとなり、丈夫なのはヤコブのものとなった。こうして、ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやろばなどを持つようになった。

この家畜が増える部分、本当に面白いと思ってしまいます。
しかし、ラバンとの関係はますます悪くなっていき御使いに故郷に帰るよう言われたことで、ラバンの元を逃げ出します。その時にラケルは父ラバンの守り神である偶像物をこっそり盗んでおり、ラバンは7日も追いかけてきましたが、ヤコブとラバンは和解、一族ともに食事をして別れます。(創世記31:22~54)

こうしてヤコブは兄エサウと再会する時を迎えますが、ヤコブは非常に恐れていました。

■創世記32:10~12
ヤコブは祈った。「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。

そのためヤコブは自分の群れを複数に別けてエサウへの贈り物の家畜を僕と一緒に先に進ませ、ヤコブ自身は最後尾にいました。もし、エサウに襲われても逃げられるようにするためでした。
皆を先に行かせてただ一人、残ったその晩に神の人があらわれてヤコブと格闘したのです。

■創世記32:25~29
ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」

ヤコブは腿の関節を打たれたことで足を引きずるようになり、逃げることが難しくなったのです。
私はヤコブという人の生き方がすごく人間らしいと思ってしまいます。皆さんはどう感じるでしょうか。

【まとめ】


私たちもヤコブのように神様に祝福されて恵みをたくさん受けていたいと必死に願い求めることがあります。目の前のことに一生懸命になって生きており、ちょっとしたことで一喜一憂して大切なことを忘れてしまいがちです。
私にも子供が3人おり、生活費などで思い悩んだ末に空回りした経験がたくさんあります。どうやったら神様の祝福を受けられるだろうかと悩んでいるヤコブの気持ちがすごくよくわかります。努力してもうまくいかず、神様は私を見放しているのではないかとさえ思ったことがあります。ですが、そんな3人の子供たちも守られて成長しました。今、思うと「あの時の心配は何だったのかな」という気持ちになります。

ヤコブは長子の権利が重要であることを理解していました。でも、大切なことを見逃していたのだと思います。
ヤコブはべテルで「ここは神の家だ」と言いましたが、私はそのヤコブの理解が間違っているのではないかと思います。べテルという場所は旧約聖書に何度か登場しますが、神の計画において特別な場所としての扱いは見られません。場所が重要だったのではなく、ヤコブがそこにいたから神が御使いを昇り降りさせて守られていたのではないでしょうか。ヤコブは「安らかに父の家に帰してくださるなら、あなたを私の神とします」と言いましたが、神が一方的にアブラハムを祝福されて神となられたので、ヤコブは条件なしの祝福を一方的に受けていたのです。
ラバンの元で20年もの間、無償で働かされましたが、ヤコブは妻と子供たち、多くの僕を養うことができたのです。その時にアブラハムの神がヤコブを祝福されているのをラバンは見て、その恩恵にあずかったためにヤコブを自分のところに留めておいたいと思ったのです。ラバンは狡猾で善人ではありませんでしたが、皮肉にもヤコブを神が祝福されているということをヤコブよりも知っていたのです。
また、ヤコブはぶちやまだらの家畜を殖やそうとして努力しますが、ぶちやまだらのものが生まれるのは遺伝による確率ですからヤコブの努力に意味はなく、まじないのようなものでしかありませんでした。それにも関わらず、ぶちやまだらの家畜が殖えて丈夫に育ったのは神がそのようにされたからです。
ラバンから逃げた時に恐らくラバンは怒ってヤコブを襲うつもりだったと思いますが、その時、ラバンに神が現れてヤコブに危害を加えないよう諭し守られました。

そして、ヤボクの渡しでの出来事が起こります。
ヤコブは自分が祝福を受けていることに気づいておらず、神の人に祝福を求めて抗います。神の人はヤコブの腿を打ったことで抗うことができなくなり、神に支配されることになったのです。ヤコブはエサウから逃げる術を失いましたが、もはや恐れもなくなりました。この時、はじめてヤコブは自分が常に神の祝福を受けていたということを本当の意味で知ったのだと思います。
前回もお話しさせていただいたように「神の祝福」とは何かというと結果が保証されるということなのではないかと思います。人間がどのように道を選択して、時に道を誤ったとしても実を結ぶという結果が保証されているということです。

今日のテーマの「神に支配される」という言葉は不自由を連想させられるかもしれません。でもヤコブを見てください。彼は自分の考えによって自由に行動し、正しい道を歩んだとはいえません。神は僕のように私たちを支配しません。息子、娘として扱われる支配なのです。まわりでどのようなことが起こったとしても、どのような失敗をしたとしても、父なる神は私たちを必ず目的の地まで運ばれます。

■イザヤ43:1~2
あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。


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